たろうの音楽日記

日々の音楽活動に関する覚え書きです。

ド不幸自伝① ~兵器工場~

 

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昨日、100円を拾った。
金を拾ったなど、何年ぶりのことだろう。
これは、予兆だ。予兆にちがいない。
金だ。
金が、オレのもとにやってくる。

そういえば、
「不幸は、金になる」
と、
マンガ家の西原理恵子さんが言っていた。
不幸体験に対峙する、
諦めの悪さの象徴として、
ふとした時、
自分の頭の中をよぎる代表格が、
この言葉だ。

西原さんのパートナーは、
これまた有名人の、
高須クリニックの先生なのは、
周知の事実。
高須氏は、
ボクとは真逆のスタンスの、
ある種の悪名高さで、通している。
最近、自分はツイッターを再開したので
(フォローお願いします)
高須氏のを、ちょっと見て見た。
目を被いたくなるような、つぶやきの中で、


西原理恵子のファンは全て僕の大事な人です」

と、あった。
うまく言い表せないが、
結局、
こんな感じの人と自分とは、
反射神経のレベルで、似通っているような気がする。
世にも恐ろしい話である。

せっかくだから、
書いてみよう
「不幸」
なんせ、金になるらしいから。

不幸話なんていうものは、
過去のものとして、
抜け出した状態でないと、
痛々しくて、書けるものではないだろう。
自分は、
抜け出しているから、
書くのだが、
抜け出しているということは、
オチも、わかっている。
あらかじめ決まられたオチに、
向かって、
書きすすめていくんやけど、
そういうのは苦手なので、
不安だ。
明後日の方向に、行くならまだしも、
途中で飽きて終わったら、
どうしよう。
飽きんためにも、
なるべく手短に、
カンタンに書きますね。

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時は、1996年。
21歳のとき。
高校を出て、
アルバイトをしながら、
京都市左京区茶山のアパートで、
1人暮らしをしていた。
正社員として働いていなかったのは、
職にあぶれた…
と、いうわけでなく、
単に、
世の中と、
うまくいっていなかっただけのコトだ。

バイト先の同僚が、

「今の日本、どこかで適当な職についたら、別に食いっぱぐれることはない」
(だから、とりあえず、アルバイト暮らしをしていても良い)

と、言っていたのを覚えている。
自分の認識も、似たようなものだった。
バブル崩壊
と、いう言葉を聞いたのは、
高校生のとき、1993年。
不景気だとは言われてはいたが、
好景気の名残もまだ、あった。
だが、とっくに日本経済は下り坂に入っていて、
雇用システムの崩壊が、スタートしていたことは事実だった。
(後に、身を持って知ることになる)
自分は、ニブすぎて、
いろんなことに、気付いていなかった。
そもそも、
学校を、ドロップアウトしていたため、
新卒の就職状況など、
全く知らなかった。

そのように、
ノン気なアルバイト暮らしをしていたのが一転、
飛び出していた伏見の実家に、戻ることになってしまった。

自分は実家を憎悪していた。
その理由の一部は、
以前のブログで少し触れたが↓

tarouhan24.hatenablog.com

元母親(この言い方が限界)による、
幼少期からの虐待であった。
それでも、戻らざるをえなくなったのは、
元母親と父親が、喫茶店経営に失敗し、
借金を抱えた上、
父が入院することになったからだった。
(すでに、手遅れであった)
加えて、
妹(これも、元)の学費が必要であった。

更新料を支払ったばかりの、
アパートを引き払い、
実家の団地へと、引っ越した。
とにかく、金が必要だ。
気持ちを、切り替えねばならない。
アルバイト雑誌を購入して、
目についた、
一番時給の良い仕事に、迷わず応募することにした。

応募先は、
京都市南部にある鉄工場だった。
募集広告には、
その工場ではなく、
北大阪にある派遣会社の社名が書かれている。
初めて知った、
派遣会社という存在だった。

疑問に思うのだが、
自分のイメージでは、
労働者派遣法を、
派手に規制緩和したのは、
小泉内閣
調べてみると、
小泉内閣の忌まわしい仕事の中で、
製造業も、規制緩和の対象に入っている。
ところが、
施行されたのは、
この時よりはるか後の、2004年。
1996年は、橋本内閣だ。
橋本内閣は、26種の業務を緩和の対象にしたらしい。
ここだろうと思い、調べたが、
26種の詳細のソースが、発見できない。
だが、
この辺りを境に、
アルバイト雑誌に派遣会社の名前が、
急に増え始めたのは、確か。
法の施行と記憶を照らし合わせても、
イマイチ、ぴたりと当てはまらない。
この時期から、
自分の人生は混乱していくので、
いろんなことがデタラメになって、
様々な記憶違いを、呼んでいるのかもしれない。
そもそも、
インターネットでの、大ざっぱな調査では、
お話にならないだけなのかも、しれない。

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製造業の経験など全くないのに、
即、採用だった。
工場内を見学した時、
激しい音で回転する電ノコを、
ブ厚い鉄板に当てがい、
バチバチと火花を立てながら、踏ん張っている、
手持ち面姿の工員を見て、

(自分に、こんな仕事がやっていけるのだろうか?)

と、思った。
不安というより、
今後20年かけて、大切に使うはずだった、
人生のエネルギーを前借りし、
21歳にして、
自分が早くも枯渇してしまったかのような、
気分だった。

就労して見ると、
思っていた程の、恐ろしい仕事ではなかった。
工場では、
様々な鉄塊を、
大がかりなシステムで、
切断し加工し、形にする。
どれほど鋭利な刃物で切り裂いても、
切断面には、ギザギザや鉄屑が付着する。
これを、
工場内では、
「バリ」とか「カエリ」
とか、言う。
加工品は、精密機械の一部になるはずなので、
この「バリ」があると、
機械の動作に支障をきたす。
「バリ」を、
ヤスリ、研磨機、砥石などで削り、
油で洗浄して、
(こればかりは、手作業でないと不可能だった)
計器を使用した、簡単な検査を終えて、
段ボール箱に詰め込み、出荷するのが仕事だった。
さほどでもない、
肉体労働といったところだろうか。


大型の研磨機で、
鉄片のカドを削り取るとき、
ブワッと発生する粉が、
高性能の、防塵マスクを装着しようとも、
自分の健康を蝕み、
寿命を縮めているような、気がしたものだった。
派遣社員だからなのか、
夜勤は、免除されていたので、
夜、眠ることができたのは、
幸いであった。
だが、作業は単調で、
毎日毎日、時間が経つのがウンザリするほど、
遅かった。

とにかく、カネが必要だ。
自分は、信じられないくらい従順だった。
タオルで頭を叩かれても、
そよ風のように、感じた。

従順の成果だろうか。
ある日、

「君、良かったらココの社員にならないか?」

と、工場のセンター長に言われた。

「考えさせてください」

と、自分は答えた。
日本経済は、
ここから、さらに落ち込んでいくので、
派遣社員から、正社員に「昇格」する機会も、
どんどん減っていくことに、なる。
「考えさせてください」
と、答えたのは、
望まぬ仕事の、正社員になってしまって、
人生の牢獄から、
抜けなくなってしまう、
と、いう恐怖もあったが、
とりあえず、
派遣社員として、在籍している方が、
手取りが良い。
そのことの方が、大きかった。
時給1300円は、当時として破格だった。

大体、
社員になるも何も、
自分が、
この工場で何を作っているのかさえ、
知らなかった。
ある日、
隣で作業をしていた社員に、
加工中の鉄片を見せ、

「これはなにになるんですか?」

と、不意に尋ねた。

「それは、オマエ…ミサイルやぞ」

と、社員は答えた。
彼が、冗談を言っているのかと思い、
自分は、愛想笑いで返した。
社員が、呆れた様な無表情で、
自分の顔を見るので、
「ミサイルなんですか?」
と、思わず聞き返した。
「ミサイルや」
彼は、繰り返した。
そんなことを言われても、
実感が湧かない。
自分は、握りしめていたハンカチを、
ポトリと落としたような、気分だった。

「昔は砲弾作ってたんやぞ。こんな(丸い)砲弾。
 ところが、淀が平和の街になってから、砲弾作れんようになった。
 ほんで今は、ミサイルやねん」

自分は、彼が何を言っているのか、よくわからなかった。
少し、パニックになっていたのだろうか、

「もし、原子爆弾を作る仕事だったら、どうします?」

と、自分は言った。
何のために、
こんな、とんでもないことを、
口にしているのだろう?
と、思ったが、
口元から、だらしなく言葉が漏れた。

「そんな、人殺しの道具を作るんやったら、オレ会社辞めるわ」
と、彼は答えた。

真っ先に心配したのは、
PKOだった。
周辺事態法が成立するのはまだ先、1999年。
イラク戦争も始まってはおらず、
1992年の、宮沢内閣のときに成立した、
PKO法こそ、
自分の作る兵器が、
買い手である自衛隊によって、
現実に、海外で使用されるかもしれない、
一番の可能性のように感じた。

PKOの意味が、
「国連平和維持活動」
であることだけは、知っていた。

(平和維持活動なのだから、大丈夫だろう)

自分は、
湧き上がりかけた危惧を、
一瞬で飲み込んだ。
自分は今でも、
PKOの実態はよく知らない。
今(2017年)、
多数の安保関連法が、強行され、
防衛費は拡大し、
当時と違い、
日本が集団的自衛権を受け入れてしまった、
状態となっては、
PKOから、武器使用を連想するなど、
単なる、考えすぎか、大間違いなのかもしれない。
だが実際に、
自分が、ミサイルを製造している事実からは逃れようがない。
(何処で使用されるのだ?)
と、いう恐怖は常に存在する。

作業中、
自分の持ち場の横に座っている、
パートのおばちゃん(皆、子どもの学費稼ぎのために勤務していた)
たちが、

「昨日、訓練(自衛隊)終わったらしいで。ウチから出たやつ(ミサイル)
 大丈夫やったみたいやア。良かったな」

とか、会話しているのを耳に挟んで、
「そうや。訓練!これは訓練に使われているものなんや」
そう強く思い、自分の心を納得させた。
検査中作業中の、
ミサイルの尾に当たる部品を、
清潔な白手袋で、ぐっと握りしめた。

工場は、
大手企業「コマツ」の下請けだった。
コマツは、
テレビCMで、
メジャーリーグの、
ロサンゼルス・ドジャースで大活躍していた、
野茂英雄投手の球を受ける、
マイク・ピアッツァ捕手が、
出演するCMを、流していた。
CMは、
ピアッツァ捕手の、イメージ・ビデオの様で、
コマツが、
何をしている企業なのか、
全くわからないシロモノだったから、
放映の目的が理解できなかったが
…なるほど、イメージアップのためだったのだ。
そういえば、
三菱なんて、
思いっきり軍需産業だ。
日立が「この木なんの木」
東芝が「サザエさん
の、裏で
原子力発電所を建設していることに、
気付くのは、
まだ先のことだったが。

(なんでも良い、カネが必要なのだ)

毎日、こう思っていた。
自分は、気付かぬうちに、
軍産複合体に巻き込まれていたのだ。
工場の作業着の下、
身につけていた、
愛用のジョン・レノンTシャツが、お笑い草だった。

*この自伝は、事実を元にして書いていますが、あくまでフィクションです*

つづく→