たろうの音楽日記

日々の音楽活動に関する覚え書きです。

『オッサン』として生きるということ

 

f:id:tarouhan24:20170302011752j:plain

 

『オッサン』
それは、この世で一番、どうでもよい存在だ。

 

あれは、いつの日のことだろう?
子供乗せ自転車をひとりで使って、

近所の生協に買い物に行ったとき、

駐輪場の、何もないところで

勝手にこけ、
自転車の下敷きになったことがある。
すると、70代くらいと思われる、
ひとりの老紳士が、真っ青な顔で駆け寄ってきて、
「お子さんは!」と私に言った。
「子供は乗せてないんです」と下敷きになったままの、私が答えると、
「ああ、それなら良かった!」と、
大変爽やかな笑顔で、
老紳士は、その場を足早に去っていった。
足の何かやわらかいとこをふんずけている、自転車の充電器の重量感が、

悲しくも痛かったのを覚えている。

私は、この時の老紳士をリスペクトしている。
この世で優先すべきは、子供、女性、お年寄りだ。
オッサンの存在など、どうでもいい。
(だからと言って、バンバン危険な場所に送り込めということではない、
日常レベルで、どうでもよいということだ)

 

話は、少し飛ぶ。
私の生活のルーティーンは、子供を保育園に送った後、
前述の生協での買い物と、もうひとつはローソンに行って、

コーヒーと新聞を買うことだ。

ここのローソンのお兄さんは、異様なまでに、サービスが良い。
私が新聞を片手にレジへ向かうと、もうコーヒーが用意されている。
「今日は産経新聞ですか?」とか声をかけてくれる。
色白で、爽やかな笑顔で、まるでバンプオブチキンだ。
一度、「袋はご入り用ですか?」と聞かれたことがあるので、
たまたま「いらないです」と答えたら、
驚異的な気遣いで、その後全く袋をつけない。

気の小さい私は
「やっぱつけて下さい」とは口が裂けても言えない。

コンビニ。
ディス・イズ・コンビニ。
コンビニの中のコンビニ。
便利とサービスの洪水。
その中に溺れる、オッサンの私がいる。

しかし、何事にも対極というものがある。
20年ほど前、
京都の木屋町を、友人と二人でブラブラしていて、
入ったことのない、沖縄料理の店に、
思い切って入ってみようということになった。
のれんをくくった瞬間、後悔した。
千葉真一を思わせるオヤジさんが、
典型的な板前スタイルで、包丁を握りしめ、
私と友人を鷹のような鋭い眼光で睨みつける。
当然のごとく、
「いらっしやいませ」などない。
言うまでもなく、客は、ひとりもいない。
「今さら逃げられない」私と友人は思った。

なるべく、オヤジさんから遠いテーブル席に座った。
注文を全く取りにこないので、
着席したまま、
オヤジさんに向かって、大声で、泡盛と耳ガーと豚の角煮を注文した。
(大声がオヤジさんの気に障ったのではないかと、ビビった)

しばらくして、
泡盛と耳ガーが出てきたので、
私と友人は、当たり障りの無い会話をしながら、
チビリチビリとやっていた。
豚の角煮はなかなか出てこない。
しかし私たちは、こういうことに関しては、気が長い方だったので、

おいしい豚の角煮が出てくるのを、ゆっくりと待っていた。

そのまま、一時間半が経過した。

 

この間ずっと、客は私たちのみだ。
「言ってもええよな?」私は友人に言った。
「ええんちゃうか?」友人は言った。
私はオヤジさんに、
「あの…豚の角煮まだですか?」と何故か愛想笑いをしながら、
声をかけた。
「今、作ってる!」
オヤジさんはドスのきいた声で叫び、

額に脂汗を流しながら、鍋と格闘していた。
真剣である。
その後すぐ、豚の角煮は出てきた。
うまいのだが(余りの空腹に、多分何を食ってもうまかった)

やけに、量が少なかったのを覚えている。
残された問題は、ボラれたのかどうかということだけだろう。
これが、寄りに寄って適正価格だったのだ。
高くも、安くもない。
(いっそボッてくれ)私は思った。
余分に金でも払わなければ、救いようがない話だ。

 

私は、この沖縄料理の店のオヤジさんを、リスペクトしている。

オッサン(よく考えたらこの時、私はオッサンではなかったので、
‘大の男’くらに拡大解釈しよう)に、サービスなど不要なのだ。

 

オッサンに優しくする必要など、全くない。
オッサンが入りやすいように場所を作る必要など、全くない。

オッサンにおいしい料理を作る必要など、全くない。
オッサンの話を聞く必要など、全くない。
オッサンのおすすめする本を読む必要など、全くない。

オッサンに贈り物をする必要など、全くない。

オッサンを悪く言った後をフォローする必要など、全くない。

 

 本質的に、オッサンは世の中に不要なのだ。

 イザというとき、オッサンの救助は、一番後回しにされる(人間の本能だろう)のが何よりの証拠だ。

にも関わらず、この世はいわゆる「男社会」(オレが住んでるこの島だけの話?)
というやつである。

オッサンたちは、自分たちが本来、無用の長物であることに、
無意識レベルで気づいている。

それではマズイというので、オッサンたちは、歴史の中で無意味に抵抗を重ね続けた。

結果、

作られたのが、この古臭~い「男社会」なのだ。

オッサンたちは、自分が役に立たない人間になることを恐れている。
有用な人間であろうとすることに、やっきになっている。
だが、本質的に不要なのだから、んなモン抵抗しても、どうにもならないのだ。
そんなテンパった心では、せいぜい大切なものしか守れない。
人間が、役立たずであることを恐れる必要など、全くないのに、恐れてしまうのは、

オッサンたちが形成した、テンパった社会のせいであり、
誠に、オッサンたちは、自分で自分の首を絞めている。

 

『オッサン』
それは、この世で一番、どうでもよい存在だ。

この思いは、今も揺るがない。

そんな私も、この間41歳になり、
『不要な存在であるオッサン』という、厳しい道のりの

第一歩を踏み出してしまった、というわけだ。