たろうの音楽日記

日々の音楽活動に関する覚え書きです。

『オッサン』として生きるということ

 

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『オッサン』
それは、この世で一番、どうでもよい存在だ。

 

あれは、いつの日のことだろう?
子供乗せ自転車をひとりで使って、

近所の生協に買い物に行ったとき、

駐輪場の、何もないところで

勝手にこけ、
自転車の下敷きになったことがある。
すると、70代くらいと思われる、
ひとりの老紳士が、真っ青な顔で駆け寄ってきて、
「お子さんは!」と私に言った。
「子供は乗せてないんです」と下敷きになったままの、私が答えると、
「ああ、それなら良かった!」と、
大変爽やかな笑顔で、
老紳士は、その場を足早に去っていった。
足の何かやわらかいとこをふんずけている、自転車の充電器の重量感が、

悲しくも痛かったのを覚えている。

私は、この時の老紳士をリスペクトしている。
この世で優先すべきは、子供、女性、お年寄りだ。
オッサンの存在など、どうでもいい。
(だからと言って、バンバン危険な場所に送り込めということではない、
日常レベルで、どうでもよいということだ)

 

話は、少し飛ぶ。
私の生活のルーティーンは、子供を保育園に送った後、
前述の生協での買い物と、もうひとつはローソンに行って、

コーヒーと新聞を買うことだ。

ここのローソンのお兄さんは、異様なまでに、サービスが良い。
私が新聞を片手にレジへ向かうと、もうコーヒーが用意されている。
「今日は産経新聞ですか?」とか声をかけてくれる。
色白で、爽やかな笑顔で、まるでバンプオブチキンだ。
一度、「袋はご入り用ですか?」と聞かれたことがあるので、
たまたま「いらないです」と答えたら、
驚異的な気遣いで、その後全く袋をつけない。

気の小さい私は
「やっぱつけて下さい」とは口が裂けても言えない。

コンビニ。
ディス・イズ・コンビニ。
コンビニの中のコンビニ。
便利とサービスの洪水。
その中に溺れる、オッサンの私がいる。

しかし、何事にも対極というものがある。
20年ほど前、
京都の木屋町を、友人と二人でブラブラしていて、
入ったことのない、沖縄料理の店に、
思い切って入ってみようということになった。
のれんをくくった瞬間、後悔した。
千葉真一を思わせるオヤジさんが、
典型的な板前スタイルで、包丁を握りしめ、
私と友人を鷹のような鋭い眼光で睨みつける。
当然のごとく、
「いらっしやいませ」などない。
言うまでもなく、客は、ひとりもいない。
「今さら逃げられない」私と友人は思った。

なるべく、オヤジさんから遠いテーブル席に座った。
注文を全く取りにこないので、
着席したまま、
オヤジさんに向かって、大声で、泡盛と耳ガーと豚の角煮を注文した。
(大声がオヤジさんの気に障ったのではないかと、ビビった)

しばらくして、
泡盛と耳ガーが出てきたので、
私と友人は、当たり障りの無い会話をしながら、
チビリチビリとやっていた。
豚の角煮はなかなか出てこない。
しかし私たちは、こういうことに関しては、気が長い方だったので、

おいしい豚の角煮が出てくるのを、ゆっくりと待っていた。

そのまま、一時間半が経過した。

 

この間ずっと、客は私たちのみだ。
「言ってもええよな?」私は友人に言った。
「ええんちゃうか?」友人は言った。
私はオヤジさんに、
「あの…豚の角煮まだですか?」と何故か愛想笑いをしながら、
声をかけた。
「今、作ってる!」
オヤジさんはドスのきいた声で叫び、

額に脂汗を流しながら、鍋と格闘していた。
真剣である。
その後すぐ、豚の角煮は出てきた。
うまいのだが(余りの空腹に、多分何を食ってもうまかった)

やけに、量が少なかったのを覚えている。
残された問題は、ボラれたのかどうかということだけだろう。
これが、寄りに寄って適正価格だったのだ。
高くも、安くもない。
(いっそボッてくれ)私は思った。
余分に金でも払わなければ、救いようがない話だ。

 

私は、この沖縄料理の店のオヤジさんを、リスペクトしている。

オッサン(よく考えたらこの時、私はオッサンではなかったので、
‘大の男’くらに拡大解釈しよう)に、サービスなど不要なのだ。

 

オッサンに優しくする必要など、全くない。
オッサンが入りやすいように場所を作る必要など、全くない。

オッサンにおいしい料理を作る必要など、全くない。
オッサンの話を聞く必要など、全くない。
オッサンのおすすめする本を読む必要など、全くない。

オッサンに贈り物をする必要など、全くない。

オッサンを悪く言った後をフォローする必要など、全くない。

 

 本質的に、オッサンは世の中に不要なのだ。

 イザというとき、オッサンの救助は、一番後回しにされる(人間の本能だろう)のが何よりの証拠だ。

にも関わらず、この世はいわゆる「男社会」(オレが住んでるこの島だけの話?)
というやつである。

オッサンたちは、自分たちが本来、無用の長物であることに、
無意識レベルで気づいている。

それではマズイというので、オッサンたちは、歴史の中で無意味に抵抗を重ね続けた。

結果、

作られたのが、この古臭~い「男社会」なのだ。

オッサンたちは、自分が役に立たない人間になることを恐れている。
有用な人間であろうとすることに、やっきになっている。
だが、本質的に不要なのだから、んなモン抵抗しても、どうにもならないのだ。
そんなテンパった心では、せいぜい大切なものしか守れない。
人間が、役立たずであることを恐れる必要など、全くないのに、恐れてしまうのは、

オッサンたちが形成した、テンパった社会のせいであり、
誠に、オッサンたちは、自分で自分の首を絞めている。

 

『オッサン』
それは、この世で一番、どうでもよい存在だ。

この思いは、今も揺るがない。

そんな私も、この間41歳になり、
『不要な存在であるオッサン』という、厳しい道のりの

第一歩を踏み出してしまった、というわけだ。

 

 

オレは今でも病んでいる

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精神を病んでいたことがある。

具体的に言うと、精神科に通院し、投薬治療を長いこと続けていた。

病から抜けかかる頃、自己治療の一環に、

自分が病にかかった過程を文章に起こして洗い出す、という作業をしたことがある。
原稿用紙にして、300枚くらいだろうか。
買いたてのi-mac(懐かしいねえ)のキーボードを毎日毎日トントントントン
叩いてたものだ。
それを今回、無理やり1,2枚くらいにまとめてみようと思う。

精神を病んだ理由は、

金を騙し取られたショックによるものだ。
だが、今回それは無視することにする。
そんなことまで、逐一書いていたら、収集がつかない。
心の病いを語るのに、重要なのは、理由よりも原因。
理由を語ると、単なるドキュメンタリーになってしまう。
原因を語ってこそ、So Whatだ!

何故自分は病んだのか?

答えはカンタンだ。帰るところを間違えたのだ。

 

主治医の移動で、京都の府立医大から、かなり北部の病院に転院させられていた。
入院ではなく、通院なので、なおさら大変だった。
その後、病状はひどくなり、いよいよ、入院、見学というところで、
とても親切な入院患者に話しかけられたことから、
何故か、抱えていた恐怖が100倍になり、見学の最中にダッシュで院内から脱走したので、
入院することが、できなくなってしまった。

そしたら、どこに帰るのだ?
家に帰るしかない。
父は死んでいて、その妻がいるのだが、
私はいまだに、父の妻を本来の言い方で呼んでいない。
私は極端に太く、朗らかな性格なので、自分を支えるのは、自分自身で充分だった。
(経済レベルの話は、ちょっと置いておく)
ところが、父に妻がいると、私はそれに役割を見なければならない。
その人物が、自身を支える術を何も持たないとしたら…
道連れである。
それに「役割」がある限り、軟禁と言葉の暴力を私は受け続けることになる。

 

心を病む症状は、人の数だけある。
これは、今でもなのだが、閉所恐怖に近い。
飛行機はおろか、「のぞみ」でも怖い。
広島→京都の新幹線で、ちょっとおかしくなり、
ものすごい手汗をかいたのを、覚えている。

沖縄に行きたいと思ってるのだが、これがネックだ。
一番の解消法は自分で運転することだが、
ちょっと難しそうだ。

 

最後にかかった医者には、5、6年くらい通っただろうか?
そこは、精神科でなく診療所という看板だった。
自分から言い出したことだが、
投薬から抜け出す努力が必要だった。それは通院の終わりを意味する。
デパスメレリルソラナックス…薬の名前も何となく覚えている。
10年も飲み続けた薬を止めるのは、千里の道だった。
投薬の終了は、ハーブティー
心底、ホッとしたのを、覚えている。

だが、薬を止めたからと言って、終わったわけではなかった。
必要なことは、全ての決断を自分で行うことだった。
私は、私の人生で必ずやらなければならないことをした。
それは、家との絶縁だった。
絶縁の決断を精神科医に相談することは、なかった。
それは偶然の事故によるものだったが、
もし、家との関係を断ち切ることを、精神科医に相談していたら、
私は今ごろ、苦しみから逃れられなかっただろう。
世間からは、轟々たる非難を受けた。

自分以外に、自分の味方がいない状態が続いた。
しかし、孤立させられたことを、特に恨んではいない。
どうしようもなく、孤立するという状態を学んだのは、
良い教訓だったし、
だから、今日もどこかにある孤独を思えるのだ。
ホンの少しでも。
さあ、どうする?
と、自分に問いかける。

 

存在意義

 

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書こうとしていたことが、
手法的にメンドくさくなり、
一端中断して、別のことを書くことにする。
軽く。
そもそも、so what?(だから何?)
みたいなことを書いているのに、
手法に凝って、行き詰る意味がわからない。
昔、友達が軽い気持ちで家でラーメンを作りはじめたら、
勢い余って、プロ並みのラーメンを作るほどの
求道者に変貌してしまい、
「おまえは何てヒマなんや!」と嘆いたものだが、
自分もそう変わらない。


(軽く…)
ところで昨日、

自分には、
一切の苦もなく行っている行動というものが、
存在するのだろうか?と、ふと考えた。
検討すると、

ない。
イヤイヤやっていることしかない。
毎日の日課を振り返って、イヤなものをひとつひとつ炙りだして行こう。


子育て、家事、料理、バイト、創作活動、政治を考える、友達づきあい、恋愛

 

さて…本当に、イヤがっているのだろうか?
オレのことだ、ウソをついている可能性もある。
ひとつひとつ検証してみよう。


子育て=最もイヤだ。
家事=決して好きではない。
料理=メンドくさい
バイト=絶対しない
創作活動=可能な限り、最小限にとどめたい。
政治を考える=才能がないことに手を出すのは苦痛だ。
友達づきあい=ひとりにさせてくれ…

心配いらない、ほとんどホントのことのようだ。
しかし、ちょっと待て、これでは問題だ。
やる気と意欲がまるでない、生命力が薄いヤツみたいではないか。
そんなオレでも、ひとつだけ、夢中になり、
全く苦痛を感じず、延々とやっていられるものがある。
オレの人生を変えた、ソレ。
ネットサーフィン。
ネットサーフィン!

と大文字で書きたいくらいだが、
恥をかくのでやめる。
…ネットサーフィン、これほど、人にいい加減な情報と認識を与えるものがあるだろうか!

 

参考に、
誰も興味がないと思うが、
オレの平均的な一日の過ごし方を書いてみる。

 

朝、子供よりも遅く起きる。
最小限の世話をして、
保育園に放置。
帰り、ローソンによって
ホットコーヒーと粗悪なチョコをお供に、
新聞を読む。
家に帰って、休憩、ダラダラ掃除、洗濯。
ダラダラしすぎて、昼近くになる。
昼食後、ネットサーフィン、寝る。
不覚をとって、半年に一度くらいバイトをしてしまう時がある。
休憩。
休憩。
後悔。
お米を洗ってから、
保育園にお迎え。
出る前に休憩して、コーヒーを飲んでしまうため、
大抵遅れる。
帰宅後、子供たちの「遊んで」を断り続ける。
手抜きを極めつくした夕食。
子どもたちにYouTubeを見させて、
自分はダラダラする。
風呂、寝さす。
洗濯物をダラダラたたむ。
明日の保育園の用意。
「食洗機が欲しい」と文句を言いながら皿洗い。
深夜までネットサーフィン。
朝寝坊なので、支障がない。

いくらなんでも、ちょっと偽悪的に書きすぎた。
名誉のために言うと、
実際はもう少し頑張っている。
だが、あながちウソとも言えない。
こうすると、一体オレは、何のために生きているのだろう?
オレの存在価値というのは、一体何なのだろう?

苦労しらずで、ここまで来たのだろうか?
と過去を考える。
死んだ父親が残した借金を返済するため、
矛盾だらけの人間関係に巻き込まれ、
精神を病み、
投薬と自殺願望に苦しみ、
入院直前まで、行ったことがある。
そんなことも忘れ、
ホッコリ生きている…というわけではなく、
苦労が身につかないというか、
ヒサンな出来事に対して、
苦難に対して、いまいちピンと来てない自分がいる。
どこかで、ちゃんと向きあおう。

ラクだ、
結局ラクなのだ。
より、ラクを目指している。
待機児童問題のことを考えたりすると、
本当に申し訳なくなる。
もっと大きな世の中の悲劇を思うと、
悲しくなる。
そんなとき、
世のため人のため
夢中になって、
真剣に努力して取り組んで行こうと、誓うのだ。

今年も、
このブログよろしくお願い致します。
頑張ります。

こどもアトリエ

 

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子どもの頃、結構面白い教育を受けていた。

小学校とは別に、週に一度土曜日、
家からそう遠くない、

「こどもアトリエ」という所へ、通っていた。

 

それは、美大で学生結婚をした夫婦が開いてた、

名前のとおり、子ども向けの絵画教室だった。

この先生夫婦はいい加減なもので、子どもたちに、名前をちゃんと伝えておらず、
皆、仕方なく「女の先生」「男の先生」と呼んでいた。

 

絵画教室といっても、やってることはたいへんゆるく、
どこの町内にもあるような集会所の、やや広めの一室に、
汚れ防止の、黄色いカーペットを敷き、
ド真ん中に野菜とか果物とか瓶とか、平凡なモチーフをポンと置いて、
子どもたちは地べたに座り、
古い画板に貼られた四つ切画用紙に
水彩絵具で見たままを描くだけ。

20人くらいの子どもが常時いたが、
2、3名の中学生も通っていて、彼女、彼らは鉛筆デッサンをしていた。

 

正直絵を描くのはメンドくさく、

はやく終わりたかった記憶しかない。
絵を、どこで終われば良いのか自分では判別がつかず
先生のどちらかが、「うんいいぞ、バック(に色を)塗れ」
と言ったら終わりだった。
(その基準も何なのかよくわからない)
どちらかと言えば、楽しみは、

絵を描き終わった後に、遊ぶことだった。
集会所のすぐ近くには山があり、
何人かの子供で、山に入っては、木登りをしたり、

平らな場所もあったから、そこではキャッチボールをしたりしていた。
男の先生は、子供たちの遊びによく付き合い、
とうより、自分も遊び、
よくキャッチボールの受け手になっていてくれた。

こうなると、もはや、ゆるい絵画教室ですらなく、

子どもたちがたくさん集まって、

わらわら絵を描き、そして遊ぶ、居心地が良い単なる「場所」だった。

居心地が良い理由は、様々な年齢の子供同士で遊べるからだった。
学校で遊ぶのは、同じ歳の子供ばかりで、

自分も平凡な子供の通例に漏れず、
力の強い友達には、少々遠慮しヒクツになり、
力の弱い友達には、強気だった。
条件が同じ人間関係の中で、人によって自分の態度が要領良く
コロコロ変わることに、自身の狡さが透けてみえ、

そんな感覚が日常だったから、学校生活には軽い嫌悪感をずっと持っていた。
アトリエだと、
絵の上手な年上の子は、
疑う余地なく「神」であり「天才」であったから、
手離しで尊敬できたし、
自分を慕ってくる豆粒のような子供の前では、
堂々たる親分を演じることができた。
その解放感は、自分にとって学校という現実からの逃走であり、
週に一度の旅だった。
「異年齢教育」とか「寺子屋」とかいうヤツだが、
情報も今より格段に少ない時代、
先生たちに、特別崇高な志があったわけでもなく、
単に、子供たちと楽しくやりたかったのだろう。
山も、用意したわけでなく、たまたま近くにあったのだ。

 

先生夫婦は大変仲が良く、

どちらがどちらに贈ったのかわからないが、
「こんなステキな人に出会えて…」
みたいなことが書かれた、メッセージ・カードが
床のその辺に、平気で落ちていたりして、
子どもながら、非常にこそばゆい気持ちになった。

女の先生の方は竹を割ったような性格で、
男の先生の方は優柔不断。

 女の先生は、半ば本気で、子どもたちを恐れさせていた。

小さい子供たちの悪ふざけがすぎると、

「見てみい、この油絵用ペンティングナイフの弾力!」
とか言って、悪魔のように笑いながら、

画材道具を武器に脅しててきた。
(もちろん冗談だが)

そして、女の先生は、
子どもたちのお母様方の、良き話し相手だった。

年齢も若かったので、相談役ではなく、五分五分の付き合いだった。
あるお母さんが、
「今度という今度は、ダンナと本気で離婚するとこまで行った!」
というような話を、女の先生にしていた。
ボクもその輪に加わっていたので、
「アラ、タロウくんもいるのに、こんな話ゴメンね」と言われたが
そんな雰囲気が奇妙に面白く、
「いや、ええねん、オモシロイ」と言いながらボクは話しに聞き入っていた。

 

 ボクは、男の先生に感心していた。

いつのことか、
アトリエのにぎやかな様子を嗅ぎ付けて、
全く見知らぬ子供が、顔を出してきたことがあった。
その子は少し要領を得ない、話し方をしていた。
何を話していたのかは、覚えていないが、

その子の背景には、間違いなく、

異世界感みたいなものがあった。
子どものボクでも、背中に少し寒いものを感じた。
ところが男の先生は、
全く意に介さず

「よう」というような感じで、
その子が全くおなじみであるかのような応対をし、
彼女は笑顔こそ見せなかったが、とても心を許したのが、わかった。

アトリエ以外の場所でも、
ボクが散髪をしているときとか、
男の先生は、どこからか、
ボクが床屋にいるという情報をかぎつけ、
サイクリング自転車に、レイバンのサングラスという、
颯爽とした出で立ちで、現れて
青光りするスポーツ刈りと化したボクに向かって
手を振ってきたりしていた。
床屋のお姉さんが、
「あの窓の向こうで手を振ってる、おっちゃんみたいな人、友達なん?」
と尋ねてきたから、
ボクは迷わず
「ウン、友達やで!」
と答えた。

 

あまりに居心地が良いので、
中学3年まで、このアトリエにいた。
いつ卒業したのかは、
はっきり覚えていないし、
そういう制度もなかった。

成人してから、
あの「こどもアトリエ」はどうなったのかなあ?
と、時折思い出すことがあった。
ある日、風の噂で聞いたのだが、
こともあろうに、
男の先生は愛人を作り、
地域から逃走してしまった。
それを聞いた自分は
神経がズタズタになるほど、驚いたが、
悲しいという気持ちは全くなく、
つらぬかれたような、不思議な爽快さを覚えた。
「自分がこれで『決まり』だと思ってた世界にはまだ外があり、そこには人がいるのだ」
そんな実感だった。
なるほど、政治や制度が「ここまで」という枠組みを作り、枠からはみ出したり抵抗したりする人間を排除することほど、恐ろしいものはない。


女の先生の方は
「セイセイした!」と言っていたそうだ。
ちょっと怖かった女の先生を思い出して、
きっと本音だろうと、思った。
ひょっとしたら、かなり辛いドラマもあったのかもしれない。
それでも、自分の子供の頃の思い出として、
こちらの施しなど全く必要のない、

ほっといても幸せの方向に突き進んでいくタイプの、

大人が存在していたのではないかという、象徴として、
「こどもアトリエ」
をボクは記憶にとどめているのだ。

旅に出なかった

 

 

 

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旅をしたことがない。
にもかかわらず、

「旅をしてそう」とか「旅が似合う」とかよく言われる。

実際、旅を試みたことは、よくある。

18歳くらいのとき、山形に住んでいた。
(これは旅ではなく、単なる移住)
田舎を求めて、山形に移住したにも関わらず、
都会に飢え、バスで一時間程かけて、よく仙台に行っていた。
多分夏だろう、仙台駅前では寝袋で寝ている旅人をよく見かけた。
そのとき電撃的に「自分は絶対これをするべきだ」と確証が心に走った。

帰京したとき、死んだオヤジに
「お父さん、オレ寝袋買うかもしれんわ」と言った。
オヤジは満面の笑みだった。

「息子が、ここまで来た」という気持ちが、表情に表れていた。
「寝袋は、必要になるかもしれんな!」とオヤジは言った。
だが、自分は寝袋を買わなかった。

何となく。
何故、買わなかったのだろう?と、今でも思う。
言い訳のようだが、
おそらく、単に買う機会がなく、そもそも、
どこに売っているのか、わからなかったのだろう。
そして、事あるごとに何回も、
「寝袋買っておけば良かったなあ」

と言っていたのを覚えている。
結局、旅に出なかった。
今は、滋賀と京都を往復していれば、それで満足するし、
行かなければならないとこは、沖縄だけだ。

 

「バンドとかやってはるんですか?ギター弾けそう」
と言われて、
「いえ、できません」と、この人生で何回答えただろう。
おそらく、自分は楽器が似合うのだろう。
シタールとか持ったら、かなりしっくりくると思う。
そもそも、音楽はかなり好きで、
いろんなジャンルの音楽を聴き、
よく人とも音楽の話はするし、
長いこと、CDショップでアルバイトまでしていた。
「バンドやってるんですか?楽器できはるんですか?」
と、人に言わしているようなものだ。
だが、弾けない。
もちろん、バンドを組んだことなどない。
でも、やろうとしたことが無いわけではない。
むしろ、結構努力した方ではないかと思う。
だいぶ前、何故か、ブルースキーボードをマスターしようとして、
(動機は忘れた)
CD付き入門書みたいなのを買い、
結構、マジメでストイックな性格なので、
半年くらい、
一日、30分~1時間とか自分にプログラムを課して、
集中して練習を続けていたことがある。
結果は、

ちょっと弾けるようになっていたかもしれないような、記憶はある。

ただし、今は絶対弾けない。
証拠にこないだ、「こういうものは、頭は忘れていても、体は覚えている」説に従い、
ピアノの前に座ってみたところ、指は一ミリたりとも動かなかった。
それはそうだ。

根本的に何をどうすれば良いのか、わからなかったからだ。
「そう、オレは楽器が弾けない、弾けない、弾けない」
と思ってみる。
すると、
「楽器が弾けない」自分がやけに、しっくりときてしまう、

そんな瞬間が、皆様にもないだろうか?

唇の片方をやや吊りあげ、歯を見せず、
そのまま笑顔を固めてしまうような、一瞬。

 

似合う服装というのも、またタチが悪い。

自分は、やたらと、タートルネックのセーターが似合う時期があった。

というより、似合うと言われたから着ていたので、
おそらく似合うようになっていったのだろう。
40年生きてるが、タートルネックのセーターが流行したことは、
特に無い気がする。
そもそも、自分自身、タートルネックのセーターなど、
さほど好きではない。
にもかかわらす、似合うせいで、
タートルネックのセーターは、どんどん増えて行った。


季節の変わり目、
衣替えをしていると、
衣装ケースの中から、
タートルネックのセーターが、
1ま~い、2ま~い…5枚も出てきた。
5枚のタートルネック
ひとりの人間が持つ数としては、異常だ。
さすがに恐ろしくなり、簡単にモノを捨てるなんて、
バチ当たりなことは、普通しないのだが、
そのタートルネックはほぼ一気に処分したのではないか、

と、記憶する。

 

似合うことほど、やりにくいことはないのではないか?

向いてることほど、向いてないことはないのではないか?


自分にとって、恋愛も、旅と楽器とタートルネックのセーターに似たようなもので、

似合いすぎて、悲惨にも思える。
恋愛対象が必ず、不幸になったこと。

これを、証拠にあげないわけにはいかない。
似合いのカップルというのは、
うまくいかないのものだろうか?

アニタ・パレンバーグとブライアン・ジョーンズみたいに。
それは言い過ぎか。
単なる思い込みかもしれない。
比べると、結婚は、まだ成功の可能性はあるかもしれない。

 

ここまで書いて、

似合いすぎることは、決してするなという、
教訓も出てこないことはない。

でも、わからない。
こないだまた、自分はギターを弾こうと試みてしまった。

やはり、おそらく似合っているのだろう。

ギターも結構練習したことがあるのだ。
でも、何回やっても、
コードチェンジをするとき、
バレーコードだったら、
頭の中で、「えいやっ!」と指の形をイメージしても、
薬指と小指が死んだようにブランとして、力が入らず、
弦を押さえることができない。
決して、決して、練習をサボったわけではない。
ここまでくると、病かもしれない。
誰か、専門知識のある人に治して欲しいと思うくらいだ。
こうして文章を書いていても、

自分の右手真横に
不気味にギターは沈黙している。
「このヘタクソ」
とでも言いたいのだろうか。

 

「似合いすぎることは、決してするな」
もう一度、思ってみる。
それでも、自分にはとにかく試みようとし続ける意志がある。
こうしてみると、文章で人間の一瞬を捕えることは不可能だ。
数秒後にはもう変化している。
誰でもそうなのだろう。
自分は、そういう人間の前向きさが大好きなのだと思う。

 

20年会ってない友達

20年ほど会ってない友達がいる。
今、自分は40歳なので、20歳のときから会ってない。
最期に会ったのは、20歳のときの同窓会。
学校を卒業したら一回くらいは、同窓会もあるだろう。
20歳くらいなら、まだ懐かしいし。

けど、まあ懐かしいのも一回くらいのもので、それきり同窓会はない。

(それか欠席してたのか)

だから、最後に山本に会ったのは、そのとき限り。


絶交同然なのだが、
年賀状のやり取りだけは続いているので、絶交とはいえない。
「もういい加減に、この人に年賀状出すんやめようかな?付き合いないんやし」
年末のたびに、その時その時の、パートナーに言うと
まあ一枚くらい、いいじゃないかという理由で出すことになる。
それが、20年。
そもそも絶交するほど親しくもなかった。

ボクは彼のことを、ド変人だと思っていた。
ド変人なんて、モノの見方はあまり褒められたものではないが、
当時、10代だということもあり、見識も甘かった。

しかし、彼は、ミミズに向かって真剣に話しかけていた。
それも、1度や2度ではない。
ボクは、真剣にその行動に驚き、
自分のことを冷めてみることが出来る限り、「ド変人」にはなれない
ものだと、山本に憧れすら覚えた。
でも、やっぱりミミズに真剣に話しかける男というのは、怖かった。

ある日、意を決して、
「なんで、ミミズに話しかけてるん?」
と、山本に尋ねてみた。
「冗談!冗談やで!」と、山本は言った。

体育の授業。
その日は陸上だった。
「あの砲丸を投げなあかん理由がわからん」
山本は言った。
ボクは、山本の観察眼に感心し、
その言葉使いの切れ味に、感動すら覚えた。
でも、そんな鋭い感性で、授業をイヤがったところでどうにもならんので、
ボクは素直に砲丸を投げていた。


卒業直前。

ボクは自分でも気が付かないうちに、
体育の授業をサボっており、
補修でマラソンをするハメになり、
なおかつ、補修に遅刻した。
たったひとり、ボクを待っていた、担当とは別の教師に
「(担当の)先生はどこ行ったんですか?」と尋ねると
「あんな奴は、知らん言うて、もう行ったヨ」何の毒気もない、キョトンとした表情で言い、
誰もいない、マラソンコースを指差した。
そこには、鴨川が虚しく流れていた。
その瞬間、激情にかられた自分は、鞄を地面に叩きつけ、その場を去った。
自分は若い時から、至ってマジメな人間だが、

この一件で、

教師たちに不良生徒と間違えられた。


同窓会の日、
山本は唯一人、マイカーでやってきた。
悠々とハンドルを切り、駐車場にドカンと乗り付け、
胸を張り(そう見えた)、ドアをガチャリと開けて出てくる山本を見て
「円ひろしみたいやなあ」とホントにある種のカッコ良さを感じ、感心した。
聞くところによると、無理して買った車らしい。
ところが、どうも、形が奇妙だ。
業務用というか…。
花屋さんが使う荷物車みたいなのだ。
というか、花屋さんの車だ。
「すごいなあ、何か花屋さんみたいやな」ボクは言った。
「ええやろ?」山本は言った。
「これは話題モノやな」
「何い?笑いモンやてえ?」と山本はえらくニッコリして言った。
「ちゃうちゃうちゃう、そんなん言うてへん!わ・だ・い。話題になるようなシロモンやなあ、言うたんや」
(なんや山本、自分でもケッタイな車やいう自覚あるんやないか…)ボクは思った。
山本は続けて言った。

「車のローンが苦しくてな、今、苗とか運ぶバイトしてるんやけどな、この車やったら、苗運ぶのに、ピッタリやねん。ほとんど、バイトに使ってる。ホンマ、この車選んで良かったわ」
ああ、ヤッパリ山本は変人だ、ボクは思った。
彼は将来どんな人間になるんだろう、と思った。

今年の山本からの年賀状には、家を買ったと書いてあった。
自慢のマイホームをバックにしての、家族写真。
かわいい子供もいる。
聞くところによると、
山本は8年もかかって大学を卒業したらしい。
大学院に行ったとかではなく、
単にサボり癖があって、学士のまま卒業したということだ。
でも、立派に(推測)仕事もしている。


「山本、『普通』にやってるなあ!」と思った。
ん?普通って何なんだ?よくされる議論だ。
しかし、年賀状をじっくり見つめながら、
「いや、やっぱり今でもヘンやで山本!」と考え直した。
こんな、原発が動かされてるような、不幸な世の中で持ち家を買うなんて。
とはいえ、そういうボクが山本に送った年賀状も、
イカーをバックにした、家族写真。

山本は優しかったから、自分みたいに『普通』がどうたらツマランことは

考えんと、幸せそうで良かったなあと思ってくれてそうだ、

多分。

かくいうボクは、大学に二ヶ月通って、
二年で辞めた。
就職をしたことがない。
んで、今は主夫をやっている。


ボクは、原発が動かされるような不幸な世の中なら、どうにかしないといけないなあ、と感じている。
不幸な世の中を作るのに、一番貢献してしまう仕事は何だろうか?
と考えてみる。
総理大臣とかか?
総理大臣か…まるでこの世を代表してるかのような、『普通』の職業だ。
誰も、ヘンな仕事などとは言わないだろう。
しかし、ボクは彼の書いた「新しい国へ」という本を読んで、

ずいぶんな変人だなあ、と感じたものだ。

それにしても、山本にいつか会うことはあるのだろうか?