太朗の主夫日記 ~So What?~

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ド不幸自伝⑨ ~春はこわい~

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≪前回までのあらすじ≫

:20代前半。両親の借金のため、兵器工場で、働くことになった自分は‘モアイ’像によく似た男と、知り合いになった。自分はモアイと、頽廃的な遊戯を繰り返した果てに、消費者金融でモアイのために金を借り入れる。モアイは逃走し、ショックとストレスから精神を破綻した自分は、日常生活が困難となり、人間関係も破綻して行く:

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ところで、
2000年4月5日から始まった、
森内閣の記憶がほぼ全く、無い。
確かに、評判の悪い内閣で、
記録的な低支持率だったことくらいは、覚えている。
印象が薄いのは、低支持率の所為ばかりでなく、
この頃の自分が、
いかに社会を見る余裕がなかったかの、現れだと思う。
政治どころか、出来事すら記憶にない。
頭は全く働いておらず、残っているのは、
感覚だけ。
ぬくいとか、
重いとか、
しんとしてるとか、
電車の音とか、
香りとか。
そう、香りの記憶は、バカに鮮明だ。
季節の香り。
春。
春だった。

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冬が終わり、春が来た。
いつまで、こんなことが続くのか?
散歩。
もはや歩くのも、辛い。
登り階段をほんの少し、早歩きしただけで
100メートルを全力疾走した後のように、
ゼエゼエハアハアと息が切れる。
(何という、体になってしまったのか)
苦しみがいつまで続くのかを、
気にするより、
二度と元の肉体に戻れないのでは、
という恐怖が自分を支配する。
人生で、最も死に近づいた、2000年春の景色。
薄暗い土色の風景の中に、新芽の鮮やかな黄緑色が、
ぽつり、ぽつり。
K医院の風景。
若々しい、新しい命が匂う立つのに対して、
錆びた重機のような胸の中。
自分の一歩は、何故こうも遅く、
目的地は何故こうも遠いのか?

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「ところで私、移動になるので、あなたも付いてきてください」

遠藤医師は、事もなげにこう言った。
「同じ医師の治療を受けた方が良いんです」
話によると、
遠藤医師は府立医大から、
市内北部のK医院へ転勤になるということだった。
東南部に住む自分にとってみれば、
地下鉄路線図の端から端までを渡り、
さらにバスを使わなければ、
辿りつけない、困難な場所である。
そもそも、府立医大に通うこと自体、
困難なのだ。
それに、当時は気づいていなかったが、
自分は遠藤医師に、
親和性を、特に感じてはいなかった。
変えた薬が効かないとなると、
どうも、
以前の薬に戻すクセが、
あることくらいしか、
治療の印象が無かった。
遠藤医師以外の精神科医が、
どういう治療をするのかは、
知りようもないことだったし、
他の選択肢があるという観念もなかった。
遠藤医師の移動に、付いて行くことによって、
良い方向に向かない予感がしたことは、
事実だが、
告げられたことに対して、
抵抗する気力はなかった。

何をするにしても、そうだったのだ。

診察が終わった、
帰りの電車の中では、いつも処方された、
薬の説明書きを見ていた。
(電車に乗ってる間も、苦しいのだ)
デパスメレリルソラナックス
記憶違いかも知れないが、
そんな名前が並んでいたような気がする。

(効いてる気がしない。だが、これを止めると、さらに恐ろしいことになるのだろうか?)

薬の存在が、いつも不思議で仕方がなかった。
だが、飲むだけで、とりあえず何かをした気にはなる。
自分は、
この世に完全に効く薬が存在しないことを、強く恨んだ。

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市北部に来ると、南部とは気温も違う。
自宅近辺はすでに、生温かったが、
この辺りはまだ、京都独特の切れ味鋭い寒さが残った、
冬混じりの春だった。
咲き始めた桜の花びらすら、
冷気に苦しんでいように見える。
K医院は歴史の古い病院で、
むき出しのコンクリートの病棟は、
苔むして、うっすら緑色に湿っている。
患者という役割で、
こんな景色の一部に溶け込むと、
病院近辺の人気の無さとも相俟って、
自分がまるで、
世界の果てに存在しているかのように、感じられる。
ある場所(何処でも良い。例えば西アジアとか)から、
想像すると、
ここは、とてつもなく遠い場所だ。
ここより、さらに北はいくらでもあろうとも、
何故か、場所が『果て』のように思えて仕方なかった。
墓場であり、
落ちた者の、馴れの果て。
どうしても、
そう感じずにはいられなかった。

人が多く、暖房が、
やや効きすぎている府立医大とは違い、
何処も寒々しく、患者の数も少ない。
精神科の待ち合いスペースは、
建物の奥に細長く続く廊下の、
先端のようなところにあった。
無造作に設置された、
オレンジ色の固い長椅子に腰かけて、
奥に続く廊下の先をじっと見ていると、
自分の存在が、何処に向かっているのか、
わからない気持ちにさせられる。
非現実的な空間だった。
だが、苦しい。
座っていても、苦しい。
いつでも、苦しいのだ。

(どうしてこうも、院内には人が少ないのだ)

沈黙の音が、聞こえてくる。
椅子の傍には、
昔のテレビドラマでよく見かけた、
銀色の円盤のような、
無神経に大きい灰皿がある。
余計な気づかいもあったもので、
水が浸され、
捨てられた吸殻にニコチンが溶け出し、
不快な匂いが鼻につく。

いや、待てよ。

院内に、
タバコの灰皿など、置いているはずがない。
記憶違い?
一体この時、自分は何を見ていたのだろうか。
果たして『本物』
を見ていたのだろうか?

気が付くと、自分のすぐ横に、
全く見知らぬ男が座っていたのだった。


つづく→

*この自伝は、事実を元にして書いていますが、あくまでフィクションです*