たろうの音楽日記

日々の音楽活動に関する覚え書きです。

主夫日記11月8日 ~死刑判決と、I hope peace~

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どうも、
子どもを保育園に送りだす以外、
全く家から、出ていないような気がする。

唯一の、
社会との接点は、
コンビニで購入する新聞だ。
新聞報道の正確さなど、
全く、当てにならない。
そんなモノが、
唯一、社会への窓口なのだとしたら、
自分がどんどん、
作り物の世界に生きているかのような、
ヘンな錯覚に捕らわれてしまう。

癖みたいに、
余計なことを考える。
考えては、書く。
こんなことを書くのは、
最後にしようと、
いつも思うのだが、
考えては書く、
と、いうサイクルから、
ちっとも逃れられない。
まるで、
何かに取りつかれたかのようだ。

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いつも買わない、
朝日新聞を買った。
トップ記事に、
何となく、引き寄せられたのだった。
自分は、全く知らなかったのだが、
痛ましい、
連続不審死事件の、判決が出たと書いてある。

記事を読んでいるうちに、
ますます、痛ましい気持ちになった。
被告は70歳の女性で、
4人もの、
高齢男性の不審死に関わった疑いがあり、
判決は死刑だということだ。
被告と男性とは、
いずれも、
結婚、交際していたという。

弁護側は、
「犯人は被告ではない」
と、無罪を主張しているが、
被告本人が、
「私は何人も殺めた。でも、過去は消しゴムで消せないからね」
と、新聞記者との面会で、語っているらしい。
被害にあった男性や、
遺族の方の無念のコメントを、
目にすると、
とても、悲痛という言葉では言い表せない。

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たまに、
孤独について考える。
現実の自分は、
家族もあり、
「平和」な世の中で、平穏な日々を過ごしている。
だが、
ひとたび、
こうした文章の中に、自分を出すと、
客観的な作為のモノサシが、
嫌でも入ってしまうから、
出した瞬間、その自分は、
虚構のようなものだ。
虚構の自分は、
孤独に耐えることができる、
フリをしている。
(このブログの、冒頭部分がそうだ)
しかし、
耐えることができる孤独など、
本当に、存在するのだろうか?

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10年ちょっと前、
車の免許を、合宿で取りに行ったとき、
教官のひとりが、
(おそらく嘱託だろう)
警察での仕事を、定年まで勤めたと、
自己紹介で語っていた。

「辛い仕事をしていました」

と、彼は言った。
聞くと、
事故を起こし、
「免許を取り上げられると、明日から家族を養うことができない」
と、彼に訴える、
運送業のドライバーに、
免許取り消しの処分を下したことも、
あったらしい。
自分は、体中の血が逆流するのを感じ、
思わず、椅子から立ちあがったが、
少しの開き直りもない、
何かを直視した彼の目と、
真一文字に結ばれた唇を見て、
やりきれない気持ちで、
ヘナヘナと、腰が砕けたのを、覚えている。

自分が、
今後、経験することがあるのか、
わからないが、
仕事を完遂するというのは、
あの教官のようなことなのだろうか?

時代は、
良い方向にも、悪い方向にも変化している。
だが、
いわゆる、
‘ひとむかし前の男性’
の、中には、
『生きる』ことよりも、
『生き残る』ことを、
重要視せざるを得ない背景が、
あったのではないだろうか?
あくまで、勝手な想像だが。

形は違えど、
『生き残る』ために『生きる』
と、いう感触は自分の中にも確かに存在する。

真の孤独とは、
生き残らざるを得ない、
やるせなさだろう。
こんな、世の中でなかったら、
誰かのために、
精一杯、優しくしたかった、
という悔いが、
不意に、
ひとりの男の中に、
現れることを想像してみる。

被告女性から、男性へのメールの中には、
「私のような愚女を選んでくれてありがとう」
と、いう文もあったらしい。
女性は、被害者のことを、
「みんな、穏やかで良い人だった」
と、振り返る。
また、最初の被害者である、
長年連れ添った男性には、
「差別を受けた」
として、彼女が明快な意図を向けていたという、
記事もある。

私くらいの人生経験では、何もわからない。

一体、
自分は、何のためにこんなことを、
書いているのだろう。
人命が失われた事件を、
ほじくり返すなど、卑しいことだ…。
新聞記者の取材は、
あくまで、取材したことが書かれているだけだし、
私は、事件を今日のこの記事で知った。
出会いがしらの、又聞きだ。
正確なことなど、わかるはずもなく、
それこそ、
単なる癖で、
余計なことを、考えているだけなのかもしれない。
又は事件を、
架空の物語のように、
勝手に解釈しているだけなのかもしれない。


動機は、金銭?
金銭目的で、
そのようなことが、できるのだろうか?
ドストエフスキー
罪と罰」での、
ラスコーリニコフの犯罪動機など、
現実に比べれば、
単細胞なものだ。


彼女から、
謝罪の言葉は、
ついに聞かれなかった、と記事にある。

「私は何人も殺めた。でも、過去は消しゴムで消せないからね」
「みんな、穏やかで良い人だった」

このような、
言葉が出てくる心があれば、
ウソの謝罪を述べることなど、
簡単だろう。
なぜ、謝罪すらしないのか。
謝罪することにより、
破壊されてしまう心の内が、
(おそらくは)
この罪びとにあるのだとしたら、
それは、一体何なのだ?
わかるはずもない、
somethingだ。
なし崩し的に、裁かれる以外に方法はないのだろう。
オレは、相変わらず、
一番イヤな役を逃れ続けている。
この記事のすぐ横では、
一命で、
何人もの人間を殺めた男が、
世界のリーダーとして、
写真に収まっている。

この世が、
雑多な人間を乗せた
箱舟だと考えると、
そこから落下するものを出すことなく、
航海を続けることが、
いかに難しいかを、たまに考えさせられる。

個人的には
できることなら、
ホッとすることなく、
責任と情熱を持ち続けて、
強く生きたいものだ。

こういうやるせない時に、
使う言葉なのかな。
自分などが使うと、
安っぽくなると思っていたから。

I hope peace