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半浦太朗のSo What?

気楽に書いてますので、気楽に読んでくださいね

暗黒入学式

朝から、何かイヤな予感がすると思ったら、
今日はムスコの小学校の入学式だった。

オレは式典が苦手だ…
思えば、大学の入学式。

黒いタートルネックに、スラックスみたいなズボンという、
スティーヴ・ジョブ○みたいな、
方向性のわからん服装で、
参加しよーとしたら…、
到着すると、
式はとっくに始まっていて、
おまけに皆、入学でありながら就活みたいな、
リクルートな服装だったので、
就職の恐怖におびえた自分は、
そのまま大学を中退してしまった。
バブル崩壊直後の、のどかな時代の話である)

マトモに式典に参加するのは、
あれ以来だ…
ウディ・アレン野村克也も真っ青なくらい、
ブツブツ、文句ばかり言っている。

校門でこんなのを頂いた↓

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渡してくれた女性が
「おい、41歳、おまえの身に何か災いが起こったら、
この札を使うのじゃ」

と言ったような気がした。

 


ほんで、君が代なんですけど、
きつい…予想以上にきつい…。
マジで息が詰まりそうになる。
案外、しれっとしている自分を想像してたが、
まさか、ここまでアカンとは思わんかった。
起立して、反射的に後ろを向いたのだが。
最後列に座ったため、
誰もオレが、ソッポを向いてることに気付いていない。
音楽が始まったと同時に、
体育館後方の壁面(オレから見て正面)に貼られている、
「体育用具置き場」の札を、
目が充血するくらい、一心不乱に見つめる。
これはもはや、思想的なレベルでなく、
生理的にアカンようだ。
集団が、確証もないのに一心不乱に、
同じ形式の行動をすることが、
耐えられないようだ。

高地みたいなところから、語りかける校長。
話の内容が、全く頭に入ってこない。
「いっしょうけんめい、元気に、仲良く…」
微動だにしない、客席のママパパたち。
ものすごくシュールな光景に見える。
式中、無意味に三回もトイレに行ってしまった。

校長は、何かにつけ、
日の丸にお辞儀をする。

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自分には愛国心がないというより、
愛旗心がないというか。
布に頭を下げるのが妙に見えるのだ。
旗を愛するのは、暴走族だけだと思っていた。
シュールだ。

ムスコに
「あの歌はなんなのか」と聞かれたときに、

自分が何と答えるのかと、妄想する。
「…あの歌は、国を大事にしようと思う人が、好きな歌やねん。国っていうのは、地図で見た線で囲んであるとこのことかな。こっからここまで言うのは、んな大したことはないねん(そうか?)。お父さんは人自体を大事にしたら、ええって思ってるから、歌わへんねん。歌わんでもええねん。けどまあ、歌ってもええねん、好きやったら」
わけがわからない。
もういいや。
あ、ほんで‘君’=‘天皇’を説明しなアカンか。
自分が、天皇制廃止を望んでいることを、
一体、どっから説明したら良いというのだ?
頭がゴチャゴチャしてきたので、
思考を丸めて捨てる。
大体、ムスコは何も聞いてこない。
ずっとニコニコして、何か楽しそうだ。
もう一度、お札を見る。

「あんまり、

物事をマジメに考えすぎると、
体にドクやぞ」

と言われてる気がする…

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とにかく、
疲れた、
疲れた…。
もうこんくらいでカンベンしてください。

筒井康隆の死

 4月8日の朝日新聞で、

作家の筒井康隆が、
慰安婦像に性的侮辱表現をして、
問題になっているという、記事があった。

どのような、ひどい表現をしているのかは、
確認する必要がないな、と思った。


何せ、この作家はただ単に、もう古いのだ。
20年くらい前までは、この作家の信奉者は、
まだ、ちらほらいた。
作家は、朝日新聞の取材に対し、
「あんなものは、昔から書いてます。
ぼくの小説を読んでいない連中が言っているんでしょう」
と発言していたが、そうではない。
読んでいない連中が、存在するのではなく、
もはや、彼の作品に興味を持つ人間が、

これからの時代、存在しなくなるのだ。

 

全盛期の彼は、
パロディーとか下品な表現とかで、

タブーに触れ、
人の神経を逆なでする面白さを、

信奉者と共有し、
「良識」がある人間を、
頭が固く、ようふざけへんバカ、

というポジションに
無理やり追い込み、
精神的優位に立ち、
快感を見出すというのが、お家芸だった。
(一言で言うと、悪童)
彼と、彼の信奉者の間では、
事の本質や人権感覚を「あえて無視」して、
面白さを最上のものとすることが、

粋であり、知性的であるという、
暗黙のルールがあった。(かつては)


彼の全盛期からは、
とうに時は流れ、
世界は、
様々な問題を、
現実的に解決の方向に向かわせなければならない、
時代にシフトチェンジした。
単純なことだ。
ちょっと思い出しただけでも、
阪神大震災オウム事件、9.11、原発事故。
たくさんの悲劇があったからだ。

今や、彼が人生をかけて、
苦労して作った‘超’虚構世界や笑いなど、
全くの、無用の長物になった。
彼が頑張って論陣を張っていた、
言葉狩り’の問題など、
政府が本気で共謀罪などを
成立させようとする時代には、
あまりにも、のどかなもので、

そもそも、誰も覚えていない。

脱走と追跡のサンバ」「虚構船団」
文学部唯野教授」「残像に口紅を
「パプリカ」
を、それぞれ2ページずつ読んだ、
ボクは、立派な筒井ファンだろう。
念のため、
どんな発言をしたのか見てみた。

なるほど、
事の本質や人権感覚を「あえて無視」して、
面白さを最上のものとする、
お家芸
1兆歩ゆずって、
面白さを見出してみようとも、
思ったのだが。
もはや、面白さすら、ない…。

作家は、
すべてを見透かしてるかのごとく、
「炎上狙いというところもあった」
とも、言っている。
この開き直って、自分のやってることに対して、
傍観者になるという芸風も古い…。
虚しい…。

何故、地位も名誉も確立したであろう、
老作家が、
今さら現役では通用しない、
ボールを投げにマウンドに向かったのだろう?
それは、死の恐怖。
自らが消えゆく恐怖ではないだろうか。
「良識」的な生き方をしてきた人間ならば、
その志は、必ず誰かが引き継ぎ、
死など、存在しない。
だが、面白さを生業にしてきた、
年老いた作家の生き様など、
誰も、引き継がない。
作品と共に消えゆく自己存在。
イタチの最後っ屁として、
この騒動につながる、くだらない発言をしたことで、
彼は、彼の人生と作品が、なにひとつ意味がなかったことを、
自ら証明してしまったのだ。

彼の作品は、韓国で発売中止になったそうだが、
そんなことをするまでもなく、
あと10年もすれば、
彼の作品は完全消滅するだろう。
本当に、只の消耗品だったのだ。
もはや、彼より若く、
どれだけ才能のない人間が、
軽く作文を書いただけだとしても、
この巨大な才能を持つ天才の作品より、優れてしまう。
それは、仕方がないのだ。
残酷な時代の流れなのだ。

「SFとか、虚構なんて、なんの意味もなかったんだよ、
普通で良かったんだよ」
いくらなんでも、
人生の最後にかけられる言葉が、これでは、
あんまりだろう。
気の毒すぎる。





失恋のしようがない

 

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手品師が、いきなりタネ明かしの話から、始める気分です。


以前、友人何人かに、
「自分はいつも失恋状態だ」と話したことがある。
それは単に、その時、自分の周りに渦まいていた感覚を、
正直に表現しただけのことだったのだが、
具体的に「失恋状態」って何なんだ?
と問われると、自分でもはっきり説明がつかなかったので、
様々な考察を呼び込むことになってしまった。

友人に会うたびに、
「今でも、失恋状態なの?」と聞かれる。
聞く立場に回ると、確かに、その言葉は謎めいている。

でも、タネ明かしをしてしまうと、簡単なことなのだ。
人は誰でも、失恋をするし、
『失恋は人生の中で、衝撃的な出来事だから、
乗り越え、糧にして生きていく』
シンプルな話だ。

 

「失恋状態」という言葉を振りかざしてしまったからには、
責任をとって、
失恋に関する問いに、何でも答えてやろう、
という気になった。
出来ないことではない。

 

『失恋は人生の中で、衝撃的な出来事だから、
乗り越え、糧にして生きていく』


元々からして、シンプルな話なのだから、答えられるはずだ。
それに、自信を持って言えるのだが、

何せ、自分は星の数ほどの失恋をしてきたのだ。

でも、待てよ、と思う。
失恋が、自分が考えるほど、シンプルな話だとしたら、
自分が経験する失恋など、
ひとつにくくって、まとめて終わってしまうのではないだろうか?
一抹の不安にも、かられる。

ローリング・ストーンズに、
「ルビー・チューズデイ」という歌がある。
これは、キース・リチャーズの失恋を歌ったものだ。

♪さよなら ルビー・チューズデイ
君の名前を呼ぶことが出来ない
君は日が経つにつれ変わる
それでも僕は君がいないと淋しい

何てもったいない!
とボクは思う。
「ルビー・チューズデイ」はストーンズの名曲だけど、
最上級の曲ではない。
人生の一大事を、たった一曲の、いい加減なバラードに
託して、投げ出してしまう。
自分の失恋がひとくくりにされて終わってしまうという、
ボクのみみっちい、恐怖に比べて、何て潔いことか。
もし、自分に音楽が作れたら、
ひとつの失恋を、無くなりかけの絵の具のように、
薄めに薄めて、引き延ばしに引き延ばして、
大事に、セコく、使いまわすだろう。

しかし…そもそもボクは、
本当に星の数ほどの失恋をしているのだろうか?
映画と、ごっちゃになっているのかもしれない。
好きな映画のほとんどは、失恋映画だ。

 

①言わずと知れた、

ハンフリー・ボガードの「カサブランカ
世界一、格好よく失恋しようとする男の物語。
どうかあれを、男の自意識過剰と言わないでおくれ。
そんなことを言われたら、救いようがない。
トレンチ・コートでも着るしかない。

ウディ・アレンの「アニー・ホール
失恋を確かめるには、人生は余りにも、短い。

渥美清の「男はつらいよ
全盛期は、年二回、盆と正月に彼は失恋していた。
それを確認して、観客は、すっきりとした気分で映画館を出る。
まるで、孤独な生贄だ。

イラン映画の「オリーブの林を抜けて」
女は、男の元をなぜ去るのか、全く説明をしない。
「何故なんだ」と男は問う。

二人は歩く。

オリーブの林を。
二人の距離は、いつまでも縮まらないまま、映画は終わる。

⑤シルベスタ・スタローンの「ロッキー・ザ・ファイナル
ロッキーは、エイドリアンとの死別という、
最大の絶望と遭遇する。
ロッキーは、ロッキーらしく、
マッチョな力で、絶望を乗り越えて行く。
年老いた彼が、次の女性に期待して!

 

果たして、ボクの体に染みついた失恋感覚は、
映画の影響か、現実のものか?
検証するほどに、わからなくなる。

ただ、ボクの失恋の記憶は、
現在のものではない(はずだ)

時間が経過する限り、誰の人生にも失恋は存在する。
たとえ、本人が自覚していなくとも、
心の小さな叫びに、耳を傾けてみれば、
確実に「起こっていること」だというのが、わかるはずだ。

失恋という音のない爆発を繰り返して、人は生きている。
決して届かない、異性、同性。
社会的な圧力や矛盾のために、

大切なものが、奪われる気持ち(それは、失恋の比ではないか)
でも、失恋のせいで、死も同然の気持ちになることだってある。
インターネットなど無かった、
10代の頃の失恋と別離は、
相手が死ぬのと同じことだった。

何が言いたかったのだろう?
そうだ、
『失恋は人生の中で、衝撃的な出来事だから、
乗り越え、糧にして生きていく』

このシンプルな話だ。

だが物事は、額面通りシンプルには行かないものだ。
歌、映画、現実、記憶、
どれを振り返っても、
何回くりかえしても、
失恋をうまく乗り越えられない。
失恋がうまく乗り越えられない限り、
自分は、愛の置きどころをずっと探し続けている気がする。
愛は決して、ひとりで成り立つものではない。
必ず、対象は必要だ。
たとえ失恋によって、対象が変わっても。
(実際は、変わってほしくないと、強く願う)
いよいよ、究極的に追い詰められてしまったら、
それこそ「カサブランカ」のように、
強がって見せるかもしれない。

あなたが、希望を持って生きてゆけますように!
あなたが、希望を持って生きていますように!
こんな風に言える失恋なら、むしろしてみたいものだ。
人を愛おしく思う気持ちが、継続的に存在するというのなら、
もはや、失恋のしようなど、ないのかもしれない。

 

本当のことを言いたくなる人は、

限られている。
すべてを打ち明けたくなる人。
それは、もう逃れられない恋愛感情だ。
それなのに、
「あなたの全てを、知りたいっていうわけじゃない」
と、言われたことがある。
今にして思えば、その瞬間から、失恋は始まっていたのだ。

ファミリー・アフェア

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スライ&ザ・ファミリーストーンの曲の話では、
ありません。
うちの家の話です。

こないだ、子どもたちに、
ブチ切れました。
ブチ切れるのは、
しょっちゅうのコトなんですが、
今回は、かなり激しかったです。
切れた理由は、子どもたちが、
ボクの作った晩飯を食わなかったからです。

以前、このブログに「料理バンザイ!」
というタイトルで、
最近、調子良く料理してるというようなことを
書いた気がするんですが、

tarouhan24.hatenablog.com


今は…ボチボチです。
その過去記事内で、
まあ、その日の気分、体調にもよるので、
またイヤにもなるだろうし、
煮詰まりもするんやろうけど」
と、書き記してるので、未来を予言してますね。

 

その日も、何となく調子が悪く、

晩ごはんを作る体制が、整いませんでした。

そんな時に限って、子どもたちは、
予想外の早さで、

「おなかすいた~おなかすいた~」コールを連発し、
台所に立っているボクの両足に、

ゾンビのように、まとわりついてきます。
こうなれば、格闘。

調子が悪いなどとは、言っていられない。
「ようし、そう来るなら!」
自分に鞭を入れ、
無理矢理テンションを上げ、強引に料理を仕上げました。
ごはん、豆腐とわかめのみそ汁、わさび菜と鶏ひき肉の炒め煮。
早さ重視の、シンプルメニュー。
(いつものことですが)
「さあ、できたぞ食べろ!」
と言うと、子どもたち返事がない。
見てみると、テレビに夢中…
あまり良いことではないのですが、
ボクが家事をしている最中は、
子どもたちには、テレビを見させています。
そうでもしないと、どうにもならないので。
「お父さん、ごはん作ったぞ」

反応がない。
「君らが、はよせい言うから、早めに作ったぞ」
反応がない。
「お父さん、ごはん作ったぞ」
3回言ったよ。

ボクの中で、何かがキレました。

「そんなにテレビが見たかったら、テレビに塩かけて、食べろ!」

まるで意味不明の、雄たけびを上げました。
塩の入った瓶をムスコに手渡し、

 さらに、テーブルの上に砂糖としょうゆの瓶を、ドン!と置き、
「砂糖としょうゆもつけて!」と言い放ちました。
ギャグでやってるわけでは、ありません。
完全に頭に血が登っています。
砂糖、塩、しょうゆを揃えるのは、
日常的に料理をする人間の、本能やと思います。
ムスメは、ボクのあまりのケンマクに、ギャン泣き。
ムスコも、気の毒に塩の瓶を両手に抱え、
涙をポロポロ…(悪いことをしたもんだ)
とはいえ、ここまで来ると、ボクも意地になっています。
「今日は君ら、テレビごはんや!」
と、半ば本気で言う。恐ろしや…。

そんな修羅場に帰宅するパートナー。
ホームドラマのなべおさみか、
アニメのあさりちゃんのパパみたいに、
パートナーが何とか、状況を収めてくれるのではないかと、心の片隅で期待する。
当然、二人の子どもは、
母親に助けを求めて、すがりつく。
ところが、パートナーは、
「疲れた」と言ってすぐに横になってしまった。
会社に疲れたわけではなく、
自分の世界観の中で、課題と葛藤があるということらしい。
パートナーは芸術家&会社員の二足のわらじである。
「お母さん、くたびれたから、何かしらんけど、お父さんと話しあって解決してくれ。
話しあったら、わかるやろ」

投げられてしまった。
家の中に芸術家がいると、ややこしい。
しかも、パートナーは、すぐにはごはんが食べられないという。
結果的に、ボクがひとりで、ごはんを食べることになってしまった。
まさかの、孤食である。
とても喉を通らない。

くたびれたパートナーも、意気消沈のムスコも、

黙って二階に上がる。
「お父さんと話しあおーよ!」
と、3歳のムスメさんが、孤軍奮闘して状況を打開しようとする。
普段、そんなにハッキリと喋らんぞ…この人。
ムスメも、パートナーとムスコを追っかけ、二階に行く。

一階で、ひたすら孤独に食すボク。
(一体、オレは何をしているのだろう?)
と、己に問う。
(何とか、せねば。しかし、まだ早い。
もう少し、厳しい面を見せとかねば。この後のヤツらへの
メッセージが軽いモノとなってしまう!10分、10分、粘ろう)


そして、10分が経過する。
3人を追って、二階に上がると、
布団の上で無言。
「ちょっと、お父さんの話を聞いておくれ」
ボクは子どもたちに、語りかける。ギリギリ、ギリギリ冷静である。
そんな自分にホッとする。

「あのな、お父さんが怒ったのは、君らがごはんを大事にしてくれん
かったからやねん」


泣きはらした目で、キョトンとしている、二人。

「君らが、はよ食べたい言うから、お父さん、はよご飯作ったやん。
そやのに、君らが、テレビばっか見てるんは、ご飯がカンタンに出てくる
もんやと思ってるからちがうんかな?」


二人、ちょっと、うなずいたように見える。

「ごはんは空から降ってくるもん、ちがうねん。田んぼや畑で、お米や野菜を作って
くれる人がいて、生きてる鶏さんや、豚さんの命をもらって、それを運んで、売ってくれる人がいて、お母さんが一生懸命働いてお金を稼いで、お父さんがそのお金で、買い物をして、料理を作って、やっとお皿に乗って、君らが食べれるねん」


二人、少し納得したように、思える。


「だから、ごはんは大事にせなあかん。テレビ見ながら食べたらあかん。『いただきます』『ごちそうさま』ちゃんと言うて欲しい」


自分でも、驚くほど、至極まっとうなことを言っている。食べることで追い込まれると、人間はマジメなのである。

「ただし…」ボクは付け加えた「テレビを食べろと言ったのは、お父さんが悪かった。それは、完全におかしい。テレビなんか食べられるわけはない。間違ってました。ごめんなさい、許してください」

すると、
「テレビなんか、食べられへん!」とホッとしたのか、感情を爆発させ、大泣きするムスコ。
自分のしでかしたことに、後悔するボク。
わけもわからずハグ。

その日の晩ごはんは、とてもしょっぱいものでした。

 

何もない、春の午前

 

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午前中、

気分転換に、コンビニへ行って、
立ち読みをしていると、
「お父さ~ん」と言いながら、
ムスコがやってきたので、びっくりした。
「お母さんに、ちゃんと行くって言ってからきたのか?」ときくと、
「ちゃんと言ってきた」と言う。

二人で、つくしをとりに行くことにした。
だが、探すと見つからない。
「探すとないなあ」と私は言う。

近所で、一番広い公園に行く。
やはり、つくしは見つからない。
「お父さん、ブランコ押して」とムスコは言う。

もう興味が、つくしからブランコに変わった。
「みっちゃんが、いーひんから!」

妹の面倒やワガママにつきあわなくても良い、

開放感を味わっている。
「次どこ行く?」とムスコは言う。
「散歩しようか?」と私。アテはない。
公園沿いの車道の向こうに、宇治川の土手が見える。
柵が立てられているが、散歩している人は、たくさんいる。
「土手を散歩しよか?けど、どこから、あの柵の向こう側に行くんかなあ?」と私。
「だいちゃん知ってる!」ムスコは、そう言って駆け出す。

そういえば、近所のオジサンに遊んでもらったとき、
宇治川の方まで来たと言っていた。
「たしかあ、このへんやったと、思うんやけどなあ…あった!」
本当に、柵が途切れて、大人ひとりが通れるところがあった。
(こんなとこ、あったんやなあ)私は、全く知らなかったので、驚いた。
ムスコの案内で土手へと登り、手をつないで、川沿いを散歩する。


「大人と一緒のときだけやで」という約束で、
川岸まで近づいてみた。
浅瀬にカメがいる。
しばらく、ふたりで眺める。
「上がってこうへんかなあ」ムスコ
「上がってきたら捕まるし、上がってこうへんやろ」私

ムスコは、カメが陸地に上がってくるのを、じっと待っている。
「カメさんは、臆病やし、上がってこうへんよ。もう行くで!」私はその場を立ち去ろうとする。
ムスコは、しぶしぶ着いてくる。
「カメ飼いたい…」と小さくつぶやく。

雲ひとつない、空を見上げると、高い所に送電線が。
「電線はどこにつながってるの?」ムスコ
「おうちと、発電所につながってるねん。発電所で電気を作って、
家まで送ってるねん」私
「げんぱつって、発電所なん?」ムスコ
「そうそう、原発発電所原発は、あぶなくて間違ったやり方で、
電気を作るから、今、みんなでそれを止めるように、がんばってんねん」私

 

かなり歩いたので、
行きとは違う道で、帰ることにする。

ムスコはまだ、通ったことのない道だ。
「大阪まで行ってしまうんちゃうんかな?」不安そうな、ムスコ。
実は、家はもうすぐそこなのだ。
うつむいて歩いてるムスコは気付かない。
「あれを見てみ、カステラ屋さんやで」私は、ムスコの肩を叩いて促す。

「ほ~んまや、家に繋がってた!」
不思議なのと、安心したのとで、
ムスコはスキップし、

私を置いて、家に駆け出す。
もう、ムスコが知っている道だ。
二人だけの小さな冒険、終了。
おつかれさま。
楽しい一日が、はじまるね。

ええねん

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私は、いつでも悩んでいる。


明日の朝に食べるお米を、二合半にするか、三合にするか?
降水確率が30パーセントなので、洗濯物を外に干すか、中に干すか?
全ての部屋に、ホウキをかけるか、手抜き掃除の日にするか?
ゼ―タクに、ドリップコーヒーにするか、インスタントですますか?
愛の告白を、するかしまいか?

そうそう、昨日あたりから、ムスコとの関係が非常に良好。
何故かと言うと、

気付いたのだが、ムスコとムスメがケンカしているときは、
ほぼ、95%くらいの確立で、ムスメが悪い。
大概、お兄ちゃんの使っているモノを、ムスメは理不尽に横取りする。
なんせこちらも、ケンカの勃発した瞬間は、中々見られないので、
どうしても、体の大きいお兄ちゃんが、何かしたのかなと、
思ってしまう。
(ゴメンナサイ)
それに、言えば話がわかるのは、ムスコのほうやし。
二人に対しての説教でも、
ついつい、ムスコの顔を見てしてしまう。
ムスメは、ふんぞり帰って、
そのかわいさだけで、
自分の身を守っている。

しかし、ほとんどの否がムスメにあることに、
気付いてからは、モメ事が起こるたびに、
ムスコにケンカの原因を尋ね、
妹が悪いと言うならば、彼女から離れさせ、
4月から、小学生になるムスコなのだが、赤ちゃんのように抱っこし、
「泣かない泣かない」とあやす。
(無論お互い、どっぷり本気というわけではなく、どこか芝居がかっているし、
ムスコが悪いときは、ちゃんと怒る。見誤っている可能性も、そらあるけど)

そんなことを心がけてから、ムスコは一層、私になつくようになった。
今日も、晩御飯の食材を買いに行くのに、
意気揚々と着いてきた。
手をつないで、
日暮れの道を、二人で歩くのは楽しい。

300グラム弱のから揚げ用鶏肉が、半額だったので、
2パック買って、帰宅。
今夜はから揚げ(風)だ。

私は悩む。
どんくらいの量を作ろうか。
ムスコは大ハリキリ。

私を手伝おうと、
エプロンに三角巾姿で、
台所に立っている私の真横に、ピタリとくっついている。

「2パック全部、から揚げにしよかな?余っても、明日食べたらええしな」私はムスコに尋ねる。

「ええねん!」ムスコは言う。
「でも、明日にまわしたら、べチャべチャして、おいしくなくなるかな…」私
「そしたらあ、1ぱっくと、半分作ったらええねん」ムスコ
「そしたら、ハンパに余るしなあ…1パックでええかな?」私
「ええねん!」ムスコ
「でも、1パックやったら少ないかなあ」私


「どれでも、ええねん。お父さんはもっと、しんぷるに考えたらええねん」

頭に、電気ショックが走った。
彼は、とてつもなく重要なことを言っている。
2パックだろうが、1パック半だろうが、1パックだろうが、良いのだ。
どの道を通っても、たどりつく場所は、結局同じ。
心さえしっかりしていれば、結局は、ちゃんとおいしく頂けるのだ。
だから、シンプルでありさえすれば良いのだ。

(仙人かオマエは…)
私はムスコに思った。

またひとつ、教えられた。



まあ、食べ物の放射能汚染だけは、
シンプルに考えないんやけど。

とかくこの世は無責任

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♪オレは この世で一番、
無責任と言われた男

ガキの頃から 調子よく

ラクして 儲ける スタイル!

 

植木等(イメージ上での)
が好きなボクにとって、
「無責任」という言葉が、すっかり否定的な意味でしか、
使われなくなったのは、寂しい。

 

♪とかくこの世は無責任 コツコツやるやつぁ、ゴクローサン!

 

狂猫ノリはどこへ行った?

現在は、誰もが責任を取り過ぎている、責任社会だ。

ボクは無責任ですなんて公言してしまったら、誰も笑ってくれないだろう。

皆、「責任をとれ」という言葉で、お互いをがんじがらめにしている。

 

でも、経験的に、

やたらと他人に「責任をとりなさい」という人は、
マイペースで、要領が良くて、お調子モノな人が多かった。

こういう人は、

無意識に地雷をよける術を心得てるとか、
経済的に恵まれてるとか、

寂しさに不自由しないとか、

酒に強いとか、

その他イロイロ、何だかよくわからない、

ささいな、プラス要素を持っていて、
「自分はシッカリやっている」という自負が漠然とあるので、
人に圧を押し付けることに、ためらいがない。

信念さえあれば、責任をとるストレスは、さほどのものではない、

とタカをくくっている。

(比較的、男性に多かった気がする…)
そういう人も、それなりに憎めないのだが、
オレにはメーワクでしかなかった。

「責任をとりなさい」くらいなら、まだマシかもしれない。

ヘタをしたら「人には責任というものが、あります」とか、
人が責任を抱えて、この世に生まれてきたような、
言い方さえある。
んな息苦しいモン抱えて、生まれてきたのだとしたら、
オレは生まれる前の、なんかわけのわからん、混沌とした場所だかに、

帰りたい。

 

原発に関して、
「誰も責任をとらない」という言葉をよく聞くが、
多くの人間を苦しめた、

あんな恐ろしいものが、

まだこの世に存在し続けていて、何故いまだに、

動いているのかを考えてみれば、
それは責任を持って、あんなものを作ったからだ。

いくらなんでも、

「こんなもん、作ったらヤバイ!」

と、組み立ててる最中に、何人かは思っただろう。
社会の授業で原発のことを習ったとき、
小学生のオレでも、やばいと思ったくらいだ。

給料と同調圧力くらいでは、人はなかなか動けない。

皆、責任感がありすぎて、投げ出すことができず、

「やばいよ、作らんと、もうほっとこうよ」とは言えなかったのだ。

電力会社のアルバイトの上に社員がいて、その上に社長がいて、
社長は政治家とつながっていて、日本の政治家はアメリカの政治家と

つながっている。

叡智に満ちた、小学生の頭で考えれば、すぐにわかる。

人を責任の固まりみたいな人格に追い込むのは、
圧政だ。
間違った政治が必ず、存在するのは、
今さら誰の目にも明らかで、

はっきりとおかしいポイントはそこだけだ。

私たちに、責任を強要している大元は、
狂気的な、間違った政治なのだから、
そんなモンにマジメに同調して、責任感のある人間になる必要などない。
皆、小泉純一郎の「自己責任」という言葉を、
あれだけ嫌っていたではないか。

 

人に責任を問うくらいなら、
抱えている責任から、人を解放するように、
働きかけるほうが、まだ世の中をマシにしそうな気がする。
オレは決して、大臣とかに、
「責任をとって辞任せよ!」とかいう言い方はできないだろう。
「アンタ、もう辞めたらええんやで、その方がラクやで。責任とらんですむし。
したら、そんなワケわからん嘘つかんですむで」とか言ってしまいそうだ。
(これで、オレが政治家とか活動家に全く向かないことが、証明できただろう)

 

今、思い出したのだが、
ずいぶん前の話で、

フットサルの試合の約束をしていて、

対戦予定のチームが来なかったことがある。
おかしいと思って、
相手チームの広報担当に電話したら、
「ああ、ああ、ああ」という感じだった。
「この責任を誰がとってくれるんですか!」と言うと、
(この言葉も、もはや冗談だった)
何となく、電話は通じなくなってしまった。
後日、広報担当(そもそも、友達なんです)の彼に会うと、
シャツをぺロリとめくり、

背中を見せ、
「バイクでこけてん、それで行けなくなってん、ゴメンな」

と言っていた。

(キミがバイクでこけたことと、チームが来なかったことと、何の関係があるのだ。
ほんで、背中無傷やし)
突っ込みたいところは、いくらでも会ったが、もはやバカバカしくなり、
追求するのを、止めた。

平和そのものである。

(とはいえ、思い出したらハラが立ってきたが、まあ、それはそれだ)

 

それでも、誰も責任をとらなくなったから、

世の中がおかしくなった、という意見は根強いかもしれない。

そんなことは、ない。
みんな、マジメやで。
結局、誰かが責任をとっている。
一度、誰も責任をとらない世の中を、
実験してみたらどうだろう?

 

そしたら、こんな言葉が出てくるはずだ。
今の世の中に不足している言葉。

「あなたのせいじゃない」