2017年、
歴史に残る、馬鹿馬鹿しい発端で始まった、
衆議院選挙も、
イロイロあった。
前回のブログで、
自分なりの総括もしてみたのだが、
さらに、個人的な総括として、
「子連れでの政治参加」に纏わる、
貴重な体験をしたので、
記しておこうと思う。
選挙中ともなると、
政治や社会問題に関する、
様々な勉強会、演説会、集会がある。
とある集まりに、
聴衆として参加したときのことだ。
一緒に連れていった、
ふたりの子どもが、会場内で予想外に騒ぎ、
遊び、
多くの方から、お叱りを受けてしまった。
集会には、
積極的に参加したわけではない。
主催の方から、
「参加人数が少ないから、是非、子どもと一緒に来てくれないか」
と、誘われたのだった。
その日は、雨だった。
子ども連れで参加することは、
むしろ困難だった。
しかし、
私は、子どもの声が会場に響くことは、
賑やかしになると考え、
少々の無理をして、参加したのだった。
「賑やかしになる」
と、いう考えを、
奇異に思われる方も、
いらっしゃるかもしれないので、
補足をすると…。
まず、
主催者は、
よく知っている男性で、
別の会では、
彼の紹介で、私が登壇させてもらったこともある。
登壇し、話す立場であったときは、
子どもを連れていることが、
むしろ、
温かいムードを演出する、
アクセントに、なっていた。
(単なる主夫が登壇するということも、ウリだった)
スピーチする、私のまわりを、
子どもが走り回り、
まとわりつき、時には邪魔をする。
本や、おもちゃを持たす必要もなかった。
周りの方は、優しく対応してくださり、
子どもたちには、飴をくれたりした。
だが、
動き回る子どもたちにを、
放置して良いわけでもない。
所々で、
私は、
「お騒がせして、すみません」
と、お詫びの言葉をかける。
「良いんだよ」
と、言ってくださり、
嬉しく思ったものだった。
今までが、
こんな調子だから、
私も主催者も、タカをくくっていた。
子ども連れで、集会に参加することに、
手応えを、感じていた。
何となく(これがいけない)うまくいっている。
子どもたちと、聴衆の大人たちが、空間を共有できている。
形になっている。
油断であった。
この日は、違った。
いろいろなことが、違った。
会場は、
公立小学校の体育館だった。
充分な広さはあるのに、
入場した瞬間、
何故か、妙な密室感を感じる。
見渡して見ると、
「参加人数が少ない」
と、いう主催者の言葉とは裏腹に、
用意された長椅子が、
満席になる程度に、人は入っていた。
密室感の理由は、
それだけではない。
客層は、
ほぼすべてが年配の方で、
子どもを連れているのは、
私だけ。
皆、食い入るように集中して、
登壇者の言葉に、耳を傾けている風に見える。
もうひとつの誤算は、
この体育館は、音の反響が大きく、
子どもの声が、かなり響いた。
(築年数の問題なのか?同じ公立小学校の体育館でも、学校によって違う)
さらに悪いことに、逃げ場というか、
別スペースもない構造の、体育館だった。
(これも、学校によって異なる。広い別スペース付きの体育館もある)
「帰りたい」
私は、思った。
本やおもちゃを持たずに来たことを、
後悔した。
だが、請われて来たという自覚もあった。
もう少し、様子を見よう。
外は雨も降っている。
到着したばかりで、
子どもにも、
すぐに帰ろうとは言えない。
認識の甘さが、露呈してくる。
この日、
子どもたちは親の目から見ても、
普段以上に興奮状態で、その勢いは強すぎた。
子どもの興奮には、
理由などなく、
波を読むことなど、できない。
客席を占めている
ほぼ、年配である、
傍聴者の方。
話のひとつも聞き漏らしたくない方、
おられるだろう。
登壇者の話を聞きとるだけでも、
大変な方も、おられるだろう。
体調が、良くない方もいるかもしれない。
ひょっとしたら、外出が困難で、
この日に、
賭けて来場した方も、おられるのかもしれない。
明らかに、我が子が傍聴者にストレスと、苦しみを与えている。
(ように見える、しか見えない)
冷たい視線を、感じる。
何とか、子どもたちを、
なだめて落ち着かせようとする。
このラインからは、出てはダメ。
静かに。
だが、強引に連れてきたのだ、
あまり厳しく言うと、
子どもにも、申し訳ない気がする。
それに、親が怒鳴る声が響く方が、
より、
傍聴者にストレスを与えるかもしれない。
スタッフの方は、
「昔は演説会なんかでは、子どもがたくさんいた。走り回ったり、ヘタをしたら、マイクを奪う子もいた(笑)気にしないで」
と、声をかけてくれたり、
子どもたちに、
ミカンを与えてなだめたりしてくださるのだが、
こちらは、気が気でない。
子どもの叫ぶ、
一声一声に、胃袋が締め付けされそうになる。
登壇者として、子どもを連れてくることと、
傍聴者として、子どもを連れてくることの違いを、
思い知らされる。
集会は、終了。
長い時間であった。
聴衆が立ちあがり、
帰路に着く中、
5、6人の年配女性が、
流れ作業のように、私に声をかけてきた。
…冒頭に、
お叱りを受けたと書いたが、
中には、
お叱りという性格を越え、
忘れられないような、言葉もあった。
言う方、言われる方、
双方が不幸だった。
私は、
返す言葉もなく、
本当に、ポロポロと涙を流し、
泣いてしまった。
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何故、いい歳をした中年男性が、
人前で涙を流し、泣くのか、
疑問に思われるかもしれない。
確かに、
自身の身の上だけに起こったことなら、
泣きはしないだろう。
この世に、
もっと大変で辛いことは、ゴマンとある。
泣くようなことではない。
「すみませんでした」
で、済むことだろう。
だが、
私の涙は私だけのものでは、なかった。
私は、
多くのママ友から、
政治に参加したくとも、
子育ての困難さから、
勉強会や演説会に行くことすら大変だ、
諦めなければならないことも、多い、
と、いう声を聞いていた。
それは、
ここに書ききれない程の、多くの声だ。
こういう所に来るのなら、
子どもは預けてきなさいと言われても、
預け先が見つからないママもいる。
預け先がない、ママもいる。
シングル・マザーの方もいる。
ママ感性は(実際にママでなくても)、
政治の世界になくてはならないものだ。
命を産んだママたちは、
政治が、
命を奪うような方向に、向かっているのだとすると、
誰よりも早く、
その危機をキャッチする。
命をかけて、命を産んだ、
困難と責任と感性がそうさせる。
ヘ理屈と言いまわしが支配する、
危なっかしい、
男性主導の政治を、変えてゆく。
現代のママや女性だけでない。
過去、
ほんの少しの過去、
選挙権すらなかった女性たちの、涙の歴史。
「子どもを産み、育ててさえいれば良い。
女性にしか、できないから
(育てることなら、男にだってできる。
主夫の私が、それを証明している)」
という、牢獄に閉じ込められ続けた、
女性たちの涙。
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混乱の中、
場に残った、二人の年配女性と話をした。
私は、
「話を聞くことが、大変な方もいらっしゃるやろうに、大変、ご迷惑をおかけしました。自分は、子育てママと、子どもがこういう場所に来て、政治に参加しても良いと思えるようにしたい。でも、今日はそれをするのに、用意が足りなかった」
と、お詫びと共に、
自らの在り方をたどたどしく伝えた。
「でも、場所はわきまえなアカン、預けるか何かしな、アカン。こういうところで、うるさくしたらアカンことは、あなたが子どもに、ちゃんと教えなアカン。のびのび育てるのと、これは違う。わからないまま育ってしまったら、この子たちはどうなる?」
彼女たちは、こう答えた。
私たちは、何度か言い方を変えて、
やり取りしたが、
基本的に、
この繰り返しだった。
全くの平行線であった。
「お母さんは?お母さんは?いはらへんの?」
この言葉は、辛いものがあった。
(単に、別行動をとっていただけのことだった)
ひとまず私は、
これ以上の対話をあきらめた。
この時は、
対話ができないことが、悲しく、
正直、かなり取り乱していた。
しかし、
当然のことだが、
私に注意してきた人たちは、
私の子どもに、何の責任もない。
そもそも、性格的に
子どもが好きな人もいれば、
キライな人もいる…。
(私など、むしろキライな部類ではないだろうか)
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最近、
私は子どもふたりに、
折り紙を買い与えた。
たくさん、入っていたので、
1セットで充分だと思い、
「これをふたりで分けて、遊び」
と、伝えて子どもたちから、離れた。
10分経ち、
ふたり共が、泣いている声がする。
「どうした、折り紙はたくさんあるやろ」
と、声をかけると、
「金色が一枚しかない、ボクが欲しいのに(下の子が)取ろうとする」
と、上の男の子が泣きべそをかいて、言う。
余裕があるときは、
下の子(妹)に、
優しく、自分のおもちゃや、お菓子を分け与えるお兄ちゃんだ。
だが、珍しく、
金ピカの色紙が、どうしても欲しいと言う。
それは、そうだろう。
ひとつしかないものは、奪い合う。
私は、考えた末、
金色の折り紙を、
四分の一の正方形に、
切り分け、
「小さくなったけど、これでひとり二枚ずつになった。どうや?」
と、聞いた。
ふたりは、
(まあ、仕方ない)
と、いう風に、
完全に欲求が満たされたわけでもないだろうが、
一応の納得をして、
再び、遊び始めた。
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同じことだ。
ひとつしかないものは、奪い合う。
ひとつしかない場所では、どちらかが邪魔になる。
どちらも、悪くない。
注意した方が、悪いはずはない。
私も、悪くない。
さてここからは、
特に、
政党関係者の皆さま、
何らかの形で関わる方(私も含めて)
に、お伝えしたいと思うのだが、
子育て世代の支持者を、
定番的に獲得することは、
政党にとって大きいと思う。
キレイごと云々ではなく、
損得の問題。
(単に、トクだと思う)
支持者も、アイデアも増えて、イメージアップになる。
「あそこなら、子ども連れOKの催しが多い」
と、イメージされ、
支持を広げることは、
必ず、大きな利益となる。
やらなければならないことは、
「良いもん」
「悪もん」
に、分かれないようにするための、
態勢を整えること。
冷たい言い方だが、
良し悪しの問題で、議論を始めても、
モメ事に発展するだけの可能性が、高い。
主催する側が、
「お客さん」を呼び込む、
純粋な戦略として、
設定をしっかりと行うのだ。
さらに冷たい言い方だが、
設定する時点で、整理されたやり方さえあれば、
人情は特に必要なく、解決は後からついてくる。
例えば、演説会などでは、
簡単でも、
毎回、キッズスペースを用意する。
ゴザ、敷物。
絵本(想像力の発達や、平和教育に関するものなら、なお良いのでは)
お絵かき帳。ペンや色鉛筆。
ブロック。
ラキュー。
線路のおもちゃ。
アナログ・ゲーム。
デジタル・ゲーム。
DVDプレイヤー。
人数にもよるが、
大人の目がひとりあれば、安心。
だが、大人ひとり確保するのは、大変なことだ。
人がいないときは、
親と小さい子が過ごせる場所を、
やや離れたところに用意するなど、どうだろうか?。
子どもの参加がゼロで、
例え、空振りの日が続いても、
マメに続けることが、大事だと思う。
客が、ひとりも入っていない、
車販売店にも、
がらんとしてたキッズスペースは、
常に存在する。
窓口をいつも、開けていなければ、
営業行為にはならない。
告知物には、必ず
子どもOKの案内を載せる。
集まりの主旨や、会場スペースの関係で、
子ども不可の場合なら、
不可の案内も、必ず載せる。
(参加の可能性は、どこまでも探って欲しいものだが…)
あと、登壇者から、
子どもが、場にいることを肯定的に捉える言葉でも、
一言あれば、イメージがさらにアップする、
と、思う。
ワザとらしいようだが、
サラリと、触れてもらうと、
マメな心掛けそれ自体に、
関心するものだ。
繰り返すが、
ママ感性は、政治の世界に絶対必要だ。
ママや子育て世代が、
子どもを預けでもしない限り、
政治参加ができないということほど、大きな不利益はない。
子どもを抱っこして、
議会に入る、代議士が見たい。
(写真でしか、見たことがない)
議会が神聖な場所というなら、
子どもがいる場所こそ神聖なのだから、
両者は、全く同じものだ。
そして、
子どもの声のため、
年配者の政治参加が妨害されることなど、
あってはならない。
経験とは、勝るもののない貴重な財産なのだ。
(中には、ホンマに自分勝手な保護者や、
イジワルなだけの、年配者もいるかもしれないが、少数だろう。
それは、もう仕方ない。私は、そこまでにヒドイ人は、まだ見たことがないが)
望むのは、あくまで共存だ。
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僭越ながら
男親が、
子どものことで、
集会でお叱りを受ける体験をした、
というのは、
悪くないことだと思う。
私と、似たような体験をしたママがいるとすれば、
無理に、互いの立場を検証したりせず、
悔しい気持ちのままで、良いと思う。
文中にも書いたが、
男とは、無念の歴史が違うのだ。
ひとりの涙ではない。
せめて、
歴史の中で、権利を行使し続けてきた、
男性陣が、さまざまな解決を検証し続けることが、
バランスなのだ、
と、私は感じている。
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(*政党関係者の皆さま、もしくは関わりが少々でもある方、
この文章、資料やレジメにいかがでしょうか?
是非、使ってください。
文責は、私ですが、
ここがオカしい、納得できない、治した方が良い、
とかあれば、応じますよ!
小○シンジロー氏などは、
もうかなり、子連れでの政治参加について、
研究を進めているみたいですよ!
遅すぎるなんてことは、ありません。
中身で勝負ですよ!*)
なんてネ。