太朗のSo What?

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読書の効用①~カラマーゾフの兄弟~

新聞を読む、というのは、
中々辛いものだ。
なぜなら、

自分は、出来る限り、
悲惨なことからは、
目をそむけようとする人間なのだが、
何かが、私にそうさせないから。

 

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↑例えば、
6月13日の朝日新聞
パレスチナ人の、

男の子は、
自分以外の家族を、
襲撃により殺された。
男の子は、私の息子と同じ歳。

世界から入ってくる、
情報に耐える自信が、
私には、ない。
情報が、重いからではない。
入ってくる悲劇は、
私の足元から、地面を通じて、
悲劇のある場所と、繋がっているからだ。
それが現在であれ、過去であれ。
だから避ける。

でも、自分は

何かの力の作用で、
何処か遠い場所で起こった、
悲劇を、自ら捕えに行くことも、ある。

情報から得た絶望を、

いかにやりすごして、

生きてきたのだろう?

それは、
間違いなく、
読書体験のおかげだ。


カラマーゾフの兄弟

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この古典文学のおかげで、
私はどれほど、
情報の難所を乗り越えることができただろう?

 

大学には、
入学してすぐ、行かなくなった。
18歳にもなって、
文化祭で、プロレスごっこをしたり、
TVゲーム「ぷよぷよ」をしたり、
幼稚なロック・バンドで遊んでいる、
周囲の状況が、
考えられなかった。
この状態の学生が、
40歳くらいになったら、
世の中どうなってしまうのだ?
と、思った。

なので、
アルバイトに行く以外は、
本を読むことにした。
大学は、
山形県にあったので、
冬になると、
アパートの周囲は、
日本海側独特の、
深い雪で包まれ、
信号機からは、つららが下がるほどだ。
外に出ること自体が、
難しい。
本を読むには、
持ってこいの環境だった。

とりあえず、


トルストイの「戦争と平和」「アンナ・カレーニナ
ドストエフスキーの「罪と罰」「カラマーゾフの兄弟


だけは、読んでおこうと思った。
何故、長編ばかりなのかというと、
ある作家が、


「長さのある古典は、

 若く、体力と時間のあるうちでないと

 読めない。
 読んでおくとトクだ」


と、言っていたからだった。
実際、その通りだった。
今は、時間がなく、
とても、読めない。
この言葉に、感謝する。

もうひとつ、
これは、
結構、人生の分岐点ではないか、と思うのだが、
なぜ学術書とかではなく、
小説なのかと言うと、
(「資本論」とかに行くコースもあるはずだった)
単なる偶然か、資質なのだろうか…
また、違うタイミングで、
岩波文庫

ドイツ・イデオロギー
なんかも開いてみたのだが、
2ページで挫折した。


サッカーで言ったら、
フィールドに入った瞬間、
勝手に、肉離れを起こして、
退場したようなものだろうか?


これは最近、
ある人に聞いたのだが、
ドイツ・イデオロギー」は、
〇ルクスだか、〇ンゲルスだかが、
まだ若く、思想的にも、固まってない頃の著作で、
そのぶん、
読みこなしもハチャメチャに難しい、
ということらしい。


「薄いから行けそう」

と、思った私が、

浅はかだったのだ。

話を戻そう。
ドストエフスキーよりは、
トルストイの2作の方が好きだった。
トルストイの作品には、
素敵な女性が、出てきた。

アンナ・カレーニナ」のアンナは、
罪の香りがする、きらびやかな女性。


「戦争の平和」のナターシャは、
いつも一緒にいたくなるような、
かわいらしい、女性。

(作品最初の方では『女の子』ですら、あった)
~だったと、記憶する。

この二人の女性に、
この時期に、出会ったことで、
自分の恋愛や、

女性との友情は、
ある程度救われ、
また、研ぎ澄まされてしまったのかも、
しれない。

ただ、ここが
私のアホなところなのだが、
これほどの長編を読んで、
肝心のストーリーの記憶は、ほとんどない。
一回しか読んでないから、
当然だが。

「アンナが、可愛かった、
 ナターシャが、可愛かった」


が、この古典文学を読了した感想では、
情けなさすぎる。

だが、それで良いとも言えるのだ。
小説を読むのは、

気楽なもので、
学術書のように、
暗記したり、
マスターしたり、
論じたりする必要はなく、
言うなれば、旅行のようなものだ。
人物との出会いと、別れ。
うっすらとした思い出が、残れば良い。
「そういえば、あのとき、あんな女の人と出会ったな」
と、いう風に。
それが、後に生きてくる。

付け加えると、
トルストイという、
「おっちゃん」が創作した、
女性像だからこそ、
18,9歳ソコソコの頭でも、
ついていけたのかも、しれない。

トルストイに比べると、
ドストエフスキーの作品は、

「えらく…むさくるしいな」

と、いったところだった。
登場人物のほとんどが、男だった気がする。
カラマーゾフの兄弟
の3兄弟は、全員男で、
もうひとりの、主要な人物は、
兄弟の父親と、私生児の男、
あとは、長老…とか。
まるで、男子高だ。
しかも、
登場人物のひとりひとりが、
妙に理屈っぽく、
掴みどころが無い部分が、あまり無い。

だが、最初に述べたように、
新聞を読むことで、
私に、日常的に訪れる絶望から、
いつも、
救いあげてくれるのは、
この作品を体験した、
記憶だ。

カラマーゾフの兄弟」で、
特に好きな人物は、
次男のイワンと、
三男のアリョーシャ。


イワンは、

論理的に物事を考え、
世の中を、

冷めた目で見てるようだが、
心根は実は純粋で、
それゆえに、
常に、自分で自分を追い詰めている。

アリョーシャは、
無防備なほどの純粋さを、
世間に晒しながら生きているが、
実は、物語に出てくる、
誰より芯が強い。

この二人の、
対話が、
カラマーゾフの兄弟」の物語の根幹を、
支えている。

イワンは、アリョーシャに話し、
問いかける。
まるで、アリョーシャが、
唯一、心の奥底を、

打ち明けられる相手であるかのように。

以下、二人の会話で、
当時印象に残った部分を、
抜粋していく。


イワン↓
「30歳までは、どんな幻滅にも、人生に対するどんな嫌悪にも、
 オレの若さが、打ち克つだろうよ!
 オレは自分に、何度も、問いかけてみた。
 オレの内部の、この狂おしい、不謹慎とさえ言えるような、
 人生への渇望を、打ち負かすほどの絶望が、

 果たして、この世界にあるだろうか?

 そして、どうやら、そんなものはない、と結論したのさ」
 
イワンは、続けて言う↓
「アリョーシャ、生きていたいよ、
 だからオレは、論理に反してでも、

 生きているのさ。
 たとえ、この世の秩序を信じないにせよ、
 オレにとっちゃ、
 『春先に萌え出る、粘っこい若葉』が貴重なんだ。
 青い空が、貴重なんだよ。
 そうなんだ、
 時には、
 どこがいいのかわからずに、好きになってしまう、
 そんな相手が、大切なんだよ」

 

すると、アリョーシャは、兄イワンに問うのだ↓

「兄さんはなぜ『この世界を認めないか』を、僕に説明してくれる?」

イワンは答える↓

「『野獣のような』人間の残虐なんて、

 表現をすることが、あるけど、

 野獣は決して人間みたいに残酷にはなれないし、

 人間ほど巧妙に、芸術的に残酷なことはできないからね」

 

イワンは、続けて言う↓

「五つの女の子を、
 両親は、

 ありとあらゆる手で痛めつけたんだ

 ~そのうちついに、

 この上なく、念のいった方法に行きついた。 

 真冬の寒い日に、女の子を一晩中、便所に閉じこめたんだよ」

(これは実際に19世紀のロシアであった、社会事件だろうか?)…太朗の疑問。

 

「自分が、どんな目に会わされているのか、
 まだ意味さえ理解できぬ、

 小さな子どもが、真っ暗い寒い便所の中で、

 悲しみに張り裂けそうな胸を、ちっぽけな拳でたたき、
 血をしぼるような涙を、恨みもなしに、おとなしく流しながら、
 『神さま』に守ってくださいと、泣いて頼んでいるというのにさ。
 お前には、こんなばかな話が、わかるかい」

 

「たとえ、苦しみによって、永遠の調和を買うために、

 すべての人が、苦しまなければならぬとしても、

 その場合、子どもにいったい何の関係があるんだい?

 ぜひ教えてもらいたいね。何のために子どもたちまで、

 苦しまなけりゃならないのか、

 何のために、子どもたちが、苦しみによって

 調和を買う必要があるのか」

 

「そんな調和は、小さな拳で、自分の胸をたたきながら、

 臭い便所の中で、償われぬ涙を流して『神様』に祈った、

 あの痛めつけられた、子ども一人の涙にさえ値しないよ!」 

 

 このイワンの執拗な、

 問いかけに、
 アリョーシャは、


「じゃ、粘っこい若葉は、大切な墓は、
 青い空は、
 愛する女性はどうなるんです! 

 どうやって兄さんは生きてゆけるんです?」


の、言葉と共に、
兄へのキスで、答える。

(今読むと、この状態の男性から愛される女性は、かなり迷惑かもしれない)…太朗


引用は全て、
新潮文庫原卓也訳からで、
上・中・下巻の、

上巻の最後のあたりだ。


(少しだけ、太朗が変えて引用してるとこも、あります)
 

中巻、下巻と読み進めてみても、
次男イワンの苦悩は、特に解決しない。

それどころか物語は、死、殺人、狂気、裁判、冤罪等々、
救いのない方向に、行くばかりだったと、記憶する。

はっきり覚えているのは、
物語の終焉だ。
さまざまな苦難と、兄弟の不幸を見届けた、
三男アリョーシャは、子どもたちに囲まれ、
彼女、彼らに、
希望に満ちた説法をする。
この場面は、ものすごく唐突だった。
絶望の物語に、
不意に現れた希望。

アリョーシャは、子どもたちを、
『美しい灰青色の子鳩』と例え、言う↓

 

「なぜ、悪い人間になる必要が、あるでしょう。
 そうじゃありませんか、みなさん?
 僕たちは、何よりもまず第一に、
 善良に、それから正直になって、
 さらにお互いに、みんなのことを決して
 忘れないようにしましょう」

アリョーシャの言葉の引用は、ほんの一部。
通して読むと、もっと、素晴らしい。


子どもたちは、アリョーシャを取り囲み、
口ぐちに、

 「カラマーゾフさん、僕たちはあなたが大好きです!」
カラマーゾフ万歳!」
と、希望に満ちた叫び声をあげて、

物語は終息する。

何故、長すぎる絶望が、
唐突な希望となったのだろう?
それは、そんな話だったから、
としか、言いようがない。
通読すると、
「こうなるしか、ない」
と思えるのだ。
夜明けと一緒で、

来るものは、来る。
人間の力であり、人間の力を超えている。
そして、物語そのものの、力だ。

さて話を、冒頭のテーマに戻す。


私は、カラマーゾフのイワンのように、
体の中に絶望的な新聞記事を、通過させる。
それが、カラマーゾフ流に、
根拠のない希望に転換されるのを、
期待して。
絶望を知らぬものが、
社会に対して、
人間に対して、
貢献もできるはずもないからだ。

カラマーゾフの兄弟


この本そのものが、

一度だけ、私の体を通過し、
かろうじて存在する、
耐久力の装置を、
作り上げてくれた。
これが、読書の効用だ。

最も、
カラマーゾフの兄弟
は、そんな単純なテーマの話ではなく、
わずかな引用箇所を見ただけでも、
ピンとくる人は、
ピンとくるだろうが、
19世紀ロシアの生活に、
深く根を降ろしている、

カトリックの教義と、
合理的な現実感覚の対立、
と、いったテーマが大きいのだろう、
多分。

(そういえば、遠藤周作の「沈黙」は、日本型村社会・封建制度

 異端としてのカトリックの対立が、テーマだった。しかも、
 観念的でなく、人間ひとりひとりが、苦悩し、生き生きし、
 血が通っているのは、ドストエフスキーと、一緒)

 

 

冒頭のスクラップ記事と
同日の朝日新聞に、
ロシアで、
逮捕・流血も発生した
反政府デモがあったと、
載っていた。
私は、恥ずかしながら、
現在のロシアの事を、
全く知らないが、
この写真の中に、
イワンやアリョーシャがいるのではないかと、
つい捜してしまう。

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 何となく、
このまま、ダラダラ書き継げそうな、
テーマだが、
長くなり過ぎたので、
一端ここで終了とします。

よって①と、しときます。
続きはあるかもしれないし、
ないかも。