たろうの音楽日記

日々の音楽活動に関する覚え書きです。

筒井康隆の死

 4月8日の朝日新聞で、

作家の筒井康隆が、
慰安婦像に性的侮辱表現をして、
問題になっているという、記事があった。

どのような、ひどい表現をしているのかは、
確認する必要がないな、と思った。


何せ、この作家はただ単に、もう古いのだ。
20年くらい前までは、この作家の信奉者は、
まだ、ちらほらいた。
作家は、朝日新聞の取材に対し、
「あんなものは、昔から書いてます。
ぼくの小説を読んでいない連中が言っているんでしょう」
と発言していたが、そうではない。
読んでいない連中が、存在するのではなく、
もはや、彼の作品に興味を持つ人間が、

これからの時代、存在しなくなるのだ。

 

全盛期の彼は、
パロディーとか下品な表現とかで、

タブーに触れ、
人の神経を逆なでする面白さを、

信奉者と共有し、
「良識」がある人間を、
頭が固く、ようふざけへんバカ、

というポジションに
無理やり追い込み、
精神的優位に立ち、
快感を見出すというのが、お家芸だった。
(一言で言うと、悪童)
彼と、彼の信奉者の間では、
事の本質や人権感覚を「あえて無視」して、
面白さを最上のものとすることが、

粋であり、知性的であるという、
暗黙のルールがあった。(かつては)


彼の全盛期からは、
とうに時は流れ、
世界は、
様々な問題を、
現実的に解決の方向に向かわせなければならない、
時代にシフトチェンジした。
単純なことだ。
ちょっと思い出しただけでも、
阪神大震災オウム事件、9.11、原発事故。
たくさんの悲劇があったからだ。

今や、彼が人生をかけて、
苦労して作った‘超’虚構世界や笑いなど、
全くの、無用の長物になった。
彼が頑張って論陣を張っていた、
言葉狩り’の問題など、
政府が本気で共謀罪などを
成立させようとする時代には、
あまりにも、のどかなもので、

そもそも、誰も覚えていない。

脱走と追跡のサンバ」「虚構船団」
文学部唯野教授」「残像に口紅を
「パプリカ」
を、それぞれ2ページずつ読んだ、
ボクは、立派な筒井ファンだろう。
念のため、
どんな発言をしたのか見てみた。

なるほど、
事の本質や人権感覚を「あえて無視」して、
面白さを最上のものとする、
お家芸
1兆歩ゆずって、
面白さを見出してみようとも、
思ったのだが。
もはや、面白さすら、ない…。

作家は、
すべてを見透かしてるかのごとく、
「炎上狙いというところもあった」
とも、言っている。
この開き直って、自分のやってることに対して、
傍観者になるという芸風も古い…。
虚しい…。

何故、地位も名誉も確立したであろう、
老作家が、
今さら現役では通用しない、
ボールを投げにマウンドに向かったのだろう?
それは、死の恐怖。
自らが消えゆく恐怖ではないだろうか。
「良識」的な生き方をしてきた人間ならば、
その志は、必ず誰かが引き継ぎ、
死など、存在しない。
だが、面白さを生業にしてきた、
老いた作家の生き様など、
誰も、引き継がない。
作品と共に消えゆく自己存在。
イタチの最後っ屁として、
この騒動につながる、くだらない発言をしたことで、
彼は、彼の人生と作品が、なにひとつ意味がなかったことを、
自ら証明してしまったのだ。

彼の作品は、韓国で発売中止になったそうだが、
そんなことをするまでもなく、
あと10年もすれば、
彼の作品は完全消滅するだろう。
本当に、只の消耗品だったのだ。
もはや、彼より若く、
どれだけ才能のない人間が、
軽く作文を書いただけだとしても、
この巨大な才能を持つ天才の作品より、優れてしまう。
それは、仕方がないのだ。
残酷な時代の流れなのだ。

「SFとか、虚構なんて、なんの意味もなかったんだよ、
普通で良かったんだよ」
いくらなんでも、
人生の最後にかけられる言葉が、これでは、
あんまりだろう。
気の毒すぎる。