たろうの音楽日記

日々の音楽活動に関する覚え書きです。

ド不幸自伝⑥ ~愛せたかも知れない、そして発症~

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≪前回までのあらすじ≫

:20代前半。両親の借金のため、兵器工場で、働くことになった自分は‘モアイ’像によく似た男と、知り合いになった。モアイは工場の若者を集めて、粉もの屋を開店する。自分はモアイと、無意味に頽廃的な遊戯を繰り返す。果てに、理由もなく、消費者金融でモアイのために、金を借り入れてしまうのだった:

***************************************


〈ああなったのは、いつの日のことだったのだろう?>と、今自分は思う。

1999年の終わりを、
かろうじて、まともな心で捕えていたのは、覚えている。
まともとは言っても、
生活は、普通ではない。
大みそかも、モアイの粉もの屋で酒を飲んでいた。

「ああ、いよいよ1000年代が終わるんや」

店のカウンターから、
木屋町通りの喧騒を、
静かな心で眺めていた。
そして、
(何故こんなに虚しいのだろう)
とも、思っていた。

***************************************

すでに、
工場を辞めていた。
自分は、
人生を、取り戻す必要があった。
先に書いたように、
両親の借金は相続放棄で消えていたし、
懸念だった妹の学費も、
支払える見込みが立った。
「自分は何のために生きているのか?」
を、思い出す必要があった。
すっかり深酒の習慣がついていた自分は、
粉もの屋の常連客
(自分も周囲からは常連客と思われていたが)
に、
「人間は何のために生きるんや!人間は何のために生きるんや!」
と、かなり狂った調子で、
日々、クダを巻いていた。
モアイですら、
そんな自分を見ると、
「おまえが喋ると、客が引く。黙っててくれへんか」
と、告げるほどだった。
モアイの方は、全ての若者に逃げられていた。
旧知の仲だという、何処からか連れてきた男と二人で、
カウンターに入る他は無くなっていた。

「何のために生きるのか?」

わかろうはずもない。
自分は、極めて自由な監禁状態の中にいたのだ。
この世を少しも知らぬ人間に、
生きる理由など、見えてくるはずもない。

***************************************

人生を取り戻すためだけに、
工場を辞めたわけではなかった。
居辛くなったのだ。

ある日、
全く普通に、
3年半少しも変わることがなかった、
‘バリ取り’の作業をしていると、

「〇〇さん、〇〇さん(自分の名前)、3番に電話です。事務所までお越しください」
と、社内放送が入った。
真っ先に、
周囲の‘パートのおばちゃん’たちが、
不幸を感じとり、
「すぐに行きなさい!」
と、自分を促した。
外線を取ると、金融会社からだった。
返済が滞っているという通知だった。

「もう少し、待ってください…」

絶望的な気持ちで、自分はそう言った。
工場の人間に、
どのような言い訳をしたのか覚えていない。
注がれた、数多くの怪訝な視線だけが、脳裏に焼き付いている。
仕事が終わると、
すぐに自分はモアイの粉もの屋へと向かった。

「コラ!オマエ!会社に電話が掛かって来たぞ!迷惑かけん言うたやろが!」

それは、
自分の口から出た言葉とは、思えなかった。
他の客のことなど、全く無視していた。
追い込まれた人間のみが見せる、爆発的な凶暴さ。
余りに、哀れな代物だった。
自分の体の周囲が、
真黒いオーラのようなもの、
怒りと悲しみの粘膜のようなものに、
包まれているのを、感じた。
窒息するかのような、息苦しさだった。

ほんの一瞬、モアイは怯えた表情を見せた。
すぐに、いつものように、
下顎を突き出し二ヤリと笑うと、
カウンターからゆっくりと出てきて、
狭い店の中、なるべく自分を隅の方に、隅の方にと
追いやり、顔を近づけてきて、

「あれは、オレにはもう終わった話やねん」と、自分に言った。

「はあ?」

「…でもな、そんなしょうもない電話が掛かって来たんか。
すまん、迷惑かけたな。腹立つし、速攻(カネを)入れたるわい」

「本当に頼む」と、自分は答えた。
モアイの言葉を信じる以外、どうすることも出来なかった。

その後、
何回も何回も、
金融会社から、催促の電話がかかってきた。
度に、モアイに怒りを示したが、
次第に怒りを表す方法も、わからなくなっていった。

(必要なカネは、もう貯まったのだ。
辞めても、しばらくは食べていける。
兵器を作る仕事など、
もうたくさんだ。
あとは、
モアイのカネだけが、解決すれば、
自分は、人生を取り戻すことができるのだ)

辞めてからは、
毎日、粉もの屋に通った。
毎日、モアイの姿を見なければ安心できなかった。
(監視だ)
モアイと離れているときは、
常に、
文字通り、黒雲のような不安が胸の中に存在した。
その不安は、朝起きてから、寝るまで、
止むことはなかった。
不安を紛らわすため、
(モアイのカネがきれいになりさえすれば、全てが終わるのだ)
と、何度も自分に言い聞かせた。
終わってくれないことには、次に進めなかった。
自分の力で、何をどうすることも出来ず、
じっとしていることが出来なくなり、
常に何処かをフラフラと、
さまよう生活をするようになった。
ぞれが、自分にとっての2000年代の、始まりだった。
24歳になろうとしていた。

***************************************

さすがに、
モアイとしか、
会っていないというわけではなかった。
ずっと、夜の街に生きていると、
人間関係も夜のものになってくる。
水商売の世界に生きていた、
10歳ほど年上のある女性と、頻繁に逢うようになった。
彼女は、
自身のことを「カウンター・レディー」
と説明していた。
自分には「カウンター・レディー」というのが、
何なのかわからなかったが、深く尋ねもしなかった。
笑うと彼女の目は糸のように細くなり、黒目すら見えなくなる。
表情そのまま、彼女はすごく優しかった。
何となく、
家にも転がりこみ、
(彼女にとって、それは絶対の秘密だった)
自分は、その場所に落ち着こうとしてみる。
落ち着くことができる気もしたのだが、
そこから関係が、
前進することは、なかった。
自分は、
自分の置かれた状況(カネのこと)を彼女に明かすと、
多大な迷惑がかかると、考えていたから、
肝心なところで、遠慮していた。
完全には、心を開いていなかったのだ。
彼女はよく冗談めかして、

「何かあったら電話ちょうだい」

と、言っていた。
確かに自分は、
いつ、何があってもおかしくないような雰囲気に、
満ち溢れていた。
「電話をちょうだい」には、
曖昧な返事をしたが、
最後には、
「ありがとう」と、言ってみる。
すると、彼女はまた、
瞳の見えない糸のような笑顔を、
見せるのだった。

***************************************

落ち着かない。

彼女と一緒にいて、落ち着くような気がするというのも、
無理矢理、自分に言い聞かせていただけのことだ。
結局、変わらず自分は、夜の街を彷徨い歩く。
ひとりだと、
やはりモアイのことを思い出し、
不安で仕方なくなる。
胸の黒雲が、体を突き破りそうだ。
(あのカネさえ、きれいになれば大丈夫だ)

きれいになるはずなど無いことに、気付く。
自分は、とんでもないことをしてしまったのだ。

瞬間、腹が減ったような気がした。
目の前にあった、
チェーンの牛丼店に入った。
ひどく寒い。
呼吸が異常に荒い。
スースー、ゼーゼー、という呼吸音が、
周囲の人間が振り向く程、漏れていた。
カウンターに腰かけ、店員に食券を渡して、
目の前に丼が置かれたそのとき、
水風船が弾けるように、
胸の中にあった黒雲が、
肺をつきやぶった。
同時に、
つま先辺りから、
ドス黒い音風が間欠泉のように吹き出し、
自分の肉体を突き上げた。

「おおおおおおおおおお!」

これは、心の声だ。
実際には発することすら、出来ない。
全ては、幻覚だ。
だが信じられないような、邪悪と恐怖の感触は、
まぎれもなく本物だった。
可笑しなことだが、
(自分の人生にこんなことが、起こるなんて)
と、感じている心も何処かに残されていた。

大声で、叫んでいるつもりだったが、
声が出ない。
牛丼には手をつけず、
弾丸のように、店を飛び出した。
(先払いで無ければ、無銭飲食を働いていただろう)
もちろん、周りの客の様子など覚えていない。

自分の足は、本能的にモアイの粉もの屋へと、
向かっていた。


*この自伝は、事実を元にして書いていますが、あくまでフィクションです*

つづく→

ド不幸自伝⑤ ~私説サイコパス~

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≪前回までのあらすじ≫
:20代前半。両親の借金のため、兵器工場で、働くことになった自分は‘モアイ’像によく似た男と、知り合いになった。モアイは工場の若者を集めて、粉もの屋を開店する。自分はモアイと、怪し気な賭博場への潜入や、デタラメな沖縄旅行など、頽廃的な遊戯を繰り返す:

***************************************

〈強烈な個性の、年上男性を見ると、
虫が、電気の光に、
吸い寄せられるかのごとく、
ただ、本能的にそこに向かってしまう。
数字の上では、
成人しているとはいえ、
理由のない本能を疑うほど、
自分の心を、客観的に見つめることができる、
年齢ではなかった〉

モアイとの友人関係を、
継続している理由を、
先に、こう書いた。
この説明だけで充分だろうか?
この説明が、
この後に書く、
自分の行動の理由として、通用するだろうか?
だが、これ以上の言葉が出てこない。

***************************************

1999年、
ノストラダムスの大予言を、
実際、そのときが来て、
まさか、本気で信じていたわけでもない。
でも何処か、
この悪名高い噂話の所為で、
2000年という時が来ることを、
明確にイメージすることが、
やや妨害され、
世紀末をマジメに生きる気持ちが、
不足していたようには、思える。
小渕首相は‘真空総理’などと、
悪口を言われていたが、
心が真空状態なのは、
むしろ、
自分を含めた、庶民側の方だった気がする。

自宅と、工場と、モアイの粉もの屋を、
トライアングルで駆けているだけの、
究極的に、生きる世界が狭かった自分に、
他者の心がわかろうはずもなかったのだが、
時代の印象としてあるのは、
兎にも角にも、
恐るべき無関心と無気力さ。
覚えているのは、
宇多田ヒカルの歌のメロディーだけである。

***************************************

伏線になる出来事と言えば、
モアイに馬券を買う金を、預けたことだろうか。

「オマエ、オレを信じてみいひんか」

モアイはいつもの癖で、
前に出た顎を強調するようにして、
ニタリと自分に微笑みかけた。

「決まったレースを、おれは知っている。
ちょっと信じて、いくらか貸してみろ。
悪い話やないやろ」

もうとっくに、
狂った遊戯のような関係だ。
「ほんの試しに」
数千円の金を、自分はモアイに手渡す。
時折、
元工場の若者たちも、
同じようにモアイに金を渡していた。
数日後、カネは倍の金額になって帰ってきた。

ラクリは、簡単である。
自分は、ギャンブルになど興味はなく、
賭けたことはなく、賭け方も、
競馬のルールも知らない。
元工場の若者たちも、
競馬など見るヒマもない。

モアイは、馬券を買う必要もないわけだ。
自分は「買う」と言われたら、
「買っているのだろう」
としか、考えない。
モアイのような人間は、
他人を欺く為なら、
少々自身の身体を傷つけるくらいのことはするし、
嘘がばれても、
嘘を突き通す。
気づかなかったのは、
単なる自分の経験不足である。
そして説明するまでもなく、
モアイのやっていることは、
単なる、ノミ行為である。

結局、癖のようなものだろうか?
無意識に一度したことを繰り返すことに、
疑問は湧かない。

「オマエ、オレを信じてみいひんか?」

モアイが自分に言ったのは、
やはりこのセリフだったような気も、する。
粉もの屋には、
もはや元工場の若者は、ひとりもいない。
皆、店に見切りをつけ、
それぞれの仕事を、新しく探しはじめていた。
モアイがノミ行為を行う対象も、
消えていたのである。

モアイが自分に、新たに持ちかけたのは、
馬券の購入でなく、
消費者金融での借入だった。
何という言葉で持ちかけられたのか、
どうしても思い出せない。

「オマエ、オレを信じてみいひんか?」

だった気も、するのだ。
この時点でのモアイは、
自身のことを、

〈大阪で美容室を経営していたが、他の事業も行っており、
それを、在日コリアンに邪魔され(相変わらず、言う)
離婚し、大阪にはいられなくなり、京都に身を隠している。
だから、身分を第3者に証明することが、できない立場だ>

と、自分に説明していた。

(一切の借入ができないんや、オマエが代わりに借りてくれ)
…いくらなんでも、
こんなことを言われて、
身代りに消費者金融に、飛び込んだりするだろうか?

このような持ちかけなど、
狂気を通り越して、
殺意に等しい直接行為であり、
受ける側は、自ら殺されに行くのと、
同じことだ。

近頃は、
サイコパスに関する著作もあり、
狂気的な人間に対する、
予防行為は、
情報の発展と共に、
進化している気がする。
書店に行き、
そういった本を目にするたびに、
(どうしてもっと早く、教えてくれなかったのか)
と、忌々しい気分になる。
だが、目にするのみだ。
実際にページを開いて、
読んで見ようなどとは、思わない。
目的もないのに、手段を選ばない人間の存在など、
一生をかけたところで、
自分に理解できるとは、到底思えない。
当時の自分は、
モアイの目的を、全く気にかけなかった。
人間が、人間にのめり込むことほど、
恐ろしいものはない。
繰り返して言うが、
他者の目的を気に掛けないことなどは、
自ら殺されに行くようなものだ。
知識の有無など、
関係ないのかもしれない。

自分はそれまで、
消費者金融など利用したことはなかった。
「〇〇くん」といった、
愛想の良い看板が立った店舗の自動ドアを、
付き添いのモアイと共にくぐり、
言われるがままに、
機械のボタンを押せば、
ミルクのようにカネが出てくることを、
知ったとき、
自分のやらされていることを、
初めて理解したのだ。
もちろん、機械の向こう側には人がいて、
釈然としないまま、数十万のカネを引きだそうとする自分に、
何かしら問いかけるのだが、
立派な兵器産業に携わっていた自分の身分は、
保証されており、
モアイよりも余程、
社会的強者だったわけだから、
簡単にカネを借りることが、出来てしまったのだ。

一店舗のみから、
カネを借り入れたわけではない。
記憶が正しければ、
5店舗をまわった。
一店舗の限度額が大体、20万円。
100万近くのカネが、何故モアイに必要だったのか?
単純なことだ、
モアイには、カネが無かったからだ。

「おれは、あんたにとてつもなく無防備なことしてるんや。
 絶対に裏切らんといてや」

と、自分はモアイに告げ、
「必ず」と言って、
モアイは自分に手を差し出し、
ガッチリと握手をした。
このとき感じた、恐れと恐怖こそが、
自分がようやく、
真人間であることを取り戻す、
サインだったということになる。
そして同時に、
取り返しのつかない、
不幸の門をくぐる第一歩でもあったのだ。

*この自伝は、事実を元にして書いていますが、あくまでフィクションです*

つづく→

ド不幸自伝④ ~沖縄旅行の思い出~

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≪前回までのあらすじ≫
:20代前半。両親の借金のため、兵器工場で、働くことになった自分は‘モアイ’像によく似た男と、知り合いになった。モアイは工場の若者を集めて、粉もの屋を開店する。自分は、モアイと様々な場所で遊び歩くようになる:

***************************************

借金は、
相続放棄で消え、
学費と生計のために働いていたことは、
先に書いた。
確かに、カネの使い方を、自らの匙加減で決めることが、
少しはできるようになった。

自分は、人生に楽しみを見い出すことを、
諦めたくなかったのだと、思う。
決して、
そんなに風変わりな感性を、持っていたわけでもなく、
ちょこちょこ見かける、サブ・カルチャーに、
親しみを覚えるタイプの若者だった自分は、
音楽(聴くこと)と読書で、現実逃避をしていた。

1998年と、1999年に、
フジ・ロック・フェスティバルに行っている。
当時流行していた、ビョーク、ベック、ケミカル・ブラザース、ブラー、
アタリ・ティーンエイジ・ライオット
他にも、ソニック・ユースエルヴィス・コステロブランキー・ジェット・シティ
存命中の忌野清志郎、伝説的なレイ・デイヴィスなどを、
観たのを覚えている。

だが、いくら、
新幹線とバスで地元を離れ、
大金を払い、
一日か二日、ロック・フェスティバルに参加し、
現実逃避を試みても、
日常の大部分を締める、兵器工場の仕事は、
自分を簡単に現実の重さへと、引き戻す。
仕事帰りの金曜日、
決まり事のように、
モアイのいる粉もの屋へと通い、
カウンターに腰かけ、濃い日本酒を胃に落とす。
毎日、
イヤという程、うがいをしているのだが、
それでも口内に残る砂鉄を、
酒と一緒に、飲み込んでいるような気になり、少しも気分が晴れない。
横に座るモアイが、相も変わらず
在日コリアンへの、ヘイト・トークを繰り返している。
いい加減、うんざりする。
いつの間にか、
自分は、ひどいチェーン・スモーカーになっている。
これもモアイの影響だろうか?

***************************************

事もあろうに、
モアイと二人で沖縄旅行に行った。

それが、98年のことか、99年のことか、中々思いだせなかった。
よくよく考えて、手がかりを探した。
確か、
帰りの飛行機の中、
CDウォークマンで音楽を聴いていた。
中身は、
ドイツのテクノ・ミュージシャン、
mijk van dijkの‘multi-mijk’
調べると、このCDアルバムの発売日が、
98年3月21日。
購入してから、まだ、新鮮な気持ちで聴いていたから、
自分は、99年夏、ギリギリ90年代の沖縄の土を踏んでいたわけだ。

この旅のことを、
書こうと思うのだが、
ひどいくらい、記憶にない。

旅の目的は、
兵器工場での労働のストレスを解消する、
『リゾート』だ。
小学校のとき、
「日本全体の0.6%しかない沖縄に、米軍基地の7割以上が、集中している」
と、習い
「なんて、ひどいんや」
と、自分は、確かに思っていた。

23歳の自分は、死滅していたのだ。

那覇空港に、降りた。
風と暑さが、心地良かった。
そのまま、
モアイが予約した、
かなりさびれたシティ・ホテルへと、
タクシーで向かった。
「何故、電車が無いのか?」と、思った。
土地の名前の記憶も、ない。
帰る前、酒を飲んだ場所が、那覇だということ以外、
覚えていない。

ホテルから、
バスやタクシーで、
一時間以上かかるような場所には、
行かなかったはずだから、
おそらく、南部にいたのだろう。
場当たり的に、滞在していただけだ。
何せ、まともな状態の人間では、ないのだ。
とりあえず、
海に入れる場所を、探していた。
何一つ考えず、
モアイとふたりで、
ホテル近くから出ているバスに乗りこみ、
海岸線を北上した。
バスに揺られながら、自分は目で墓を捜していたのを、覚えている。
何故だろう?
ほんのわずかでも、
沖縄戦のことが、頭によぎったのだろうか…?
視界には、
バスのスピードに流されてゆく、海岸沿いの濃い緑色。
草むらの中に、
灰色の崩れかけた石の影が、
あったように思える。
いや、
そんなところに、墓があるはずもない。
きっと、自分の妄想の記憶だろう。

2,30分程の後、
リゾート使用に箱庭化されたような、
遠浅の海水浴場を見つけ、
モアイと砂浜に降り立った。
その場で水着に着替え、
海に入り、潜ると熱帯魚と目があった。
自分は、どのようなニヤけた顔をしていたのだろう?
どのような、呆けた顔をしていたのだろう?

この旅行で、
言葉を交わした、
ウチナーンチュはひとりだけだ。
初老の男性だった。
浅黒い肌と、白髪交じりの豊かな髪の毛、
紺色のアロハシャツ、
それに、
刺すような鋭い眼つき。
沖縄全戦没者追悼式で献花した、
安倍晋三を見つめる、
あの鋭い眼差しだ。

「〇〇するのも…本土の人たちです!〇〇するのも、本土の人たちです!」

男性は、自分とモアイを見て、
不意に、
歩みを進め、
ゆっくりとこちらに近づき、
このように言いはなったのだった。

「〇〇するのも…本土の人たちです!〇〇するのも、本土の人たちです!」

「〇〇」
の、中に何が入ったのだろう?
肝心なことのはずだ。
それを忘れ、残された部分だけが、
今だに、頭の中にこびりついている。

「〇〇するのも…本土の人たちです!〇〇するのも、本土の人たちです!」

自分とモアイは、何をしていたのだろうか?
男性は、自分とモアイに何を見たのだろうか?
何故、このように話かけてきたのだろうか?
…覚えていない。
男性が、何かに対し、釘を刺しに来たのは明らかだ。
場所は?
海岸べりだろうか?
いや、そうではない。
もう水着は、着ていなかった。
本当に、何でもない場所だったのだろう。
道端?

しかし、自分は釘を刺された自覚など、
全くなかった。
視線は鋭くとも、男性の言葉の調子は、
大変優しかったのだ。
沖縄言葉のイントネーションの優しさを、
この時初めて、体感した。

モアイの方は、
男性の言葉に、
何の関心もない顔をしている。
モノを見るような、目だ。

「〇〇するのも…本土の人たちです!〇〇するのも、本土の人たちです!

〇〇が、
頭の中に入っていないということは、
自分も、モアイと同じように、
男性の言葉に、何の関心も持たずに、
聞き流しており、
そして、男性をモノを見るような目で、
見ていたはずだ。

一方、
モアイは、
旅行中、
何人ものウチナーンチュに、
ズケズケと話しかけていた。
工場にいた頃から、
わかっていたことだが、
モアイは、時・場所を選ばす、
無闇に人に話しかける。
やはり口は達者で、
第一印象のみだと、
ものすごく人当たりの、
良い好人物に錯覚するのだが、
よくよく、モアイの会話に聞き耳を立ててみると、
話しを押しつけるだけで、
聞くということを全くしていない。
そして、
押しつけることというのが、
例の、ヘイトなのだ。
モアイは、沖縄という場所でも同じことをするのだ。

ひととおりのヘイトを終えた後、
「あいつらの性(さが)やな!」

と、モアイは吐き捨てるように、言う。
モアイの言ってることに、同調する人間は、
旅行中でも、日常でも、見たことはない。
単純なことだ。
ヘイトなど、最悪なだけだからだ。
とりわけ、
この沖縄という地で、ヘイトに励むことは、
最悪の上に、
さらに、絶望を塗りつけることのような気がした。
何も知らない自分が、
何故、そのように感じたかというと、
これは、潮風が教えてくれたのだ。
錯覚でも、気のせいでもない。
沖縄本島の地に立っている体には、
四方から、広大で温かい海の存在を、
感じさせてくれる潮風が、吹きつける。
本能的に、自分は潮風の元を辿る。
もし、潮風が5つの大陸からやってくるものとするならば、
そこにいるであろう、
何百万、何千万、何億の人々が、

『あいつ【ら】とは、何なのだ。【性(さが)】とは、何なのだ』

と、確かに囁いてれる。
ヘイトとは、
いかに、
人工的で脆く、
絶望的に中身がなく、
間違いなく誤ったものなのか、
教えてくれる。
自分たちは、
数多く存在する人間の中の、
不安定なひとりに過ぎないのだ。

***************************************

1999年の沖縄で、
何が起こっていたのかが知りたい、
一体、自分はどんな空気の中で、
沖縄に滞在していたのか、知りたい。
インターネットで調べてみるのだが、どうしてもピンと来ない。

すると、
全く偶然、
最近古本屋でたまたま購入した、
「『安保』が人をひき殺す 日米地位協定=沖縄からの告発」
という、書籍が、
1996年の沖縄を捕えた内容だった。

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奥付を見ると、
96年、9月15日の発行だ。
奇しくも、
この自伝は、
1996年の出来事から書き始めた。
軍事工場で働きはじめた、あの年だ。
タイムスリップしてきたかのような、
この一冊を、じっと手にとってみる。
インターネットが、
余り機能していなかった時代の、
書籍には重みがある。
ページをめくり、古い紙の匂いを嗅ぐと、
過去の時に帰る。
‘本でしか伝えようがない。
だから書いた。
どうか届け。’
そんな思いが、伝わってくる。

…当時の自分には、届かなかったのだ。
今さら、恐る恐る本を開く。

当然、
この本が、
‘本土’の政治に触れていないはずはなく、
自分が先に書いた、
村山内閣時の社会党や、橋本内閣への記述もある。
安保反対の先頭に立っていた、
社会党が、
容認路線に転換し、見るかげもなくなったこと。
橋本内閣が、普天間基地の全面返還という名の、
罪深い基地ころがし(言うまでもなく、辺野古への‘新設’)
の、始まりだったこと。
社会党の崩壊はともかく、
先に自分は、橋本内閣に
『‘鈍重な安定感’を感じていた』と、書いていた。
そして、
『当時自分は借金を返すことのみを、
目標に生きていたので、
広く社会に向ける目など、持っていなかった』
とも、書いている。
この言葉が、全てを説明している。

自分とモアイの沖縄旅行は、
ここから、3年後。
物事を考えているはずがない。
今、96年発行の本を読み、
自分が二日間の旅行で吸っていた、
沖縄の空気の味が、ようやくほんの少しわかる気がする。
あの時、意識すらしなかった地名。
ドーナツ状の普天間の街。
自分は滞在中、
この足で、普天間の地を踏んだのだろうか?
基地が中央にドンとあるために、
一か所ですむ消防署が、
3か所も必要になってしまう街。
(本には、そんなことも書かれている)

96年までの、沖縄の事件・事故年表も載っている。
考えられないような、
ペースで、
米軍による車『Yナンバー』が、
幼い命、
旅行当時の自分とそう変わらぬ若い命、
経験を重ねた尊い命を、次々と残酷に奪っている。
車は、まるで砲弾だ。
自分が、
旅行中利用した、タクシーやバスは、
米軍の『Yナンバー』と、
すれ違ったのだろうか?
海岸線を北上していたとき、
事故の可能性など、
これっぽっちも考えていなかった。
地位協定という、悪魔のような法律が、
残されたものを、さらなる苦しみへと追い込むことなど、
考えもせず、知らなかった。
他にもたくさんの、本が出ているだろう。
本になっていないことが、あるだろう。
自分は一体、
どれだけのことを、知らないのだろう?

「〇〇するのも…本土の人たちです!〇〇するのも、本土の人たちです!

「〇〇」の中に入る言葉の正解は?

***************************************

2017年も、もう終わろうとしている。

つい最近も、
米兵は、飲酒運転で男性の命を奪い、
ほんの数日前、
米軍のヘリコプターは、
普天間に近接する、
保育園に固い瓶を、
小学校に、そのヘリのブ厚い窓を、
空から落としている。

*この自伝は、事実を元にして書いていますが、あくまでフィクションです*

つづく→

ド不幸自伝③ ~バカラ~

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≪前回までのあらすじ≫
:20代前半。両親の借金のため、兵器工場で、働くことになった自分は‘モアイ’像によく似た男と、知り合いになった:

モアイは、
自分を、
今まで全く知らなかったような場所へと、
連れ出した。
例えば、
モアイは、
こんなことを言うのだ。

バカラ行こか」

自分は、
バカラ’の意味がわからない。

「まあ、ついてこいや。社会勉強や」

そう言われると、
まるで雛鳥のように、
自分はモアイの後を追ってしまう。
だからなのか、
モアイの姿形で、一番記憶しているのは、
後ろ姿だ。
背は、それほど高くない。
手足も長くなく、
いかり肩で、啖呵を切るような歩き方は、
本当に、モアイ像が歩いてるかのように見える。
かといって、堂々としているわけでもなく、
常に、何かに怯えているようだった。
いや、『ようだ』ではない。
観光客が、
携帯電話で記念撮影をしているところに、
出くわすと、
モアイは慌てて、
水たまりを避けるように、
カメラの焦点から逃げ出そうとする。

「人の映像に入りたくないねん」

と、モアイは言う。
自分はモアイは何か、
変わり種の宗教にでも入っているのか?
と、思った。
そんな怪しさも、
人物にひとつの‘魅力’があるうちは、
神秘性に変換されてしまう。
オウム真理教の信者などは、
麻原彰晃を、
ハンサム・ダンディーに感じていたというくらいだから。
そういえば、
モアイは麻原のことを、

「アイツも、力は持っとったんやで。ただ、蛇が降りていたらしいな」

と、言っていた。
90年代後半、
オウム事件の記憶は、世紀末の象徴として、
大変生々しく、
まだまだ話題に上がることが、多かった。
原発事故以前、
国の構造そのものの崩壊に、
気づいている人は少なく、
そのぶん、
個人の心は、
それこそ、
草や木のない工場地帯のように、
荒廃していた。

一方、
モアイの立ち振る舞いの方は、
神秘性からは、全くかけ離れたものだった。
チェーン・スモーカーであることは、まだ良い。
チェーン・ドランカーでもあった。
右手にいつも、
安物の缶チューハイを握りしめ、
酒臭い息を吐き、
シラフであるということがなく、
却って、
飲んでいる状態が、シラフに見えた。

服装も、思い出した。
無意味なアルファベットのロゴが刺繍された、
真黒いキャップを深く被り、
サングラス姿で、
酒に焼けた赤黒い顎が、
庇の下から付き出るように、延びている。
常に、
黒もしくはグレーの、
上下スウエットを着用しており、
まるで、自ら闇に飲みこまれようと、しているかのようだ。

モアイは、
夜の街の路地裏へと、入っていく。
自分は、その後を追う。
22歳の自分など、学生のようなものだ。
夜の街に繰り出しても、
街の表側しか知らない。
行くところと言えば、
チェーン店の、居酒屋くらいだ。
モアイは暗闇へと、
暗闇へと入って行く。
もはや闇に溶け込まれ、
終いには、見えなくなっていく。
慌てて後を追う自分も、光から遠ざかる。
かすかなネオンの光を
背中を頼りに、感じとるしかない。
いつのまにか、
地下へと降りる階段を、
一段、一段下って行く。
長い階段ではない。

奥底に、人影の気配を感じる。
近づいても、顔は全く見えず、
背格好からかろうじて、
男であることくらいしか、わからない。

「このビルに、バカラはあるか?」
モアイは、男に尋ねた。

目が慣れてくると、
ブ厚い鉄の扉が、正面にあるのが、
薄ら見えた。
顔が見えないその男は、顎でモアイを促し、
扉をぐいっと開けた。
光が射すかと思ったが、
かすかな青い光が漏れてくるだけで、
相変わらず、暗い。
男の顔が、
幾分、はっきりと判別できるようになった。
見てみると、
赤茶色に染めた髪の毛が、
唯一の特徴と言えるくらいの、
どこにでもいるような、
男だった。
ベストに蝶ネクタイ姿で、
ひどい、仏頂面をしている。

さらに目を凝らすと、
扉の向こうは、広い空間だ。
中央に、
大きなルーレット台があり、
何人かの人間が、
椅子に座って、台を囲んでいる。
モアイは、
馴れた様子で空いている座席に腰掛けた。

「オレはどうしたらええの?」
自分は、モアイに聞いた。
「そこの空いてる椅子に、座っとったらエエ」
モアイは言った。
言われた通り腰かけるとすぐ、

「そこ、座らんといいてくれ」

と、背後から野太い声がした。
振り向くと、
上下ブルーのスーツに、
これまたサングラス姿の大柄な男が、自分を見降ろしている。
仕方なく移動し、
モアイの斜め後ろの、
何もない床に、所在なく立っていることにした。
ルーレット台で、
モアイが何をしているのか、わからない。
モアイの正面に、
先程の男とはまた違う、
ベストに蝶ネクタイ姿の男性が立っている。
(ディーラーというやつだ)

早く帰りたいと、自分は思った。
これが、社会勉強なのだろうか?

「チッ!」

モアイの舌うちが暗闇に響いた。
モアイは、
スウェットのポケットに手を突っ込み、
4,5枚の一万円札を取り出すと、
無造作に、
ルーレット台の上に投げつけた。
ディーラーは、
「ありがとうございます!」
と、叫び、
暗闇の四方八方から

  「ありがとうございます!」        「ありがとうございます!」


        「ありがとうございます!」

                      「ありがとうございます!」
 「ありがとうございます!」

と、声が、聞こえてくる。
モアイが、ルーレット台に投げつけた、
一万円札は、
まるで、鼻をかんだ後の、
ティッシュのようで、
全く価値あるものに見えず、
金銭の尊厳も全く無かった。
例え、自分があの金を、
「バカなことに使うな!」
と、取り上げて、別なコトに使おうとしても、
腐り果てた金は、効力を失い、
誰からも、突き返されそうな気がする。

どれほどの時間、
この空間にいたのか、覚えていない。
どうやって、帰ったのかも覚えていない。

(モアイは一体、金をどんな風に思っているのだろう?)

そんな疑問が残ったことだけ、覚えている。

***************************************

このように、
1998年は、
モアイと二人で遊び歩いていた。
モアイの周りにいた、
元工場の若者たちは、
皆、粉もの屋の店員となっていたので、
モアイは自分を、遊び相手に選ぶしかなかったのだ。
モアイが、
粉もの屋の店頭に立ち、
働いていたのは、開店してほんの2,3日間だけだった。
自分たちだけが、働かさせられてる若者たちは、
次第に、モアイへの不信感を深めて行き、
ひとり辞め、
ふたり辞め、
やがてモアイと自分の二人だけになる。

**************************************

98年7月30日に、
橋本内閣から、小渕内閣へと変わっている。
小渕内閣の記憶は、余りない。
覚えているのは2000年4月、
在職中の小渕氏が倒れ、
急逝してしまう直前の会見映像だ。
当時の自由党との決裂について、
小渕氏が、記者からの質問に答えようとしたときの、
不自然な言葉の空白を捕えた、
あの衝撃的な映像だ。
明らかに小渕氏に、
病魔が襲いかかった瞬間だった。
この政治劇の成り行きに、
全く注目しておらず、何も知らなかった自分は、

(小渕さん、気の毒やな。小沢一郎というのは、ずいぶん冷血な人なんかいな)

と、単にテレビの印象から、そう感じていた。
90年代は、
インターネットより、
テレビや雑誌の影響の方が、まだまだ強く、
余り見る方ではなかった自分も、
時事問題の記憶は、
テレビ映像で脳内再生される。
98年8月に、
丸っこく可愛らしいデザインの、
初代i-macが発売され、
この大ヒット商品を、
さほど、間をおかず購入したはずだから、
この年が、自分のインターネット元年だ。
そうは言っても、
SNSも、アマゾンも無い時代だから、
単に、情報収集の1ツールとして使っていただけだが。

先程、個人の心の荒廃について書いたが、
真に荒廃していたのは、自分の心である。
恐ろしいもので、
荒廃は即、
極度の社会的無関心へと繋がる。
二千円札地域振興券
本当に、
くだらないことだけが、
記憶の断片に残っている。
一方で、
今に至る、
自公連立政権小渕内閣から始まっており、
後の、安保関連法のひとつになる、
周辺事態法も、
小渕内閣で、
成立されてしまっている。
悪ふざけでも何でもなく、
こんな大切なことすら、覚えていないほどの、
荒廃なのだ。
この時期、意識をまともに保っていた方に、
小渕内閣とは何だったのか、教えてほしいくらいだ。
権力者は、庶民に、モノを考えて欲しくはないだろう。
酒、ギャンブルなどに依存してくれれば、
それで万々歳だ。

この他にも、
モアイが、
自分を連れて行く場所は、
競馬場、競艇場、パチンコ屋…
そういった場所、ばかりだった。
本来、自分には全く興味のない所だった。
モアイは何故か、
パチンコ屋の社長や、
そこに出入りする、
知り合い、そのまた知り合いを
次々と紹介してくる。
皆、
モアイと同じように、
拝金的な考えと
刹那的な感性を備えていて、
漂うオーラは、似たようなものだった。

当時の自分の写真を見ると、
上下、スウェット姿で、
夜でもサングラスをしている。
知らぬ間に、
格好までモアイにそっくりに、なっていたのだ。
10数年後、
工場の派遣仲間の若者のひとりと、
街中で偶然再会したとき、

「戻ってきたんやな」

と、言われようやく
世紀末当時に、
自分がおちいっていた状態を自覚し、
背筋に寒いものが走った。

荒廃の例は枚挙にいとまがないし、
もうしつこいので、この辺でやめておくが、
次回、
モアイと沖縄に行ったエピソードだけは、
書いておこうと思う。

*この自伝は、事実を元にして書いていますが、あくまでフィクションです*

つづく→


ド不幸自伝② ~モアイという男~

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その男のことを、
‘モアイ’
と、呼ぶことにする。

モアイと工場内で、
初めて出会ったとき、
彼の顎周りの骨格が、
非常に、
しっかりとしていて、
なおかつ面長なのが、
まるで、
イースター島のモアイ像のように、
見えたからだ。
(悪い感じは、しなかった)

大体、
発表するつもりの文章に、
本名を、使うわけにもいかない。
それに、
モアイの本名を、
パソコンのキーボードで打ち込み、
見るたびに思い出すことに、耐えられない。
自分は、
モアイに酷い目に合わされたのだ。
そもそも、
モアイが最後に使っていたのが、
彼の本当の名前だという保証は、
どこにもない。

あのような、
喋り方をする男に出会ったのは、
初めてだった。

ベタな例えをすれば、
アクの強い、関西弁を使用する、
吉本興業
‘しゃべくりが旨い’
タイプの、
芸人のような感じだ。
彼の一言一言には、奇妙な吸引力があった。
互いの自己紹介をしたとき、
モアイは私に、

「大阪で宝石商の仕事をしとったけど、今は休職中」

と、言った。
自分は当時、
1から10まで、
嘘をつく人間というものが、存在することを、
まだ、知らなかったのだ。

工場に勤めてから、
1年も経つと、
自分の身の周りの人間関係も、
出来あがってきていた。
昼休み、
一時間の休憩時間、
派遣会社の人間たち同士、
機械音が鳴り響く食堂で、
油臭い、仕出し弁当を食べていた。

正社員と派遣社員の間には、
やはり、一定の距離があった。
正社員が派遣社員を見下しているとは、
特に思えず、
(あるいは、気付いていなかったのか)
『所詮、別会社だから』
と、いう単純な理由で食堂のテーブルも、
それぞれに、何となく分かれている、
くらいの感じだった。

派遣会社は、
自分の所属していた社だけでなく、
もうひとつあり、
そちらは、明らかに、
「ランクの低い」仕事に当てられていた。
ロッカーでの着替えのとき、
‘そちら’の、彼らは重油で黒く汚れた作業着を、
脱ぎ去る。
そのたびに、刺青の入った浅黒い肌が、
蛍光灯の光をぎらりと弾く。
見るたびに、
自分は、暗い気持ちになった。

一方、
自分の所属していた方の、
派遣会社には、
同年代の若者が多かった。
入社(単なる登録)理由を、
彼らに尋ねてみると、
「何となく」「雑誌で見て」「親に怒られて」「就職できなかった」「役者志望の劇団員」
…etcと、いったトコロだった。
90年代半ば、
不景気への危機感が、
当事者にも、まだなかった。

湯浅誠さんが岩波新書から『反貧困』を出版したのは、2008年のこと』)

グループをほぼ20代が占めてる中、
モアイの存在は、珍しかった。
彼だけが、40近い
‘オッサン’。
ゆえに、話すコトからは、
酸いも甘いも、味わってきたような
人生経験の豊富さがあるように、
若者たちは、錯覚する。
いつの間にか、
モアイが中心にいて、自分も含めた若者たちが、
彼を取り囲む形になった。

若者のひとりは、
モアイのことを

島田紳助みたい」と言う。

もうひとりの若者は、

松本人志みたい」と言う。

するとモアイは、
彼が、吉本興業に所属している芸人と、
友人関係にあるという話を、
するのだった。
その中には、
今では故人となってしまった、
関西圏では誰もが知る、
大物芸人の名も上がった。

「アイツとは、よう祇園で遊んでいたけど、今の姿からは、
 考えらんくらい、小心者やった」

「宴会のとき、アイツの目の前で裸になったら、
 『オマエみたいな奴は、貴重な人間やから、オレらと一緒に、お笑いやれ』と言われた」

…このようなモアイの話を、
自分たち若僧は、目を丸くして聞いていたのだ。

次第に、
モアイと、会社以外の場でも、
遊ぶようになった。
派遣会社グループの若者たちは、
焼けつくようなストレスを、抱えていたし、
刺激を求めていた。
高いアルバイト代も、
馬鹿馬鹿しい、欲求不満の解消へと、
消えていく。
ひとつは、酒と食欲だ。
グループで酒に強いのは、
自分と、モアイのみだったが、
皆、飲めなくとも、
仕事の帰り、
居酒屋や、焼き肉屋に入り浸り、
安物のビールと、
色のついた、
甘ったるいチューハイを、
ガブ飲みする。

とにかく、
モアイは自分の人生の中で、
‘新しい人間’だった。
彼は、酒の席で(いや酒の席でなくとも)
必ず、在日コリアンのことを、
こちらの耳を潰したくなるような言葉で、
罵った。
使用してはならない言葉の連続に、
自分は、

「どこの国だろうが、良いヤツ悪いヤツはいるやろ?」

と、素朴に応対したのだが、
モアイは、
「なら、一度アイツらと…」
さらに救いようのない言葉を、浴びせる。
自分が、
世間知らずだったのかも、しれないが、
当時、
差別感情の存在は、
道端の石の下側の湿った場所に、
あるように感じていた。
まだ、
ヘイト・スピーチという存在は、表に出ていない。
モアイが石の下から、
引っ張りだしてきた、ヘイトには、
呆然とするしかなかったし、
モアイのような考えの人間がいることが、
不思議で仕方なかった。

なぜ、そのような人間との付き合いを、
辞めなかったのか?
それが、わからない。

とにかく、何でも良いから、
自分は、アテにする存在が欲しかったのだろうか?
モアイと出会ったとき、
父が、すでに死んでいた。
手遅れの癌に犯されていた父が、死んだ日は、
英国で、あの可哀そうなダイアナが、
好奇の目に応える、パパラッチたちの目により、
高速道路で殺された、
1997年の8月30日だったので、
よく覚えている。

21歳で、父を失うというのは、
中途半端だった。
気持ちに踏ん張りを効かせたら、
父の存在など、
特に指針にすることもなく、
人生を、
切り開いていける年齢にも思えるが、
今にして思えば、
ただの子どもだ。

「寄り添う物が、欲しかった」

と、いうわけではない。
しかし、
強烈な個性の、年上男性を見ると、
虫が、電気の光に、
吸い寄せられるかのごとく、
ただ、本能的にそこに向かってしまう。
数字の上では、
成人しているとはいえ、
理由のない本能を疑うほど、
自分の心を、客観的に見つめることができる、
年齢ではなかった。

不幸中の幸いというのか、
両親が、
喫茶店経営の失敗で抱えた借金は、
父親名義によるものだったので、
父の死と共に、
相続放棄し、支払いの義務はなくなった。
それでも、
元妹の学費は稼がねばならず、
家に主要な働き手がいないことにも、変わりなく、
何より、
毎日毎日、兵器を作り続けているという灰色の事実が、
自分の心を、少しもラクにさせなかった。

***************************************

政権は、
相変わらず、橋本内閣だった。
当時自分は、借金を返すことのみを、
目標に生きていたので、
広く社会に向ける目など、持っていなかった。
だから、橋本内閣の仕事など覚えておらず、
ただ何となく、
鈍重な、安定感のようなものがあったのを、
単に感覚だけで、覚えている。
‘ポマード頭’などと、
くだらない指摘をよくされていた、
橋本龍太郎より、
その前、村山内閣の退陣と共に、
アッという間に、
社会党が崩壊してしまったインパクトの方が、
よほど強かった。
自分は、社会党のことなど、
よく知らなかったし、
村山内閣が、
自社連立政権であることも、
ちゃんと、理解していなかった。
それでも、
社会党という、
巨大野党の党首が、
内閣総理大臣の職についたのは、
人生で、初めてのことだった。

(細川内閣の時は、自分はモノを知らない高校生だった上、内閣の存在がアヤフヤだった)

それが、
何も変化を起こせず、
「売党村山」と、言われながら退陣し、
結局、
いつの間にか、変わり映えのしない、
自民党政権に落ち着いている。
自分が政治に対して、
何処か、二ヒルになってしまったのは、
この辺りが、
結構、原体験になっている気がする。

***************************************

モアイとの付き合いが、
本格化するのは、
工場での話ではない。
モアイは、
意外にアッサリと、工場を辞めた。
派遣会社の人事担当の人に
尋ねると、
「お母さんが危篤」
と、いうことらしかった。
(それなら仕方がない)
自分は、
これから、仲良くなるところだったのに、
モアイはずいぶん水くさいな、
と、思った。
モアイに限らずとも、
派遣仲間で、
長く工場の仕事を続ける人間は、
余りおらず、
グループにいる人間の回転も早かった。
自分は、
この兵器工場で、
3年半、
1999年の半ばまで、
働くことになるのだが、
辞めるころには、
周りの顔ぶれが、入社当初とすっかり変わっていた。

モアイから、
再び連絡があったのは、
年も明けた、
1998年の冬のことだった。
多くの人に、
携帯電話が普及し、
個人個人で連絡を取り合うことが、
以前よりも、ずっと容易になっていた。
自分もこの頃に購入し、
そのうち10ケタだった、
電話番号も11ケタに増えることになる。

京都一の繁華街、
河原町の居酒屋で、
モアイを囲む、
『工場同窓会』が、行われた。
自分は、
「お母さんは、どうなったん?」
と、モアイに尋ねた。
「悪い嘘やないやろ」
と、モアイは答えた。

モアイが言うには、
「これから事業をやろう」
と、いうことだった。
木屋町に借りれる見込みの物件を見つけた、
そこで、
タイ焼き、焼きそば、タコ焼き、
粉ものを出す店をやろう、
酒も出して、
客を呼ぼう、
店員が必要やから、
おまえらやらへんか’

…モアイは、
その口の旨さで、
工場にいた時から、
若者たちに、
「組んで仕事をしよう」
と、持ちかけていた。
将来が見えてるものなど、
誰もいなかったから、
皆が、この話に飛びついた。
ただ、自分だけが、
未だに工場に勤めていたので、
参加はせず、
数ヵ月後、
本当に開店した粉もの屋は、
仕事帰りに遊びに行く、
絶好のストレス解消の場となった。

工場→河原町→自宅
の、トライアングルが生活習慣となる。

***************************************

山一証券が廃業したのは、この頃だった。
自分は、未だに証券会社というものが、
何なのかわからない。
だが、
山一証券
と、いう
赤い看板文字は、
事業の中身がわからなくとも、
無機質なビルディングの中に、
あたり前の風景として、存在していたものであり、
それが、無くなるということで、
何となく、
今まで信じて疑わなかった、
国の経済基盤が、
普通のものではなかったのだ、
という実感が、
初めて湧いた。

今でも、語り草となっている、
当時の野澤正平社長の涙とともに、
モアイに飲み込まれていく、
自分の生活も、
ガラガラと音を立てて崩れていくのだった。

*この自伝は、事実を元にして書いていますが、あくまでフィクションです*

つづく→


ド不幸自伝① ~兵器工場~

 

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昨日、100円を拾った。
金を拾ったなど、何年ぶりのことだろう。
これは、予兆だ。予兆にちがいない。
金だ。
金が、オレのもとにやってくる。

そういえば、
「不幸は、金になる」
と、
マンガ家の西原理恵子さんが言っていた。
不幸体験に対峙する、
諦めの悪さの象徴として、
ふとした時、
自分の頭の中をよぎる代表格が、
この言葉だ。

西原さんのパートナーは、
これまた有名人の、
高須クリニックの先生なのは、
周知の事実。
高須氏は、
ボクとは真逆のスタンスの、
ある種の悪名高さで、通している。
最近、自分はツイッターを再開したので
(フォローお願いします)
高須氏のを、ちょっと見て見た。
目を被いたくなるような、つぶやきの中で、


西原理恵子のファンは全て僕の大事な人です」

と、あった。
うまく言い表せないが、
結局、
こんな感じの人と自分とは、
反射神経のレベルで、似通っているような気がする。
世にも恐ろしい話である。

せっかくだから、
書いてみよう
「不幸」
なんせ、金になるらしいから。

不幸話なんていうものは、
過去のものとして、
抜け出した状態でないと、
痛々しくて、書けるものではないだろう。
自分は、
抜け出しているから、
書くのだが、
抜け出しているということは、
オチも、わかっている。
あらかじめ決まられたオチに、
向かって、
書きすすめていくんやけど、
そういうのは苦手なので、
不安だ。
明後日の方向に、行くならまだしも、
途中で飽きて終わったら、
どうしよう。
飽きんためにも、
なるべく手短に、
カンタンに書きますね。

************************************

時は、1996年。
21歳のとき。
高校を出て、
アルバイトをしながら、
京都市左京区茶山のアパートで、
1人暮らしをしていた。
正社員として働いていなかったのは、
職にあぶれた…
と、いうわけでなく、
単に、
世の中と、
うまくいっていなかっただけのコトだ。

バイト先の同僚が、

「今の日本、どこかで適当な職についたら、別に食いっぱぐれることはない」
(だから、とりあえず、アルバイト暮らしをしていても良い)

と、言っていたのを覚えている。
自分の認識も、似たようなものだった。
バブル崩壊
と、いう言葉を聞いたのは、
高校生のとき、1993年。
不景気だとは言われてはいたが、
好景気の名残もまだ、あった。
だが、とっくに日本経済は下り坂に入っていて、
雇用システムの崩壊が、スタートしていたことは事実だった。
(後に、身を持って知ることになる)
自分は、ニブすぎて、
いろんなことに、気付いていなかった。
そもそも、
学校を、ドロップアウトしていたため、
新卒の就職状況など、
全く知らなかった。

そのように、
ノン気なアルバイト暮らしをしていたのが一転、
飛び出していた伏見の実家に、戻ることになってしまった。

自分は実家を憎悪していた。
その理由の一部は、
以前のブログで少し触れたが↓

tarouhan24.hatenablog.com

元母親(この言い方が限界)による、
幼少期からの虐待であった。
それでも、戻らざるをえなくなったのは、
元母親と父親が、喫茶店経営に失敗し、
借金を抱えた上、
父が入院することになったからだった。
(すでに、手遅れであった)
加えて、
妹(これも、元)の学費が必要であった。

更新料を支払ったばかりの、
アパートを引き払い、
実家の団地へと、引っ越した。
とにかく、金が必要だ。
気持ちを、切り替えねばならない。
アルバイト雑誌を購入して、
目についた、
一番時給の良い仕事に、迷わず応募することにした。

応募先は、
京都市南部にある鉄工場だった。
募集広告には、
その工場ではなく、
北大阪にある派遣会社の社名が書かれている。
初めて知った、
派遣会社という存在だった。

疑問に思うのだが、
自分のイメージでは、
労働者派遣法を、
派手に規制緩和したのは、
小泉内閣
調べてみると、
小泉内閣の忌まわしい仕事の中で、
製造業も、規制緩和の対象に入っている。
ところが、
施行されたのは、
この時よりはるか後の、2004年。
1996年は、橋本内閣だ。
橋本内閣は、26種の業務を緩和の対象にしたらしい。
ここだろうと思い、調べたが、
26種の詳細のソースが、発見できない。
だが、
この辺りを境に、
アルバイト雑誌に派遣会社の名前が、
急に増え始めたのは、確か。
法の施行と記憶を照らし合わせても、
イマイチ、ぴたりと当てはまらない。
この時期から、
自分の人生は混乱していくので、
いろんなことがデタラメになって、
様々な記憶違いを、呼んでいるのかもしれない。
そもそも、
インターネットでの、大ざっぱな調査では、
お話にならないだけなのかも、しれない。

************************************

製造業の経験など全くないのに、
即、採用だった。
工場内を見学した時、
激しい音で回転する電ノコを、
ブ厚い鉄板に当てがい、
バチバチと火花を立てながら、踏ん張っている、
手持ち面姿の工員を見て、

(自分に、こんな仕事がやっていけるのだろうか?)

と、思った。
不安というより、
今後20年かけて、大切に使うはずだった、
人生のエネルギーを前借りし、
21歳にして、
自分が早くも枯渇してしまったかのような、
気分だった。

就労して見ると、
思っていた程の、恐ろしい仕事ではなかった。
工場では、
様々な鉄塊を、
大がかりなシステムで、
切断し加工し、形にする。
どれほど鋭利な刃物で切り裂いても、
切断面には、ギザギザや鉄屑が付着する。
これを、
工場内では、
「バリ」とか「カエリ」
とか、言う。
加工品は、精密機械の一部になるはずなので、
この「バリ」があると、
機械の動作に支障をきたす。
「バリ」を、
ヤスリ、研磨機、砥石などで削り、
油で洗浄して、
(こればかりは、手作業でないと不可能だった)
計器を使用した、簡単な検査を終えて、
段ボール箱に詰め込み、出荷するのが仕事だった。
さほどでもない、
肉体労働といったところだろうか。


大型の研磨機で、
鉄片のカドを削り取るとき、
ブワッと発生する粉が、
高性能の、防塵マスクを装着しようとも、
自分の健康を蝕み、
寿命を縮めているような、気がしたものだった。
派遣社員だからなのか、
夜勤は、免除されていたので、
夜、眠ることができたのは、
幸いであった。
だが、作業は単調で、
毎日毎日、時間が経つのがウンザリするほど、
遅かった。

とにかく、カネが必要だ。
自分は、信じられないくらい従順だった。
タオルで頭を叩かれても、
そよ風のように、感じた。

従順の成果だろうか。
ある日、

「君、良かったらココの社員にならないか?」

と、工場のセンター長に言われた。

「考えさせてください」

と、自分は答えた。
日本経済は、
ここから、さらに落ち込んでいくので、
派遣社員から、正社員に「昇格」する機会も、
どんどん減っていくことに、なる。
「考えさせてください」
と、答えたのは、
望まぬ仕事の、正社員になってしまって、
人生の牢獄から、
抜けなくなってしまう、
と、いう恐怖もあったが、
とりあえず、
派遣社員として、在籍している方が、
手取りが良い。
そのことの方が、大きかった。
時給1300円は、当時として破格だった。

大体、
社員になるも何も、
自分が、
この工場で何を作っているのかさえ、
知らなかった。
ある日、
隣で作業をしていた社員に、
加工中の鉄片を見せ、

「これはなにになるんですか?」

と、不意に尋ねた。

「それは、オマエ…ミサイルやぞ」

と、社員は答えた。
彼が、冗談を言っているのかと思い、
自分は、愛想笑いで返した。
社員が、呆れた様な無表情で、
自分の顔を見るので、
「ミサイルなんですか?」
と、思わず聞き返した。
「ミサイルや」
彼は、繰り返した。
そんなことを言われても、
実感が湧かない。
自分は、握りしめていたハンカチを、
ポトリと落としたような、気分だった。

「昔は砲弾作ってたんやぞ。こんな(丸い)砲弾。
 ところが、淀が平和の街になってから、砲弾作れんようになった。
 ほんで今は、ミサイルやねん」

自分は、彼が何を言っているのか、よくわからなかった。
少し、パニックになっていたのだろうか、

「もし、原子爆弾を作る仕事だったら、どうします?」

と、自分は言った。
何のために、
こんな、とんでもないことを、
口にしているのだろう?
と、思ったが、
口元から、だらしなく言葉が漏れた。

「そんな、人殺しの道具を作るんやったら、オレ会社辞めるわ」
と、彼は答えた。

真っ先に心配したのは、
PKOだった。
周辺事態法が成立するのはまだ先、1999年。
イラク戦争も始まってはおらず、
1992年の、宮沢内閣のときに成立した、
PKO法こそ、
自分の作る兵器が、
買い手である自衛隊によって、
現実に、海外で使用されるかもしれない、
一番の可能性のように感じた。

PKOの意味が、
「国連平和維持活動」
であることだけは、知っていた。

(平和維持活動なのだから、大丈夫だろう)

自分は、
湧き上がりかけた危惧を、
一瞬で飲み込んだ。
自分は今でも、
PKOの実態はよく知らない。
今(2017年)、
多数の安保関連法が、強行され、
防衛費は拡大し、
当時と違い、
日本が集団的自衛権を受け入れてしまった、
状態となっては、
PKOから、武器使用を連想するなど、
単なる、考えすぎか、大間違いなのかもしれない。
だが実際に、
自分が、ミサイルを製造している事実からは逃れようがない。
(何処で使用されるのだ?)
と、いう恐怖は常に存在する。

作業中、
自分の持ち場の横に座っている、
パートのおばちゃん(皆、子どもの学費稼ぎのために勤務していた)
たちが、

「昨日、訓練(自衛隊)終わったらしいで。ウチから出たやつ(ミサイル)
 大丈夫やったみたいやア。良かったな」

とか、会話しているのを耳に挟んで、
「そうや。訓練!これは訓練に使われているものなんや」
そう強く思い、自分の心を納得させた。
検査中作業中の、
ミサイルの尾に当たる部品を、
清潔な白手袋で、ぐっと握りしめた。

工場は、
大手企業「コマツ」の下請けだった。
コマツは、
テレビCMで、
メジャーリーグの、
ロサンゼルス・ドジャースで大活躍していた、
野茂英雄投手の球を受ける、
マイク・ピアッツァ捕手が、
出演するCMを、流していた。
CMは、
ピアッツァ捕手の、イメージ・ビデオの様で、
コマツが、
何をしている企業なのか、
全くわからないシロモノだったから、
放映の目的が理解できなかったが
…なるほど、イメージアップのためだったのだ。
そういえば、
三菱なんて、
思いっきり軍需産業だ。
日立が「この木なんの木」
東芝が「サザエさん
の、裏で
原子力発電所を建設していることに、
気付くのは、
まだ先のことだったが。

(なんでも良い、カネが必要なのだ)

毎日、こう思っていた。
自分は、気付かぬうちに、
軍産複合体に巻き込まれていたのだ。
工場の作業着の下、
身につけていた、
愛用のジョン・レノンTシャツが、お笑い草だった。

*この自伝は、事実を元にして書いていますが、あくまでフィクションです*

つづく→  

主夫日記11月8日 ~死刑判決と、I hope peace~

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どうも、
子どもを保育園に送りだす以外、
全く家から、出ていないような気がする。

唯一の、
社会との接点は、
コンビニで購入する新聞だ。
新聞報道の正確さなど、
全く、当てにならない。
そんなモノが、
唯一、社会への窓口なのだとしたら、
自分がどんどん、
作り物の世界に生きているかのような、
ヘンな錯覚に捕らわれてしまう。

癖みたいに、
余計なことを考える。
考えては、書く。
こんなことを書くのは、
最後にしようと、
いつも思うのだが、
考えては書く、
と、いうサイクルから、
ちっとも逃れられない。
まるで、
何かに取りつかれたかのようだ。

************************************

いつも買わない、
朝日新聞を買った。
トップ記事に、
何となく、引き寄せられたのだった。
自分は、全く知らなかったのだが、
痛ましい、
連続不審死事件の、判決が出たと書いてある。

記事を読んでいるうちに、
ますます、痛ましい気持ちになった。
被告は70歳の女性で、
4人もの、
高齢男性の不審死に関わった疑いがあり、
判決は死刑だということだ。
被告と男性とは、
いずれも、
結婚、交際していたという。

弁護側は、
「犯人は被告ではない」
と、無罪を主張しているが、
被告本人が、
「私は何人も殺めた。でも、過去は消しゴムで消せないからね」
と、新聞記者との面会で、語っているらしい。
被害にあった男性や、
遺族の方の無念のコメントを、
目にすると、
とても、悲痛という言葉では言い表せない。

************************************


たまに、
孤独について考える。
現実の自分は、
家族もあり、
「平和」な世の中で、平穏な日々を過ごしている。
だが、
ひとたび、
こうした文章の中に、自分を出すと、
客観的な作為のモノサシが、
嫌でも入ってしまうから、
出した瞬間、その自分は、
虚構のようなものだ。
虚構の自分は、
孤独に耐えることができる、
フリをしている。
(このブログの、冒頭部分がそうだ)
しかし、
耐えることができる孤独など、
本当に、存在するのだろうか?

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10年ちょっと前、
車の免許を、合宿で取りに行ったとき、
教官のひとりが、
(おそらく嘱託だろう)
警察での仕事を、定年まで勤めたと、
自己紹介で語っていた。

「辛い仕事をしていました」

と、彼は言った。
聞くと、
事故を起こし、
「免許を取り上げられると、明日から家族を養うことができない」
と、彼に訴える、
運送業のドライバーに、
免許取り消しの処分を下したことも、
あったらしい。
自分は、体中の血が逆流するのを感じ、
思わず、椅子から立ちあがったが、
少しの開き直りもない、
何かを直視した彼の目と、
真一文字に結ばれた唇を見て、
やりきれない気持ちで、
ヘナヘナと、腰が砕けたのを、覚えている。

自分が、
今後、経験することがあるのか、
わからないが、
仕事を完遂するというのは、
あの教官のようなことなのだろうか?

時代は、
良い方向にも、悪い方向にも変化している。
だが、
いわゆる、
‘ひとむかし前の男性’
の、中には、
『生きる』ことよりも、
『生き残る』ことを、
重要視せざるを得ない背景が、
あったのではないだろうか?
あくまで、勝手な想像だが。

形は違えど、
『生き残る』ために『生きる』
と、いう感触は自分の中にも確かに存在する。

真の孤独とは、
生き残らざるを得ない、
やるせなさだろう。
こんな、世の中でなかったら、
誰かのために、
精一杯、優しくしたかった、
という悔いが、
不意に、
ひとりの男の中に、
現れることを想像してみる。

被告女性から、男性へのメールの中には、
「私のような愚女を選んでくれてありがとう」
と、いう文もあったらしい。
女性は、被害者のことを、
「みんな、穏やかで良い人だった」
と、振り返る。
また、最初の被害者である、
長年連れ添った男性には、
「差別を受けた」
として、彼女が明快な意図を向けていたという、
記事もある。

私くらいの人生経験では、何もわからない。

一体、
自分は、何のためにこんなことを、
書いているのだろう。
人命が失われた事件を、
ほじくり返すなど、卑しいことだ…。
新聞記者の取材は、
あくまで、取材したことが書かれているだけだし、
私は、事件を今日のこの記事で知った。
出会いがしらの、又聞きだ。
正確なことなど、わかるはずもなく、
それこそ、
単なる癖で、
余計なことを、考えているだけなのかもしれない。
又は事件を、
架空の物語のように、
勝手に解釈しているだけなのかもしれない。


動機は、金銭?
金銭目的で、
そのようなことが、できるのだろうか?
ドストエフスキー
罪と罰」での、
ラスコーリニコフの犯罪動機など、
現実に比べれば、
単細胞なものだ。


彼女から、
謝罪の言葉は、
ついに聞かれなかった、と記事にある。

「私は何人も殺めた。でも、過去は消しゴムで消せないからね」
「みんな、穏やかで良い人だった」

このような、
言葉が出てくる心があれば、
ウソの謝罪を述べることなど、
簡単だろう。
なぜ、謝罪すらしないのか。
謝罪することにより、
破壊されてしまう心の内が、
(おそらくは)
この罪びとにあるのだとしたら、
それは、一体何なのだ?
わかるはずもない、
somethingだ。
なし崩し的に、裁かれる以外に方法はないのだろう。
オレは、相変わらず、
一番イヤな役を逃れ続けている。
この記事のすぐ横では、
一命で、
何人もの人間を殺めた男が、
世界のリーダーとして、
写真に収まっている。

この世が、
雑多な人間を乗せた
箱舟だと考えると、
そこから落下するものを出すことなく、
航海を続けることが、
いかに難しいかを、たまに考えさせられる。

個人的には
できることなら、
ホッとすることなく、
責任と情熱を持ち続けて、
強く生きたいものだ。

こういうやるせない時に、
使う言葉なのかな。
自分などが使うと、
安っぽくなると思っていたから。

I hope peace