太朗の主夫日記 ~So What?~

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主夫からみた女性差別②

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そんな主夫才能にすがりつつ、今ボクは現実に主夫をやっているのですが、主夫生活を続けて気づいたことのひとつに、「女性がいかに差別を受けているか」がありました。これは、かなり重要なことで、感じることがあるたびに、その瞬間を強く意識するようになりました。とはいえ、子どもの頃から感じていたことでもありました。

 

絵本の中に、はっきり女性差別と言える世界があったのを覚えてます。
「乞食と王子」みたいにママとパパの役割が入れ変わる話で、会社で仕事をするパパに憧れたママが、これからはママが外で働くから、パパ家にいてと頼み実行するんですが、パパの代わりに会社に出勤したママは、仕事をすごくつまらないと感じるんです。細かい話は忘れたんですが、ママは一日中ずっと書類にハンコを押してるんですね。そしたら「こんなに一日中、書類にハンコ押すなんて、つまらないなあ。家に来る宅急便にハンコを押すのは楽しいんだけどなあ」とかママは言っているんです。で、外で働くのがホトホト嫌になったこのママが家に帰って、パパに様子をきくと、
「いやあ、やっぱり会社の方がいいよ、料理をしててお鍋が吹きこぼれたり、赤ちゃんは泣いたりしてタイヘンだったんだあ」とか言い、ママとパパは結局元の鞘に収まりました、めでたしめでたし、という話だったと思います。
気になるのは、ママのそんな行動が何となく、非知性的な感じに描かれてるように見えることでした。

そして、小学校の高学年になったとき、忘れられない出来事がありました。

ある日、友達の家でふざけて布団をぐちゃぐちゃにして遊んでいたのですが、その布団があんまりにもでかくてモコモコしていたもので、ボクは、

「こんだけ布団デカかったら、しくん大変やろ?」とか何とか友達に言いました。するとその友達は、
「おまえ、自分で布団ひくの?そんなん女にやらすぞ」と答えました。
この友達はすごく優しい男の子で、きっと今、優しい男になっているんじゃあないかと思います。だから安心してつきあえて、仲が良かったのですが。まさか穏やかな彼から、そんな言葉が出るなんで…ボクはびっくりしすぎて、何とも答えられませんでした。
「女にやらす」
30年を越えた今でも、この言葉は脳裏にきざみつけられてるわけだから、よほどボクに強烈なショックを与えたようです。
布団遊びをしていた友達の言葉は、生まれて初めてはっきり感じ取った、女性差別でした。

 

ボクはよく、「いいよいいよ!」という気持ちになっていたものです。男の子ということでワケもなく、優先されることが多いのが、むずがゆくて仕方がなかったんです。

女性差別的な社会状況は成人するまでの間も、大きな変化は、なかったと思います。ボクは普通に「男らしく」外で働き続けざるをえませんでした。イヤイヤ生きていました。イヤなものだからか、20年くらいずっとアルバイト暮らしでした。(不景気とか経済事情の問題は、ここでは置いといて)

そして、単にアルバイト暮らしをしているだけでも、大人社会での女性差別はより悲惨だと感じることが多々ありました。

 

10年ほど、アルバイトをしていた雑貨屋での話です。

雑貨屋だろうが何だろうが、客商売にクレームは付き物で、ボクも含めた店員は皆、対応に四苦八苦させられていました。
ある日のこと、70代くらいの初老男性が、肩を揺すり、大きな声で怒鳴りながら、店に入ってきました。何のクレームだったのか、もはや忘れたんですが、
「責任者を出せ」というようなことを言っていました。
たまたま、その初老男性から近い場所にショップの店長がいたんです。店長は、ボクと同じくらいの年齢の女性で、優秀な人でした。もちろん、クレームの対応も心得ていて、アルバイトのボクたちにも「この人が出てきたら心配ない」と思われてる人だったので、誰もがひとまずはその場に安心感を持ちました。

その初老の男性客に対峙した彼女は、
「お伺いします」と普通に言ったんですが、
「女はいい!」

と男性は怒鳴ったんです。それでも、彼女は何かを言おうとしたんですが、男性は彼女に決して考える隙を与えないかのように、
「女はいい!」とさらに声を荒げ同じ言葉を繰り返しました。
 彼女はあらゆる対応が可能なはずだったんです。でも、男性は「女はいい!」という一言で、対話そのものを拒否しました。

そのあと、他の男性店員が対応したんですが、大事にはならなかったです。クレームの内容が何にしろ、当り散らすことで、男性客は充分に怒りとストレスを発散できましたから。

専業主夫になったのは、その勤めていた雑貨屋が閉店したのがきっかけです。失職して、どうしようもなくなった、ちょうどその時、二人目の子供を出産して、育休中だったパートナーが職場復帰することになりました。整った子育て環境を保つのに、共働きは難しくありました。でもそのときは、自分が主夫になるという自覚はなく、あくまで求職中で、今でもそう。今と違うのはその時ボクは主夫であることに乗り気な「積極的主夫」ではないことでした。

 

つづく

主夫からみた女性差別①

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こんにちは、ボクは40歳で主夫をやっています。

子供は、ふたりいます。上が男の子で6歳、下が女の子でもうすぐ3歳。
ボクや、多くの人は主夫といえば、ジョン・レノンを思い浮かべるんじゃないでしょうか。彼が人生の一時、主夫をしていたというのは、まだ数少ない主夫にとって、誇らしいことだと思います。

彼の最後の公式録音作品は、彼の最高のパートナー、オノ・ヨーコ(彼女の最高のパートナーがジョン?)とコラボした「ダブル・ファンタジー」ですが、ボクは彼の単独作の中でこれが一番好きです。

アルバムの中の一曲に有名な「ビューティフル・ボーイ」という美しい歌がありますが、この歌などは、彼が主夫を経験してなければ生まれなかった作品なんじゃないかと感じます。自分の息子を優しく見つめるような、愛に満ちた世界は、男性独特の戦いと理屈の世界からは生まれないと思います。ボクもかつては戦いと理屈の世界にいました。つまり外で働いていました。(とはいっても、アルバイトなのですが)それは明らかにボクには向いていない世界でした。


ボクが主夫になったのは偶然ですが、外で仕事をしていた頃に比べて、精神状態の良好ぶりは雲泥の差です。もちろん、パートナーとの話し合いが、丁寧になされてないと、成り立たないことだし、経済や保育環境の問題を抜くことはできません。ですが、今日はそのことはひとまず置いといて、ひとたび「主夫」という視点を獲得すると、人には何が見えてくるのか、ということに重点を置いてお話させていただきたいんです。それは、自分くらいしか気づいてないであろうことを、伝えることは自分の主夫人生の急務であるのではないかと直感で感じているからです。


それではまず、少年時代に萌芽があった、ボクの「主夫才能」からお話し致します。主夫は本来、無条件に向いてない人でもない限り、誰でもできるだろうし、主夫才能の型もいろいろあると思います。料理がうまい、赤ちゃんや子供が好きなど。でもボクは違って、そういうことはメンドくさくて一切やらない子供だったし、今でもメンドくさいです。家事育児がメンドくさいボクの、唯一の主夫才能は「モノの感じかた」です。

 

小学一年生のときのことです。

社会の教科書に、とある家庭の一日を描いた物語が載っていました。典型的な家庭のモデルケースを子供に伝えるのが目的のようでした。絵がきれいだったので、ボクは授業に関係なくてもそのページを開いて、よく見ていました。内容は、お父さんがバスの運転手の仕事をしていて、お母さんは家で掃除洗濯や料理をしたりして、お父さんや子供の帰りを待っているというものでした。お父さんや子供が帰ってくるときの、夕焼け空は非常に美しく描かれていて、ボクはうっとりと教科書のページをめくってはいたんですが、

「でも、お父さんが外で働いて、お母さんが家で働くのは、決まってることなん?ボクも大人になったら、絶対そうせんとアカンの?女の子はみんな家で料理をせんとアカンの?」と何となく感じていました。それは、箱にぎゅうっと詰められたような、息苦しい感覚でした。
教科書から目を離して後ろを振り向くと、教室の壁には、模造紙に男女別々、ひらがなで書かれた名簿が貼りつけられていて、男の子の方が先に目につくような配置になっていました。出欠をとるときは、先生が男の子の方から、先に呼び始めるのを不思議に感じていました。小学生のボクはポチポチ、いろんなことが、おかしいと思いはじめていたんです。

『何故、男が外で働き、女が家の仕事をすると決めつけるのか。誰が、決めつけてくるのか?』

子供の頃から持っていた、こういったモノの感じ方が、ボクの唯一の「主夫才能」なんです。

つづく

こどもアトリエ

 

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子どもの頃、結構面白い教育を受けていた。

小学校とは別に、週に一度土曜日、
家からそう遠くない、

「こどもアトリエ」という所へ、通っていた。

 

それは、美大で学生結婚をした夫婦が開いてた、

名前のとおり、子ども向けの絵画教室だった。

この先生夫婦はいい加減なもので、子どもたちに、名前をちゃんと伝えておらず、
皆、仕方なく「女の先生」「男の先生」と呼んでいた。

 

絵画教室といっても、やってることはたいへんゆるく、
どこの町内にもあるような集会所の、やや広めの一室に、
汚れ防止の、黄色いカーペットを敷き、
ド真ん中に野菜とか果物とか瓶とか、平凡なモチーフをポンと置いて、
子どもたちは地べたに座り、
古い画板に貼られた四つ切画用紙に
水彩絵具で見たままを描くだけ。

20人くらいの子どもが常時いたが、
2、3名の中学生も通っていて、彼女、彼らは鉛筆デッサンをしていた。

 

正直絵を描くのはメンドくさく、

はやく終わりたかった記憶しかない。
絵を、どこで終われば良いのか自分では判別がつかず
先生のどちらかが、「うんいいぞ、バック(に色を)塗れ」
と言ったら終わりだった。
(その基準も何なのかよくわからない)
どちらかと言えば、楽しみは、

絵を描き終わった後に、遊ぶことだった。
集会所のすぐ近くには山があり、
何人かの子供で、山に入っては、木登りをしたり、

平らな場所もあったから、そこではキャッチボールをしたりしていた。
男の先生は、子供たちの遊びによく付き合い、
とうより、自分も遊び、
よくキャッチボールの受け手になっていてくれた。

こうなると、もはや、ゆるい絵画教室ですらなく、

子どもたちがたくさん集まって、

わらわら絵を描き、そして遊ぶ、居心地が良い単なる「場所」だった。

居心地が良い理由は、様々な年齢の子供同士で遊べるからだった。
学校で遊ぶのは、同じ歳の子供ばかりで、

自分も平凡な子供の通例に漏れず、
力の強い友達には、少々遠慮しヒクツになり、
力の弱い友達には、強気だった。
条件が同じ人間関係の中で、人によって自分の態度が要領良く
コロコロ変わることに、自身の狡さが透けてみえ、

そんな感覚が日常だったから、学校生活には軽い嫌悪感をずっと持っていた。
アトリエだと、
絵の上手な年上の子は、
疑う余地なく「神」であり「天才」であったから、
手離しで尊敬できたし、
自分を慕ってくる豆粒のような子供の前では、
堂々たる親分を演じることができた。
その解放感は、自分にとって学校という現実からの逃走であり、
週に一度の旅だった。
「異年齢教育」とか「寺子屋」とかいうヤツだが、
情報も今より格段に少ない時代、
先生たちに、特別崇高な志があったわけでもなく、
単に、子供たちと楽しくやりたかったのだろう。
山も、用意したわけでなく、たまたま近くにあったのだ。

 

先生夫婦は大変仲が良く、

どちらがどちらに贈ったのかわからないが、
「こんなステキな人に出会えて…」
みたいなことが書かれた、メッセージ・カードが
床のその辺に、平気で落ちていたりして、
子どもながら、非常にこそばゆい気持ちになった。

女の先生の方は竹を割ったような性格で、
男の先生の方は優柔不断。

 女の先生は、半ば本気で、子どもたちを恐れさせていた。

小さい子供たちの悪ふざけがすぎると、

「見てみい、この油絵用ペンティングナイフの弾力!」
とか言って、悪魔のように笑いながら、

画材道具を武器に脅しててきた。
(もちろん冗談だが)

そして、女の先生は、
子どもたちのお母様方の、良き話し相手だった。

年齢も若かったので、相談役ではなく、五分五分の付き合いだった。
あるお母さんが、
「今度という今度は、ダンナと本気で離婚するとこまで行った!」
というような話を、女の先生にしていた。
ボクもその輪に加わっていたので、
「アラ、タロウくんもいるのに、こんな話ゴメンね」と言われたが
そんな雰囲気が奇妙に面白く、
「いや、ええねん、オモシロイ」と言いながらボクは話しに聞き入っていた。

 

 ボクは、男の先生に感心していた。

いつのことか、
アトリエのにぎやかな様子を嗅ぎ付けて、
全く見知らぬ子供が、顔を出してきたことがあった。
その子は少し要領を得ない、話し方をしていた。
何を話していたのかは、覚えていないが、

その子の背景には、間違いなく、

異世界感みたいなものがあった。
子どものボクでも、背中に少し寒いものを感じた。
ところが男の先生は、
全く意に介さず

「よう」というような感じで、
その子が全くおなじみであるかのような応対をし、
彼女は笑顔こそ見せなかったが、とても心を許したのが、わかった。

アトリエ以外の場所でも、
ボクが散髪をしているときとか、
男の先生は、どこからか、
ボクが床屋にいるという情報をかぎつけ、
サイクリング自転車に、レイバンのサングラスという、
颯爽とした出で立ちで、現れて
青光りするスポーツ刈りと化したボクに向かって
手を振ってきたりしていた。
床屋のお姉さんが、
「あの窓の向こうで手を振ってる、おっちゃんみたいな人、友達なん?」
と尋ねてきたから、
ボクは迷わず
「ウン、友達やで!」
と答えた。

 

あまりに居心地が良いので、
中学3年まで、このアトリエにいた。
いつ卒業したのかは、
はっきり覚えていないし、
そういう制度もなかった。

成人してから、
あの「こどもアトリエ」はどうなったのかなあ?
と、時折思い出すことがあった。
ある日、風の噂で聞いたのだが、
こともあろうに、
男の先生は愛人を作り、
地域から逃走してしまった。
それを聞いた自分は
神経がズタズタになるほど、驚いたが、
悲しいという気持ちは全くなく、
つらぬかれたような、不思議な爽快さを覚えた。
「自分がこれで『決まり』だと思ってた世界にはまだ外があり、そこには人がいるのだ」
そんな実感だった。
なるほど、政治や制度が「ここまで」という枠組みを作り、枠からはみ出したり抵抗したりする人間を排除することほど、恐ろしいものはない。


女の先生の方は
「セイセイした!」と言っていたそうだ。
ちょっと怖かった女の先生を思い出して、
きっと本音だろうと、思った。
ひょっとしたら、かなり辛いドラマもあったのかもしれない。
それでも、自分の子供の頃の思い出として、
こちらの施しなど全く必要のない、

ほっといても幸せの方向に突き進んでいくタイプの、

大人が存在していたのではないかという、象徴として、
「こどもアトリエ」
をボクは記憶にとどめているのだ。

旅に出なかった

 

 

 

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旅をしたことがない。
にもかかわらず、

「旅をしてそう」とか「旅が似合う」とかよく言われる。

実際、旅を試みたことは、よくある。

18歳くらいのとき、山形に住んでいた。
(これは旅ではなく、単なる移住)
田舎を求めて、山形に移住したにも関わらず、
都会に飢え、バスで一時間程かけて、よく仙台に行っていた。
多分夏だろう、仙台駅前では寝袋で寝ている旅人をよく見かけた。
そのとき電撃的に「自分は絶対これをするべきだ」と確証が心に走った。

帰京したとき、死んだオヤジに
「お父さん、オレ寝袋買うかもしれんわ」と言った。
オヤジは満面の笑みだった。

「息子が、ここまで来た」という気持ちが、表情に表れていた。
「寝袋は、必要になるかもしれんな!」とオヤジは言った。
だが、自分は寝袋を買わなかった。

何となく。
何故、買わなかったのだろう?と、今でも思う。
言い訳のようだが、
おそらく、単に買う機会がなく、そもそも、
どこに売っているのか、わからなかったのだろう。
そして、事あるごとに何回も、
「寝袋買っておけば良かったなあ」

と言っていたのを覚えている。
結局、旅に出なかった。
今は、滋賀と京都を往復していれば、それで満足するし、
行かなければならないとこは、沖縄だけだ。

 

「バンドとかやってはるんですか?ギター弾けそう」
と言われて、
「いえ、できません」と、この人生で何回答えただろう。
おそらく、自分は楽器が似合うのだろう。
シタールとか持ったら、かなりしっくりくると思う。
そもそも、音楽はかなり好きで、
いろんなジャンルの音楽を聴き、
よく人とも音楽の話はするし、
長いこと、CDショップでアルバイトまでしていた。
「バンドやってるんですか?楽器できはるんですか?」
と、人に言わしているようなものだ。
だが、弾けない。
もちろん、バンドを組んだことなどない。
でも、やろうとしたことが無いわけではない。
むしろ、結構努力した方ではないかと思う。
だいぶ前、何故か、ブルースキーボードをマスターしようとして、
(動機は忘れた)
CD付き入門書みたいなのを買い、
結構、マジメでストイックな性格なので、
半年くらい、
一日、30分~1時間とか自分にプログラムを課して、
集中して練習を続けていたことがある。
結果は、

ちょっと弾けるようになっていたかもしれないような、記憶はある。

ただし、今は絶対弾けない。
証拠にこないだ、「こういうものは、頭は忘れていても、体は覚えている」説に従い、
ピアノの前に座ってみたところ、指は一ミリたりとも動かなかった。
それはそうだ。

根本的に何をどうすれば良いのか、わからなかったからだ。
「そう、オレは楽器が弾けない、弾けない、弾けない」
と思ってみる。
すると、
「楽器が弾けない」自分がやけに、しっくりときてしまう、

そんな瞬間が、皆様にもないだろうか?

唇の片方をやや吊りあげ、歯を見せず、
そのまま笑顔を固めてしまうような、一瞬。

 

似合う服装というのも、またタチが悪い。

自分は、やたらと、タートルネックのセーターが似合う時期があった。

というより、似合うと言われたから着ていたので、
おそらく似合うようになっていったのだろう。
40年生きてるが、タートルネックのセーターが流行したことは、
特に無い気がする。
そもそも、自分自身、タートルネックのセーターなど、
さほど好きではない。
にもかかわらす、似合うせいで、
タートルネックのセーターは、どんどん増えて行った。


季節の変わり目、
衣替えをしていると、
衣装ケースの中から、
タートルネックのセーターが、
1ま~い、2ま~い…5枚も出てきた。
5枚のタートルネック
ひとりの人間が持つ数としては、異常だ。
さすがに恐ろしくなり、簡単にモノを捨てるなんて、
バチ当たりなことは、普通しないのだが、
そのタートルネックはほぼ一気に処分したのではないか、

と、記憶する。

 

似合うことほど、やりにくいことはないのではないか?

向いてることほど、向いてないことはないのではないか?


自分にとって、恋愛も、旅と楽器とタートルネックのセーターに似たようなもので、

似合いすぎて、悲惨にも思える。
恋愛対象が必ず、不幸になったこと。

これを、証拠にあげないわけにはいかない。
似合いのカップルというのは、
うまくいかないのものだろうか?

アニタ・パレンバーグとブライアン・ジョーンズみたいに。
それは言い過ぎか。
単なる思い込みかもしれない。
比べると、結婚は、まだ成功の可能性はあるかもしれない。

 

ここまで書いて、

似合いすぎることは、決してするなという、
教訓も出てこないことはない。

でも、わからない。
こないだまた、自分はギターを弾こうと試みてしまった。

やはり、おそらく似合っているのだろう。

ギターも結構練習したことがあるのだ。
でも、何回やっても、
コードチェンジをするとき、
バレーコードだったら、
頭の中で、「えいやっ!」と指の形をイメージしても、
薬指と小指が死んだようにブランとして、力が入らず、
弦を押さえることができない。
決して、決して、練習をサボったわけではない。
ここまでくると、病かもしれない。
誰か、専門知識のある人に治して欲しいと思うくらいだ。
こうして文章を書いていても、

自分の右手真横に
不気味にギターは沈黙している。
「このヘタクソ」
とでも言いたいのだろうか。

 

「似合いすぎることは、決してするな」
もう一度、思ってみる。
それでも、自分にはとにかく試みようとし続ける意志がある。
こうしてみると、文章で人間の一瞬を捕えることは不可能だ。
数秒後にはもう変化している。
誰でもそうなのだろう。
自分は、そういう人間の前向きさが大好きなのだと思う。

 

たこぼうず

 

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「たこぼうず」

 

生まれたてのたこぼうずは、足が一本しかありません。
それは、たこというより、さくらんぼか、しぼんだ赤い風船のようです。
足が一本でも、ころりと寝転んでばかりいるわけではありません。つまようじのような足で、ケンケンをするように、部屋のすみからすみまで、ちょこちょこちょこちょこ、動き回ります。

 

「なんで、こんなひょろひょろの足で重たい頭をささえて、ぴょんぴょんぴょんぴょんとびまわれるのかなあ?」

 

そんな風に思っているのでしょうか、まだ赤ちゃんだっただいすけは、たこぼうずを不思議そうに見つめていました。だいすけのおめめはぐっと、大きく見開き、動き回るたこぼうずの足がぴょこぴょこ動くのを、一生懸命に追いました。つまようじみたいに細い足だけれども、柔らかそう。しっぽみたいによく動いて、畳を力いっぱい蹴っている!


たこぼうずの足がちゃんと8本になるのは、大人になってからです。
一回目の誕生日で、もう一本、足がぴょこんと生えてきて、にんげんみたいに二本足ですたすたと歩きます。二本足のたこぼうずは「おはよう」とか「こんにちは」とか「おやすみなさい」とかカンタンなお話もできるようになります。

 

2回目の誕生日で、また足がぴょこんと生えてきて、3本足になります。足が3本ともなると、たこぼうずは、ぐっとどっしりとしてきます。フライパンくらいなら、頭の上にのせてもビクともしません。ただし、どれくらいの重さまで平気なんだろうと、調子にのってフライパンの上にお鍋、お鍋の中にお茶碗、お茶碗の中にご飯も入れちゃえ、という風にどんどんどんどんものを乗せていくと、たこぼうずだって、たこなんですから、怒ってプーッとスミを吹きますのでご用心。


3回目の誕生日で、また足がぴょこんと生えてきて、4本足になります。4本ともなると、たこぼうずはまるでがんじょうなテーブルです。大きさも、テーブルといっしょくらいです。大人の人が頭の上にのってもたこぼうずは涼しい顔です。


4回目の誕生日で、もう一本足が…ではなく、一気に4本の足が生えてきて、たこぼうずはもう大人です。

でも、だいすけのうちのたこぼうずは、4回目の誕生日が来たというのに、足が7本しかありませんでした。


「なんで、うちのたこぼうずは足が7本しかないの?」だいすけはそう尋ねました。
「おかしいなあ?」たこぼうずは7本のうちの2本を使って、つやつや光る頭をポリポリとかきました「でも、7本でも別にいいんじゃない?」
「そんなことないよ!」だいすけは叫びました「足が7本のたこなんて、聞いたことがないよ!それに今日の誕生日パーティーはどうするのさ!」
だいすけは、たこぼうずが、ぜんぶの足を使って握手ができるように、お友だちを、自分を引き算して、7人招待したのでした。
「どうしよう、今さらひとり帰ってくださいなんて、言えないよ」
のんきにかまえていた、たこぼうずもあせるだいすけを見ると、困りだし、二人は顔を見合わせて、は~っとため息をつきました。


「そうだ、ひょっとしたら足をなくしてしまったのかもしれない!」だいすけはそう言うと、なくしてしまったおもちゃが出てきたことのある場所を見に行きました。


「きっと、出てくるよ」たこぼうずは、だいすけに言いました。
だいすけは、ソファのすき間を手でごそごそと探りました。そこから、電車遊びで使う、大切な木の線路が出てきたことがありました。でも、たこぼうずの足はありませんでした。
「大丈夫、きっと出てくるよ」たこぼうずは言いました。
今度は、オーブントースターのフタを開けてみました。そこから隠したつもりで忘れてた、電話のおもちゃが出てきて、ママにしかられたことがありました。でも、たこぼうずの足はありませんでした。
「大丈夫大丈夫、かならず出てくる」たこぼうずは、また言いました。
次こそはと、だいすけは庭に出て、重たくて平べったい敷石をえいやっと力いっぱいめくりました。そこに、大事なスーパーヒーローのお人形を隠して忘れたことがありました。でも、今日は何匹かのダンゴ虫がちょろちょろ動いているだけでした。

 

「だめだ、出てこないや」だいすけが途方にくれそうになったそのときです。ピンポーン!とチャイムの音がしました。パーティーに招待した、7人のお友だちが来てしまったのです。だいすけはあわてて、表に出ると、
「みんな、ちょっと待って。困ったんだ」と言いました。
「どうしたの?」「早くたこぼうずに会いたいよ」「おうちに入れてよ」お友だちたちは口々に言いました。
「じつは…たこぼうずの足が7本しか、ないんだ」
「えーっ」「どうしてどうして」


お友だちたちが、びっくりするのに弱り果てた、だいすけはいつもただいまをするときのくせで、郵便受けの中に手をつっこみました。そこには、いつも入っているペラペラのちらしやハガキではない、何やら大きいものがありました。不思議に思っただいすけが、ぎゅぎゅっ、と引っこ抜いてみると、それは、うす茶色のどっしりとした紙包みでした。黒々と筆で『だいすけさま』と大きく書かれていました。強く握ると、ぐにゃぐにゃとしていました。

 

だいすけは、すぐにわかりました「たこぼうずの足だ!」そう言ってふりむくと、勢いよくドアを開けて家の中に入り、靴を脱ぐのも忘れるほどでした。

部屋に戻ると、たこぼうずは、お茶を飲んで、ゆっくりとしていました。

「たこぼうず、足が届いたよ!」だいすけは言いました。たこぼうずは、口からぷっぷと湯気を出しました。お友だちも、だいすけの後を追って、ぞろぞろと家の中に入ってきました「たこぼうずの足があったんだね」「よかったよかった」「これでパーティーがはじめられる」


「パーティーをはじめるのは、ぼくの足をくっつけてからにしておくれよ」そう言って、たこぼうずはうす茶色の紙包みを7本の足のうちの4本も使って開けました。

そこには、真っ赤でぷにぷにした足が2本、入っていました。
だいすけは驚きました。
「どうして、2本も入っているの?」

「うーん…」本当のところ、たこぼうずにも、それはわかりませんでした。

「うーん…ぼくは…ぼくだけは、9本足のたこぼうずなのかもしれないね」たこぼうずは、自信なげに答えました。


「だったら、もうひとりお友だちが招待できるね!」だいすけがそう言いました。7人のお友だちもつられて、そうだ「○○ちゃんも呼ぼう」「△△くんを呼ぼう」「いやいや公園の野良猫を呼ぼう!」と口々に言い合いました。何だかパーティーがもっともっと楽しくなる気がしました。


「9本足のたこぼうずなんて、初めてだ!」みんなは、わーっ!と歓声をあげました。みんなが嬉しく思ってくれてるのを見て、たこぼうずも嬉しくなりました。

「ボクは本当に9本足のたこぼうすなのかもしれないなあ」

たこぼうずは、そう思ってみんなを優しくみつめました。
その日は、とても楽しい誕生日パーティーになりました。

20年会ってない友達

20年ほど会ってない友達がいる。
今、自分は40歳なので、20歳のときから会ってない。
最期に会ったのは、20歳のときの同窓会。
学校を卒業したら一回くらいは、同窓会もあるだろう。
20歳くらいなら、まだ懐かしいし。

けど、まあ懐かしいのも一回くらいのもので、それきり同窓会はない。

(それか欠席してたのか)

だから、最後に山本に会ったのは、そのとき限り。


絶交同然なのだが、
年賀状のやり取りだけは続いているので、絶交とはいえない。
「もういい加減に、この人に年賀状出すんやめようかな?付き合いないんやし」
年末のたびに、その時その時の、パートナーに言うと
まあ一枚くらい、いいじゃないかという理由で出すことになる。
それが、20年。
そもそも絶交するほど親しくもなかった。

ボクは彼のことを、ド変人だと思っていた。
ド変人なんて、モノの見方はあまり褒められたものではないが、
当時、10代だということもあり、見識も甘かった。

しかし、彼は、ミミズに向かって真剣に話しかけていた。
それも、1度や2度ではない。
ボクは、真剣にその行動に驚き、
自分のことを冷めてみることが出来る限り、「ド変人」にはなれない
ものだと、山本に憧れすら覚えた。
でも、やっぱりミミズに真剣に話しかける男というのは、怖かった。

ある日、意を決して、
「なんで、ミミズに話しかけてるん?」
と、山本に尋ねてみた。
「冗談!冗談やで!」と、山本は言った。

体育の授業。
その日は陸上だった。
「あの砲丸を投げなあかん理由がわからん」
山本は言った。
ボクは、山本の観察眼に感心し、
その言葉使いの切れ味に、感動すら覚えた。
でも、そんな鋭い感性で、授業をイヤがったところでどうにもならんので、
ボクは素直に砲丸を投げていた。


卒業直前。

ボクは自分でも気が付かないうちに、
体育の授業をサボっており、
補修でマラソンをするハメになり、
なおかつ、補修に遅刻した。
たったひとり、ボクを待っていた、担当とは別の教師に
「(担当の)先生はどこ行ったんですか?」と尋ねると
「あんな奴は、知らん言うて、もう行ったヨ」何の毒気もない、キョトンとした表情で言い、
誰もいない、マラソンコースを指差した。
そこには、鴨川が虚しく流れていた。
その瞬間、激情にかられた自分は、鞄を地面に叩きつけ、その場を去った。
自分は若い時から、至ってマジメな人間だが、

この一件で、

教師たちに不良生徒と間違えられた。


同窓会の日、
山本は唯一人、マイカーでやってきた。
悠々とハンドルを切り、駐車場にドカンと乗り付け、
胸を張り(そう見えた)、ドアをガチャリと開けて出てくる山本を見て
「円ひろしみたいやなあ」とホントにある種のカッコ良さを感じ、感心した。
聞くところによると、無理して買った車らしい。
ところが、どうも、形が奇妙だ。
業務用というか…。
花屋さんが使う荷物車みたいなのだ。
というか、花屋さんの車だ。
「すごいなあ、何か花屋さんみたいやな」ボクは言った。
「ええやろ?」山本は言った。
「これは話題モノやな」
「何い?笑いモンやてえ?」と山本はえらくニッコリして言った。
「ちゃうちゃうちゃう、そんなん言うてへん!わ・だ・い。話題になるようなシロモンやなあ、言うたんや」
(なんや山本、自分でもケッタイな車やいう自覚あるんやないか…)ボクは思った。
山本は続けて言った。

「車のローンが苦しくてな、今、苗とか運ぶバイトしてるんやけどな、この車やったら、苗運ぶのに、ピッタリやねん。ほとんど、バイトに使ってる。ホンマ、この車選んで良かったわ」
ああ、ヤッパリ山本は変人だ、ボクは思った。
彼は将来どんな人間になるんだろう、と思った。

今年の山本からの年賀状には、家を買ったと書いてあった。
自慢のマイホームをバックにしての、家族写真。
かわいい子供もいる。
聞くところによると、
山本は8年もかかって大学を卒業したらしい。
大学院に行ったとかではなく、
単にサボり癖があって、学士のまま卒業したということだ。
でも、立派に(推測)仕事もしている。


「山本、『普通』にやってるなあ!」と思った。
ん?普通って何なんだ?よくされる議論だ。
しかし、年賀状をじっくり見つめながら、
「いや、やっぱり今でもヘンやで山本!」と考え直した。
こんな、原発が動かされてるような、不幸な世の中で持ち家を買うなんて。
とはいえ、そういうボクが山本に送った年賀状も、
マイカーをバックにした、家族写真。

山本は優しかったから、自分みたいに『普通』がどうたらツマランことは

考えんと、幸せそうで良かったなあと思ってくれてそうだ、

多分。

かくいうボクは、大学に二ヶ月通って、
二年で辞めた。
就職をしたことがない。
んで、今は主夫をやっている。


ボクは、原発が動かされるような不幸な世の中なら、どうにかしないといけないなあ、と感じている。
不幸な世の中を作るのに、一番貢献してしまう仕事は何だろうか?
と考えてみる。
総理大臣とかか?
総理大臣か…まるでこの世を代表してるかのような、『普通』の職業だ。
誰も、ヘンな仕事などとは言わないだろう。
しかし、ボクは彼の書いた「新しい国へ」という本を読んで、

ずいぶんな変人だなあ、と感じたものだ。

それにしても、山本にいつか会うことはあるのだろうか?