タロウの音楽日記

日々の音楽活動に関する覚え書きです。

あいちトリエンナーレの、少女像撤去について思ったこと

こんな歌を、書いた↓

【少女】 作詞:作曲 太朗

私はここにいる
私はここにいる

どこにも行きません
どこにも行けません
ここから動かない
ここから動けない

いつでもこの場所に座って
あなたの心 揺らし続けてる

だからここにいて
だからここにいて
だからここにいて

*

私はここにいる
私はここにいる

何も気にしないで
何も気にしないで
どこにも行きません
どこにも行きません

あなたを許せる日は来ない
だから安心して苦しんで

ここにいて
安心して
苦しんで

ここにいて
安心して
苦しんで↓

https://www.youtube.com/watch?v=AFdtPsshUmQ



暗く、辛い日々が続いている。
私は、なるべく波風を立てずに生きていたい方だ。
争いは、できる限り避けたいから、極力何も語らないし、
語ったとしても、当たり障りの無い言い方をしようと思っている。

歌を歌ったり、
絵を描いたりしたら、良いのだと思う。

でも、近頃は歌を作って歌っても、何も伝わらない。
こんなイヤな言い方をしなければ、
伝わらないのか?と思うことが多い。
皆、同じ顔をして、同じ言葉を使い、同じことで悩み続け、同じ議論をしている。
何故、こんなことになってしまったのだろう?
思えば、
安倍内閣の政策は、世の中をすっかり50:50に分けてしまった。
人々は、何VS何という風にしか、物事を捕えられなくなり、インターネットの言葉は過激になるばかりだ。
世の中全体が、すっかり不感症にでもなってしまったのだろうか。



あいちトリエンナーレの騒ぎが耐えられない。
展示作品であった少女像が、多くのが脅迫をきっかけに撤去された事件だ。

最初に言いたいのは、戦地における軍隊という状況に私がいたら、私は間違いなく少女を利用していただろうということだ。

幸運なことに、今私は戦乱の状況ではない中を生きている。
仕事に疲れたり、仕事を探すことに疲れたり、そもそも生きていること自体に疲れたり。そんな夜、私は強烈な渇きを覚え、安らぎを求める。さらに幸運なことに、私には家があり、家族があり、話相手がおり、コンビニのお菓子や、アルコールや、気晴らしのインターネットがある。精一杯、息を吹き返した後、大して勉強もせず睡眠をとり、わずかばかりの活力を取り戻し、明日へと自分の心と体を繋ぐ。

戦地でないから、善人なのだ。



少女像を、出来る限り見ないようにしてきた。視界に入ったとしても薄目で見ていた。
何故なら、恐ろしいからだ。
彼女の瞳に自分の心の中に潜む欲望を見透かされている気がする。
いや、きっと見透かされている。そういう瞳をしている。蹂躙され尽くし、傷つき尽くした後に、魂が凍ってしまったような、澄んだ瞳。



このあいちトリエンナーレ事件で異常なのは唯一、異性愛者の男たちだ。
そして私は、異性愛者の男性だ。いわゆる多数派というやつだ。

確かに、友人の中には、腹の中がカラッとしていて、お日様みたいで、絶対、この人なら生まれてこの方ハラスメント、とりわけ女性に対してハラスメントなどしたことないだろうな、と思える男性はいる。悪意を込めて言えば、あまり男っぽくない男性だ。

しかし私がSNSの世界で何回か見かけたのは、少女像の横に腰かけたり、寄り添ったり、あげくに手を添えたり、花束を捧げたり、記念写真を撮影したりする男たちの姿だ。
実におぞましかった。
恥は、無いのか?と思う。
どういった神経で、少女に寄り添うなどというマネが出来るのだろうか?
何故そこまでして、自分の腹の内にモザイクをかけることができるのだろうか?
そんな者を多く目にしたのは、私がそういった恥知らずな男たち側の人間だからと思う。

少女像の瞳の問いかけにひとりの男として向かいあうことなく、国際問題や、歴史認識や、人権問題や、表現の自由や、イデオロギーとして、主張するのが最も楽チンだ。正義に逃げれば、自らの立場は保証される。
逆に言えば、少女像に恐怖しショックを受け、自分が解釈したい方に歴史を解釈し脅迫までする卑怯者の方が、作品に対して全うな反応を見せているのだ。

大体、あの作品は芸術作品として二流以下だと思う。
少女像は傷つけられ、物静かに悲しみ、怒りに満ち、激痛に満ちている。美術館如きに陳列し、安っぽいアートに仕立て上げ、椅子を設置し、わざとらしく問い掛ける。
何をどうしろと言うのだ?
怖い。私は怖いだけだ。
土下座して、血が出るほど額を地面に打ちつけても、少女の苦痛に対しては何ひとつ意味がないのだ。
立派な人間だから、己に厳しいわけではない。ただ単に彼女の瞳から逃げきれないだけだのことだ。

死ね、気持ち悪いおっさん。
死ね、太朗。