たろうの音楽日記

日々の音楽活動に関する覚え書きです。

こどもアトリエ

 

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子どもの頃、結構面白い教育を受けていた。

小学校とは別に、週に一度土曜日、
家からそう遠くない、

「こどもアトリエ」という所へ、通っていた。

 

それは、美大で学生結婚をした夫婦が開いてた、

名前のとおり、子ども向けの絵画教室だった。

この先生夫婦はいい加減なもので、子どもたちに、名前をちゃんと伝えておらず、
皆、仕方なく「女の先生」「男の先生」と呼んでいた。

 

絵画教室といっても、やってることはたいへんゆるく、
どこの町内にもあるような集会所の、やや広めの一室に、
汚れ防止の、黄色いカーペットを敷き、
ド真ん中に野菜とか果物とか瓶とか、平凡なモチーフをポンと置いて、
子どもたちは地べたに座り、
古い画板に貼られた四つ切画用紙に
水彩絵具で見たままを描くだけ。

20人くらいの子どもが常時いたが、
2、3名の中学生も通っていて、彼女、彼らは鉛筆デッサンをしていた。

 

正直絵を描くのはメンドくさく、

はやく終わりたかった記憶しかない。
絵を、どこで終われば良いのか自分では判別がつかず
先生のどちらかが、「うんいいぞ、バック(に色を)塗れ」
と言ったら終わりだった。
(その基準も何なのかよくわからない)
どちらかと言えば、楽しみは、

絵を描き終わった後に、遊ぶことだった。
集会所のすぐ近くには山があり、
何人かの子供で、山に入っては、木登りをしたり、

平らな場所もあったから、そこではキャッチボールをしたりしていた。
男の先生は、子供たちの遊びによく付き合い、
とうより、自分も遊び、
よくキャッチボールの受け手になっていてくれた。

こうなると、もはや、ゆるい絵画教室ですらなく、

子どもたちがたくさん集まって、

わらわら絵を描き、そして遊ぶ、居心地が良い単なる「場所」だった。

居心地が良い理由は、様々な年齢の子供同士で遊べるからだった。
学校で遊ぶのは、同じ歳の子供ばかりで、

自分も平凡な子供の通例に漏れず、
力の強い友達には、少々遠慮しヒクツになり、
力の弱い友達には、強気だった。
条件が同じ人間関係の中で、人によって自分の態度が要領良く
コロコロ変わることに、自身の狡さが透けてみえ、

そんな感覚が日常だったから、学校生活には軽い嫌悪感をずっと持っていた。
アトリエだと、
絵の上手な年上の子は、
疑う余地なく「神」であり「天才」であったから、
手離しで尊敬できたし、
自分を慕ってくる豆粒のような子供の前では、
堂々たる親分を演じることができた。
その解放感は、自分にとって学校という現実からの逃走であり、
週に一度の旅だった。
「異年齢教育」とか「寺子屋」とかいうヤツだが、
情報も今より格段に少ない時代、
先生たちに、特別崇高な志があったわけでもなく、
単に、子供たちと楽しくやりたかったのだろう。
山も、用意したわけでなく、たまたま近くにあったのだ。

 

先生夫婦は大変仲が良く、

どちらがどちらに贈ったのかわからないが、
「こんなステキな人に出会えて…」
みたいなことが書かれた、メッセージ・カードが
床のその辺に、平気で落ちていたりして、
子どもながら、非常にこそばゆい気持ちになった。

女の先生の方は竹を割ったような性格で、
男の先生の方は優柔不断。

 女の先生は、半ば本気で、子どもたちを恐れさせていた。

小さい子供たちの悪ふざけがすぎると、

「見てみい、この油絵用ペンティングナイフの弾力!」
とか言って、悪魔のように笑いながら、

画材道具を武器に脅しててきた。
(もちろん冗談だが)

そして、女の先生は、
子どもたちのお母様方の、良き話し相手だった。

年齢も若かったので、相談役ではなく、五分五分の付き合いだった。
あるお母さんが、
「今度という今度は、ダンナと本気で離婚するとこまで行った!」
というような話を、女の先生にしていた。
ボクもその輪に加わっていたので、
「アラ、タロウくんもいるのに、こんな話ゴメンね」と言われたが
そんな雰囲気が奇妙に面白く、
「いや、ええねん、オモシロイ」と言いながらボクは話しに聞き入っていた。

 

 ボクは、男の先生に感心していた。

いつのことか、
アトリエのにぎやかな様子を嗅ぎ付けて、
全く見知らぬ子供が、顔を出してきたことがあった。
その子は少し要領を得ない、話し方をしていた。
何を話していたのかは、覚えていないが、

その子の背景には、間違いなく、

異世界感みたいなものがあった。
子どものボクでも、背中に少し寒いものを感じた。
ところが男の先生は、
全く意に介さず

「よう」というような感じで、
その子が全くおなじみであるかのような応対をし、
彼女は笑顔こそ見せなかったが、とても心を許したのが、わかった。

アトリエ以外の場所でも、
ボクが散髪をしているときとか、
男の先生は、どこからか、
ボクが床屋にいるという情報をかぎつけ、
サイクリング自転車に、レイバンのサングラスという、
颯爽とした出で立ちで、現れて
青光りするスポーツ刈りと化したボクに向かって
手を振ってきたりしていた。
床屋のお姉さんが、
「あの窓の向こうで手を振ってる、おっちゃんみたいな人、友達なん?」
と尋ねてきたから、
ボクは迷わず
「ウン、友達やで!」
と答えた。

 

あまりに居心地が良いので、
中学3年まで、このアトリエにいた。
いつ卒業したのかは、
はっきり覚えていないし、
そういう制度もなかった。

成人してから、
あの「こどもアトリエ」はどうなったのかなあ?
と、時折思い出すことがあった。
ある日、風の噂で聞いたのだが、
こともあろうに、
男の先生は愛人を作り、
地域から逃走してしまった。
それを聞いた自分は
神経がズタズタになるほど、驚いたが、
悲しいという気持ちは全くなく、
つらぬかれたような、不思議な爽快さを覚えた。
「自分がこれで『決まり』だと思ってた世界にはまだ外があり、そこには人がいるのだ」
そんな実感だった。
なるほど、政治や制度が「ここまで」という枠組みを作り、枠からはみ出したり抵抗したりする人間を排除することほど、恐ろしいものはない。


女の先生の方は
「セイセイした!」と言っていたそうだ。
ちょっと怖かった女の先生を思い出して、
きっと本音だろうと、思った。
ひょっとしたら、かなり辛いドラマもあったのかもしれない。
それでも、自分の子供の頃の思い出として、
こちらの施しなど全く必要のない、

ほっといても幸せの方向に突き進んでいくタイプの、

大人が存在していたのではないかという、象徴として、
「こどもアトリエ」
をボクは記憶にとどめているのだ。

旅に出なかった

 

 

 

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旅をしたことがない。
にもかかわらず、

「旅をしてそう」とか「旅が似合う」とかよく言われる。

実際、旅を試みたことは、よくある。

18歳くらいのとき、山形に住んでいた。
(これは旅ではなく、単なる移住)
田舎を求めて、山形に移住したにも関わらず、
都会に飢え、バスで一時間程かけて、よく仙台に行っていた。
多分夏だろう、仙台駅前では寝袋で寝ている旅人をよく見かけた。
そのとき電撃的に「自分は絶対これをするべきだ」と確証が心に走った。

帰京したとき、死んだオヤジに
「お父さん、オレ寝袋買うかもしれんわ」と言った。
オヤジは満面の笑みだった。

「息子が、ここまで来た」という気持ちが、表情に表れていた。
「寝袋は、必要になるかもしれんな!」とオヤジは言った。
だが、自分は寝袋を買わなかった。

何となく。
何故、買わなかったのだろう?と、今でも思う。
言い訳のようだが、
おそらく、単に買う機会がなく、そもそも、
どこに売っているのか、わからなかったのだろう。
そして、事あるごとに何回も、
「寝袋買っておけば良かったなあ」

と言っていたのを覚えている。
結局、旅に出なかった。
今は、滋賀と京都を往復していれば、それで満足するし、
行かなければならないとこは、沖縄だけだ。

 

「バンドとかやってはるんですか?ギター弾けそう」
と言われて、
「いえ、できません」と、この人生で何回答えただろう。
おそらく、自分は楽器が似合うのだろう。
シタールとか持ったら、かなりしっくりくると思う。
そもそも、音楽はかなり好きで、
いろんなジャンルの音楽を聴き、
よく人とも音楽の話はするし、
長いこと、CDショップでアルバイトまでしていた。
「バンドやってるんですか?楽器できはるんですか?」
と、人に言わしているようなものだ。
だが、弾けない。
もちろん、バンドを組んだことなどない。
でも、やろうとしたことが無いわけではない。
むしろ、結構努力した方ではないかと思う。
だいぶ前、何故か、ブルースキーボードをマスターしようとして、
(動機は忘れた)
CD付き入門書みたいなのを買い、
結構、マジメでストイックな性格なので、
半年くらい、
一日、30分~1時間とか自分にプログラムを課して、
集中して練習を続けていたことがある。
結果は、

ちょっと弾けるようになっていたかもしれないような、記憶はある。

ただし、今は絶対弾けない。
証拠にこないだ、「こういうものは、頭は忘れていても、体は覚えている」説に従い、
ピアノの前に座ってみたところ、指は一ミリたりとも動かなかった。
それはそうだ。

根本的に何をどうすれば良いのか、わからなかったからだ。
「そう、オレは楽器が弾けない、弾けない、弾けない」
と思ってみる。
すると、
「楽器が弾けない」自分がやけに、しっくりときてしまう、

そんな瞬間が、皆様にもないだろうか?

唇の片方をやや吊りあげ、歯を見せず、
そのまま笑顔を固めてしまうような、一瞬。

 

似合う服装というのも、またタチが悪い。

自分は、やたらと、タートルネックのセーターが似合う時期があった。

というより、似合うと言われたから着ていたので、
おそらく似合うようになっていったのだろう。
40年生きてるが、タートルネックのセーターが流行したことは、
特に無い気がする。
そもそも、自分自身、タートルネックのセーターなど、
さほど好きではない。
にもかかわらす、似合うせいで、
タートルネックのセーターは、どんどん増えて行った。


季節の変わり目、
衣替えをしていると、
衣装ケースの中から、
タートルネックのセーターが、
1ま~い、2ま~い…5枚も出てきた。
5枚のタートルネック
ひとりの人間が持つ数としては、異常だ。
さすがに恐ろしくなり、簡単にモノを捨てるなんて、
バチ当たりなことは、普通しないのだが、
そのタートルネックはほぼ一気に処分したのではないか、

と、記憶する。

 

似合うことほど、やりにくいことはないのではないか?

向いてることほど、向いてないことはないのではないか?


自分にとって、恋愛も、旅と楽器とタートルネックのセーターに似たようなもので、

似合いすぎて、悲惨にも思える。
恋愛対象が必ず、不幸になったこと。

これを、証拠にあげないわけにはいかない。
似合いのカップルというのは、
うまくいかないのものだろうか?

アニタ・パレンバーグとブライアン・ジョーンズみたいに。
それは言い過ぎか。
単なる思い込みかもしれない。
比べると、結婚は、まだ成功の可能性はあるかもしれない。

 

ここまで書いて、

似合いすぎることは、決してするなという、
教訓も出てこないことはない。

でも、わからない。
こないだまた、自分はギターを弾こうと試みてしまった。

やはり、おそらく似合っているのだろう。

ギターも結構練習したことがあるのだ。
でも、何回やっても、
コードチェンジをするとき、
バレーコードだったら、
頭の中で、「えいやっ!」と指の形をイメージしても、
薬指と小指が死んだようにブランとして、力が入らず、
弦を押さえることができない。
決して、決して、練習をサボったわけではない。
ここまでくると、病かもしれない。
誰か、専門知識のある人に治して欲しいと思うくらいだ。
こうして文章を書いていても、

自分の右手真横に
不気味にギターは沈黙している。
「このヘタクソ」
とでも言いたいのだろうか。

 

「似合いすぎることは、決してするな」
もう一度、思ってみる。
それでも、自分にはとにかく試みようとし続ける意志がある。
こうしてみると、文章で人間の一瞬を捕えることは不可能だ。
数秒後にはもう変化している。
誰でもそうなのだろう。
自分は、そういう人間の前向きさが大好きなのだと思う。

 

20年会ってない友達

20年ほど会ってない友達がいる。
今、自分は40歳なので、20歳のときから会ってない。
最期に会ったのは、20歳のときの同窓会。
学校を卒業したら一回くらいは、同窓会もあるだろう。
20歳くらいなら、まだ懐かしいし。

けど、まあ懐かしいのも一回くらいのもので、それきり同窓会はない。

(それか欠席してたのか)

だから、最後に山本に会ったのは、そのとき限り。


絶交同然なのだが、
年賀状のやり取りだけは続いているので、絶交とはいえない。
「もういい加減に、この人に年賀状出すんやめようかな?付き合いないんやし」
年末のたびに、その時その時の、パートナーに言うと
まあ一枚くらい、いいじゃないかという理由で出すことになる。
それが、20年。
そもそも絶交するほど親しくもなかった。

ボクは彼のことを、ド変人だと思っていた。
ド変人なんて、モノの見方はあまり褒められたものではないが、
当時、10代だということもあり、見識も甘かった。

しかし、彼は、ミミズに向かって真剣に話しかけていた。
それも、1度や2度ではない。
ボクは、真剣にその行動に驚き、
自分のことを冷めてみることが出来る限り、「ド変人」にはなれない
ものだと、山本に憧れすら覚えた。
でも、やっぱりミミズに真剣に話しかける男というのは、怖かった。

ある日、意を決して、
「なんで、ミミズに話しかけてるん?」
と、山本に尋ねてみた。
「冗談!冗談やで!」と、山本は言った。

体育の授業。
その日は陸上だった。
「あの砲丸を投げなあかん理由がわからん」
山本は言った。
ボクは、山本の観察眼に感心し、
その言葉使いの切れ味に、感動すら覚えた。
でも、そんな鋭い感性で、授業をイヤがったところでどうにもならんので、
ボクは素直に砲丸を投げていた。


卒業直前。

ボクは自分でも気が付かないうちに、
体育の授業をサボっており、
補修でマラソンをするハメになり、
なおかつ、補修に遅刻した。
たったひとり、ボクを待っていた、担当とは別の教師に
「(担当の)先生はどこ行ったんですか?」と尋ねると
「あんな奴は、知らん言うて、もう行ったヨ」何の毒気もない、キョトンとした表情で言い、
誰もいない、マラソンコースを指差した。
そこには、鴨川が虚しく流れていた。
その瞬間、激情にかられた自分は、鞄を地面に叩きつけ、その場を去った。
自分は若い時から、至ってマジメな人間だが、

この一件で、

教師たちに不良生徒と間違えられた。


同窓会の日、
山本は唯一人、マイカーでやってきた。
悠々とハンドルを切り、駐車場にドカンと乗り付け、
胸を張り(そう見えた)、ドアをガチャリと開けて出てくる山本を見て
「円ひろしみたいやなあ」とホントにある種のカッコ良さを感じ、感心した。
聞くところによると、無理して買った車らしい。
ところが、どうも、形が奇妙だ。
業務用というか…。
花屋さんが使う荷物車みたいなのだ。
というか、花屋さんの車だ。
「すごいなあ、何か花屋さんみたいやな」ボクは言った。
「ええやろ?」山本は言った。
「これは話題モノやな」
「何い?笑いモンやてえ?」と山本はえらくニッコリして言った。
「ちゃうちゃうちゃう、そんなん言うてへん!わ・だ・い。話題になるようなシロモンやなあ、言うたんや」
(なんや山本、自分でもケッタイな車やいう自覚あるんやないか…)ボクは思った。
山本は続けて言った。

「車のローンが苦しくてな、今、苗とか運ぶバイトしてるんやけどな、この車やったら、苗運ぶのに、ピッタリやねん。ほとんど、バイトに使ってる。ホンマ、この車選んで良かったわ」
ああ、ヤッパリ山本は変人だ、ボクは思った。
彼は将来どんな人間になるんだろう、と思った。

今年の山本からの年賀状には、家を買ったと書いてあった。
自慢のマイホームをバックにしての、家族写真。
かわいい子供もいる。
聞くところによると、
山本は8年もかかって大学を卒業したらしい。
大学院に行ったとかではなく、
単にサボり癖があって、学士のまま卒業したということだ。
でも、立派に(推測)仕事もしている。


「山本、『普通』にやってるなあ!」と思った。
ん?普通って何なんだ?よくされる議論だ。
しかし、年賀状をじっくり見つめながら、
「いや、やっぱり今でもヘンやで山本!」と考え直した。
こんな、原発が動かされてるような、不幸な世の中で持ち家を買うなんて。
とはいえ、そういうボクが山本に送った年賀状も、
イカーをバックにした、家族写真。

山本は優しかったから、自分みたいに『普通』がどうたらツマランことは

考えんと、幸せそうで良かったなあと思ってくれてそうだ、

多分。

かくいうボクは、大学に二ヶ月通って、
二年で辞めた。
就職をしたことがない。
んで、今は主夫をやっている。


ボクは、原発が動かされるような不幸な世の中なら、どうにかしないといけないなあ、と感じている。
不幸な世の中を作るのに、一番貢献してしまう仕事は何だろうか?
と考えてみる。
総理大臣とかか?
総理大臣か…まるでこの世を代表してるかのような、『普通』の職業だ。
誰も、ヘンな仕事などとは言わないだろう。
しかし、ボクは彼の書いた「新しい国へ」という本を読んで、

ずいぶんな変人だなあ、と感じたものだ。

それにしても、山本にいつか会うことはあるのだろうか?