太朗の主夫日記 ~So What?~

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私の孤独と、セカンド・レイプ

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今回のテーマは、

重いかもしれない。

ある種の救いを、
人に与えるかも知れないが、
ひょっとして、
深く傷つく人も、いるかもしれない。

 

 

私は、

血縁関係と、全て絶縁している。

全ての血縁関係と絶縁=元母(努力しても、この言い方が限界)
との絶縁だ。

なぜ、そんなことになったのか?
人に聞かれる。
私は、答える。
幼少より、
精神的、身体的、性的、虐待を受けたから。
成人してからも、
言葉で、暴力を受け続けた。
日常的な、過保護、過干渉…

具体的には?
と、聞かれるとする。
(そんなことを、ズケズケと聞いてくる人は、
そういない)
私は、答えあぐねる。
思い出したくないことばかりだからだ。
それでも、思い出す。


ええと、暴力を受けました。
子どもの頃、叩かれたり…
何故だろう?
うまく説明できなくなる。
確かに、自分は辛い思いをしたはずなのに、
100分の一も、言い表せてない気がする。

すると、人は言う。
「よくある話、気にしすぎ。いうても、産んでもらったんやろ?
 育ててもらったんやろ?オムツ変えてもらったんやろ?
 昭和の親なんか、みんな、子どもをひっぱたいてきた。
 あんた、子どもを、はたいたことないんか?
 結局、あんたとお母さんは似たとこあるから、ぶつかるんちゃうか?
 毒親とかよく言うけど、あんた甘えやで、それ。和解するんが一番やで」

そうだ、そう言われればそうだ。


ものすごく、自分が間違っている気がする。
でも、確かに、確かに、自分はたまらなく辛かったのだ、
本当に、あれは誰もが、通過儀礼のように一般的に経験するものなのか?

元母は、
非常に巧妙だった。
私以外の家族、親族、近所の友人、会社関係、
等々には、明るく、人当たりの良い、魅力的な人物だった。
自身のダーク・サイドを、
主に、言葉の暴力という形で、
私にだけ、解放していた。

そして、
自らの行為を、
誰もが、していることであり、
おかしいことではない、
と、私が幼いころから、洗脳し続けていたのだった。

だが、いくら洗脳の魔の手が来ようと、
おかしいとしか、思えないことが、あった。
差別発言。
テレビなどで、
在日韓国人、在日中国人の方が、
差別状況や、戦時中の辛さを、
涙ながらに語るとき、
恐ろしく汚い言葉で、
罵り、テレビを消すよう、促した。

で、ありながら、
近所に引っ越してきた、
中国人の家庭や、
生活に苦しみを抱えていたり、
何らかの障害を抱えていたり、
する家庭には、
イヤに親切にしていた。
心から出た親切ではないことは、
私にだけわかった。

そのような家庭に、
不要な衣服など物品を譲ったあと、
玄関の扉を固く締め、
先ほどの親切は、
何だったのかと言うほど、
恐ろしく汚い言葉で、
罵り、見下すのだった。
親切の正体は、
自らより、下の立場の人間をみつけるという、

自己保身であった。

家庭内は、常にヘイト・スピーチで満ちていた。
親族にひとり、
発達障害の子がいた。
元母は、ここにも牙をむけた。

「障害のあるその子の、父は広島出身だった。
 何故、出自が広島なのかを、結婚前に調べなかったのか?
 昔は、そういうことを、ちゃんと(!)していた」

 

と、発言した。

私は、この人間を母と呼ぶことはできない、と思った。
そして、この影響を我が子にまで、
及ぼすことを、決して許してはならない、と決意した。

 

しかし、絶縁など、簡単なことではない。
私は、子どもの頃から、
比較的、私に優しくしてくれている、
元母の姉(叔母)に、電話して、現状を、
現状だけでなく、幼少時代からの辛さを、
訴えた。
やはり、全くうまく、言えなかった。

 

「あなたにとっては、きついお母さんかも
 しれないけど、私からしたら、かわいい妹。
 あなたは、ガマンをしないと、ダメなのでは」

 

このような、答えが帰ってきた。

でも、その、あなたのかわいい妹は、
あなたの孫のことを、
ヒロシマの子’だと、罵ったのですよ。
しかも、それを、私にしか言わないんですよ。
あなたは、それを、一生知ることはないのですよ。

子どもは、おばあちゃんに会いたいと言う。

元母は、私の子どもの前では、
良い‘おばあちゃん’だった。
子どもだけでなく、その周辺にもだから、
つまり、私は、
誰からも、見放されることになる。
私は、私の状況を、全くうまく説明できないまま。
ひとりの味方もなく、
まるで、宇宙で、ただひとりしかいないような、
孤独におちいった。
(今では、状況は、だいぶ異なっている)

しかし、
おかしな話、
多くの人が、

宇宙でただひとり、
という孤独を、経験することは、
案外あるのではないだろうか?
と、私は後に思い至った。

例えば、性暴力被害を告発した上で、
「被害者にも、責任がある」
などと、レッテルをはられることなど、

どれほどの、恐怖と孤独と人間への絶望だろう、と思う。

私は、つくづく思う。
言葉は、当てにならない。
他人の辛い体験を、
事実の証明のために、
言葉で、正確に説明することを強制するなど、
それだけで、セカンド・レイプだ。

辛い思いをした人間は、

時に、
怒りで、
過激な言葉を使ってしまったり。
恐怖で、
言い間違えたり。
過度に毅然とした態度をとったり、
口下手な人なら、
つい、借り物の説得力のない言葉を使ってしまったり、
そもそも、

本人も自覚していない、
複雑なプロセスがあり、
表現することそのものが、
とてつもない困難であったり。


言葉を、
ピンセットとルーペで分析して、
被害者が、
正しいか、正しくないかを、
裁断することなど、
人間にとって、
何の救いにもならない。
加害者というのは、
とことん、卑劣だ。
自分の身を守るためなら、何でもする。
「やった」「やらない」の話におちいった状態での、
分析など、
意味がない。
いくら、皮を向いても実は出てこないのだ。
だというのに、

ありもしない、
デマを、正当な分析のように証拠として上げ、
インターネットのコメント覧を、汚い言葉で埋め尽くし、
それを見た、「善良」な人々が、
無意識にヘイトを刷り込まれていく、状況がある。

そんな、状況に対抗するのは、
結局、愛でしかない。


辛い思いをした人の、
敵か、味方か。


分析して、検証するのではなく、
精一杯、味方をする。

それだけで、良い。
味方をする理由とは何か?
それは、もう、
ひとりの人間が、
人生の過程で、どのくらい真剣に、人間を見てきたかが、

まごうことなき、正しい行動を選択させる、
その感性こそが、理由になる、としか言いようがない。

だから私は、いざという時、
人間にとって、必要なのは、
論理と裁きではなく、
感性と愛だと、今でも信じている。

 

 強調して言いたいのは、

このようなことを、書いたからと言って、
私は「かわいそうな被害者」ではない。
書いて、気がついたことでもあるのだが、
私は、この元母の資質を受け継いでいる。
立派な「加害者」の資質だし、

被害者よりも、加害者であることが、
多かった人生だと、思う。


だから、私は、自身への暴力に対し、
勇気を持って告発した人を

諸手を上げて、応援する資格などない。
私は、この後に及んで、
火の粉から自分を守るような、人間だからだ。

 

それでも、

私は、味方だ。