たろうの音楽日記

日々の音楽活動に関する覚え書きです。

京都市長選2020の感想~市民の終わり~

 

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2020年の、
京都市長選挙とは、
一体何だったんだろう?
と、考える。

自分が、
あの市長選挙に、
今までに無く関心を持ったのは、
他愛もない理由で、
地元伏見区投票率が、伝統的に非常に悪く、
選挙の足を引っ張っているという、
悪評を聞いてのことだった。

たまたま、
今回の市長選挙は、
力を入れて応援できる候補者がおり、
自分は週に一度、近所の大手筋商店街に出て、
ウクレレを演奏し、
歌を歌いながら、
候補者の存在をやんわりとアピールした。
仲間に募集をかけ、
集まってもらい、
ポスターやプラカードでの政策宣伝に、
協力してもらった。

もちろん、
こんなことくらいで、
伏見区投票率が向上するわけもなく、
自分がせいぜい、小さな火花ほどの、
発火点になればと思っていた。



わかっては、いたのだが、
公示を前後に、
選挙の様相は変わってきた。

例えば、こんなことがあった。
選挙中、
自分はインターネットもよく利用しており、
面白半分で、
今回の選挙の、
政党事情のひとつを象徴するような写真を、
SNSに投稿してみた。
それは、ホントにどうでも良いような写真だった。

ところが、
投稿と同時に、
その写真が、
いわゆる拡散をされて行き、
さまざまな人たちが、
あーでもない、
こーでもない、
と好き勝手に批評を始める始末だった。

「一体どんな写真だったのか?」

と、問われても、
説明をする必要は全くないと思う。
強いて言うなら、
この広い広い京都市の、
誰も目につかないような一角を、
切り取った風景写真だ。

(なるほどコレは、ネッシーの写真みたいなものだ)

と、自分は思った。

インチキなおもちゃかも知れない、
岩の影かも知れない、
動物の尻尾かも知れない。
ひっくり返った船かも知れない、
人々は、
実際は存在していないものに、
過剰な自意識を投影し、
自らに興奮剤を注射する。

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面白半分でネットを利用した、
自分の責任なのだが、
政党事情のひとつを象徴するような写真、
というのは、
非常にタチが良くなかった。
自分がそれを、
SNSに投稿したのは、
イタズラ心がほとんどだったので、
ネット用語での「釣れた」ということになる。

後からも書くが、
これほど「市民」という単語が、
出鱈目に、
使用されまくった選挙はなかったのに、
インターネットを好む人々の間では、
政党事情が全然、
どうでも良くなっていないのだ。
原因は、
とっくに成立しなくなっている、
安倍内閣打倒のための「野党共闘」だった。
もう長い。
安保関連法の成立からずっと、
野党共闘」というワードは、
幕末の尊王攘夷並の、
強烈なイデオロギー
キャッチコピーとなり、
人々から思考を奪い去っている。
野党共闘を邪魔するものは、
切り捨て御免。
当然の如く、
野党共闘の4文字は、
一部ネットウォッチャーの、
好奇心と憎悪を、
多いに刺激することになる。
自己顕示欲と権力欲の固まりみたいな、
自称選挙評論家、
自称ジャーナリストが、
これに目をつけないはずはない。
昔の写真週刊誌と同じで、
選挙ポスターを映しただけ、
政党の有力者が映っているだけの、
どうとでも解釈できるインチキ写真に、
扇動する類のコメントや記事を加えれば、
ネットウォッチャーは、
穴の開いたチーズに食らいつく鼠の如く、
罠に向かって一直線。
仕掛ける側は、
増幅してゆく、
「いいね」や「リツイート」に、
自らが影響力のある人間だと錯覚し、
麻薬のような快感に溺れる。

ホリエモンや立花孝志といった人間は、
こういった仕組みをよく理解し、
金銭を稼いでいるのだと思う。



ここで、
今まで書いたことを、
一度全部忘れて欲しい。
(無意味なので)

話を身辺に戻すと、
兎にも角にも、
自分はこの辺りから、
選挙ムードに着いて行けなくなった。

毎回のことだし、
選挙とはそういうものなのだが、
街宣カーのアナウンスはうるさく、
街に緊張感とキナ臭い雰囲気が充満してくる。
苦手だ。
情熱と関心が薄らいで行く。

それでも、
自分が応援していた福山候補は、
傑出しており、
彼の陣営が言う「99%の市民」とか、
自分にはよく理解できない概念について、
「市民というのは彼の中で『庶民』のイメージ」と
説明した。
そういうことなら、我が意を得たりだった。
選挙期間中での変化を、
アウトプットするこの候補は、
空気に気押されていた自分を、
刺激してくれたのだ。



しかし、
決定的に最悪だったのは、
ニュースにもなった、
「独善的」「共産党の市長はNO」
等書かれた、
現職側の反共ヘイト新聞広告だった。
あれで、
現職側は、
自分たちの精神が、
汚染されたものであることを、
世間に向かって正直に告白してしまった。

こうなると、泥試合だ。

対立候補側は、
市民のための市長がYES…云々、
ほとんど虚構に近い、
アンサー広告を出した。
(せざるを得なかったのだろう)
毎日の出勤前、コンビニに立ち寄り、
パラパラと新聞をめくっている、
自分には、
どちらがどちらの陣営の広告なのか、
もはや区別がつかない。
(実際、新聞の現物も古紙回収に出してしまったから、
キャッチコピーの文面も、正確に覚えていない)
果たして、
どういう裏事情とカラクリで、
広告合戦のキャッチコピーが決定されているのか、
それはもう、
遥か雲の上の世界だった。

はっきりしたのは、
せっかく候補者自らが、
解きほぐしかけていた、
「市民」という、
得体の知れない概念が、
反共ヘイト広告によって、
高らかに復活してしまったことだ。



お気づきの方も多いと思うが、
言ってしまうと、
市民など、最初から存在しない。
特定の候補者の間近にいる人たちが市民だというなら、
自分は、絶対に市民ではない。
今回の選挙で、
「市民」というワードは、
幕末の尊王攘夷並の、
強烈なイデオロギー
キャッチコピーとなり、
人々から思考を奪い去った。
自民党員、創価学会員、その他政党、自分のような庶民は、
市民に非ず、
切り捨て御免。
切り捨て御免?
いや違う。こちらから逃げ去って行く。
ならばいっそ、
「市民党」という新しい政党を作れば、
全てすっきりするのだ。

(こうなれば「市民」とは、ネッシーみたいなものだ)

と、自分は思う。

インチキなおもちゃかも知れない、
岩の影かも知れない、
動物の尻尾かも知れない。
ひっくり返った船かも知れない、
人々は、
実際は存在していないものに、
過剰な自意識を投影し、
自らに興奮剤を注射する。

一体、私たちは何を見てるのだろう!



投票日も間近な頃、三条河原町で、
著名な山本太郎を迎えた、
大層な街宣があった。
その日は確か、
ムスメの保育園の行事に参加していた日だと、記憶する。
ネットニュースで見た三条河原町には、
京都市周辺から絞り出した、
ほんのわずかの支持者が集まっていた。
自分は、
大多数の庶民と同じく、
はや選挙のカヤの外、フツーに家で過ごしていた。
友情以内の範囲でしか、
選挙活動に参加することは、なくなっていた。



立憲民主党社民党に裏切られた!
ガッカリだ!
と、共産寄りの人間が、
原因を考えようともせず、
言いがかりに近い呪詛の念を漏らすのは、
野党共闘」「市民」以前に、
京都の選挙の名物みたいなものなので、
別にかまわない。
むしろ、
毎回繰り返されるコレが無いことには、
選挙に入ったという気がしないし、
次の市長選挙でも、
必ず起こる現象だ。
(他府県市の方にはピンと来ないかも知れないが、
京都市民主党がその本質を、隠さず示してくれる、
貴重な場所なのだ)

だが、
今後も「市民」というキャッチコピーが、
この京都で継続されていくのかと思うと、
自分は心底ウンザリする。
恐ろしい閉塞感を覚える。
この言葉を使ってはダメだから、
新しい言葉を探すという問題ではない。

こうなれば救いはもう、愛しかないように思う。
お手軽な愛ではなく、
感情や気分から来る愛ではなく、
根本思想としての愛。
胸に愛を秘めて、
エゴを削り落す作業を可能な限り継続し、
世界を見つめることが、
この困難な時代、
最も重要な行為なのだ。



選挙は、結果が出た。
大きく向上した投票率は40%、
庶民のうちの60%は、
3候補の誰が市長になっても良かったのだ。



『♪戦争と選挙はやめてくれ』作詞作曲:たろう

目を覆いたくなるデマ合戦
ネットの言葉は汚くなるし
目立ちたがり屋は出てくるわ
世の中変える主人公気取り

いつの間にやら なりたくもない
相手と同じ顔になっちゃった

戦争と選挙はやめてくれ
戦争と選挙はやめてくれ
戦争と選挙はやめてくれ

だけどやるしかありません
だけどやることありません

自民党にはイヤ気がさしてるし
社会党には腹が立つ
共産党には何故か説教されて
結局はアメリカの所為なのか?

いつの間にやら なりたくもない
あんたと同じ顔になっちゃった

戦争と選挙はやめてくれ
戦争と選挙はやめてくれ
戦争と選挙はやめてくれ

だけどやるっきゃありません
せめて寄付くらいしてみようか
だけどお金もありません
ララララ ラララララ…

 

トークイベント「日本社会はなぜモノ言う女を叩くのか?」を聞きに

今日は、
社民党大阪府連合新春のつどいの中での、
トークイベント、
「日本社会はなぜモノ言う女を叩くのか? 大椿ゆうこ×石川優美クロストーク #KuToo から見えてきたもの~f:id:tarouhan24:20200126233022j:plainを聞きに行く。
これまで、
石川優美さんのことも、
#KuToo 運動のことも、
恥ずかしながら、知らなかった。
何でも、
就活や職場で、
女性へのヒールやパンプスの強要を、
無くしていく活動で、
始まったきっかけは、
石川さんのツイートらしい。

そう言えば、
自分はヒールを履いたことがない。
パンプスが何なのかも、知らなかった。
ああいう履物を強要され続けることは、
纏足に近く、
大変な苦痛を伴うということだ。
一度履いてみないと、と思う。

石川さんの著作、
#KuToo
も購入し、

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パラパラと第一章を見たが
軽やかな表紙とは裏腹に、
芸能界、
いやこの男性社会における
性暴力のえげつなさが、
石川さんの経験を通じて綴られた、
大変辛い内容だった。

大椿さんの話は、
変わらず胸に迫るものがあった。
選択の余地なく、
正規雇用として働いていたとき、
継続雇用を求める闘いの中で、
家族や友人からも、
分かっててそんなトコに入ったのは、
オマエの責任だ、
自己責任だと言われた等々、
やはり、ロスジェネとしての自分を重ねて考える。

それでも、
ネット世界での、
いわゆるクソリプを、
スクリーンに映し出して、
この社会の偏見と悪意を、
読みとって行くという手法の、
トークイベントは、
明るく前向きなものだった。

f:id:tarouhan24:20200126233130j:plain自分は、
タイトルの
「日本社会はなぜモノ言う女を叩くのか?」
の答えをずっと考えていた。
既得権益の積み重ね、
構造的な問題、
イロイロあるのだろうが、
やはり、
後ろめたさを振り切りたい、
性的な優位性を保ちたいという、
男性の臆病すぎる本能が、
根本にあるのだろうと、思った。

わかっているのなら、
自分は、
具体的にどういう活動をすれば良いのか?
それがわからない。
わからないまま、トークを聞いていると、
大椿さんと石川さんは、
「さあ、ふたりでどういう活動をして行くか?」
と、ワクワクするような話合いをしている。

なるほど、自分は悟りを開いた。

男は、
何もしなければ良いのだ。
何も書かなければ良いのだ。
そうすれば、クソリプなど無くなる。

以前、自分は、
『♪この世は女性のためにある』
という歌を作ったことがあり、
それこそ、
ブーメランのように、
自分に跳ね返ってくるこの自作曲が、
大キライで、
無かったことにしていたのだが…

思い出した。
この曲は、
「この世は女性のためにある 何もするなよ男たち」
という詞で終わる。
この部分は良いではないか。
また歌おうかな、歌おう。
歌い方を変えたり、
詞も少しは改善できないかな。

行動を始めるのだ、
何もしないために。
マンガみたいな男気を見つけるのだ。

【この世は女性のためにある(何もするなよ男たち)】

作詞:作曲 たろう

自分の妻や恋人が オバサンみたいになってきた
それは男の責任だ

何回も「愛している」と 言うんだ言いすぎることはない
何回言っても足りないんだ

パートナーの愛だけでは足りないんだ
世界が女性を愛すべきだ

この世は女性のためにある  この世は女性のためにある
投げ出せ 投げ出せ 男たち

国会の中はいつも何で あんなにおっさんばかりなんだ
この国は異常だぞ

会社でおっさんみたいな 女性が増えるのは
屁理屈を押し付けてきた
男たちの責任だ

そんなことをしてると モテなくなるぞ

この世は女性のためにある  この世は女性のためにある
やめとけ やめとけ男たち

女性の声をおしつぶして 積み上げてきた価値観が
壊されるのを恐れてる

今生きてるこの世の中は  女尊男卑くらいがちょうどいい
オレたちは恐れてる
女性が声をあげることを

おっさんあんたは負けてるよ

この世は女性のためにある この世は女性のためにある
黙っているんだ 男たち

なんで女性だけがいつも 子育てしないといけないんだ
男は力だけはあるんだろ

毛むくじゃらのその腕で かわいい子供を抱っこしろ
子供を産むのはタイヘンだろう
子育ては男がひきうけろ

世界が女性を助けるんだ

女性が子供ギライで何が悪い 女性は聖母でなきゃいかんのか
子供を抱いてる姿だけが美しいのか 大きなお世話だコノヤロー

この世は女性のためにある この世は女性のためにある 
何にもするなよ男たち

 

歌など、何の役にも立たない(特にドナルド・トランプには)


ドナルド・トランプが大統領になったとき、
私は気が動転した余り、
荒っぽく、メモ用紙に作文した。

以下の文章だ↓

ドナルド・トランプについて考える】

もし、
ヒラリー・クリントンが大統領になっていたら、
バラク・オバマのようなモノだったのだろうか?

一見、良さそうで実は悪い。
世界は戦争状態のまま、現状維持。
ひどいが、
もっとひどくならないだけマシ。
ある種の人に言わせれば、弱腰外交。

アメリカ大陸に住む人の、
何割かが、
良さそうな悪さが変化することなく、
継続することに耐えきれなくなり、
ドナルド・トランプは票を集めたのだろうか?

連れ合いの会社の取引先のアメリカ人男性
(という言い方で良いのか?)
は、代々共和党支持者で、

クリントンは大嫌いだ、だが、トランプも嫌いだ」

と言っていたらしい。
その彼は、
棄権か、
因襲でトランプに投票するか、
迷っているそうだ。

何故、彼は
クリントンをイヤがっているのだろうか?
理由が知りたい。

それにしても、
ああ、ドナルド・トランプが本当に大統領になってしまった。

私の目には、
彼の表情やしぐさが(多くの人がそう思うように)
腕力満点のベイビーに見える。
彼は一体、何に興味があるのだろう?
本当のところ、
何にも興味がないんじゃないか?と推測する。
大統領になったり、
多くの人の心を動かすことに、刺激を感じているだけ。
人間の業が集約されたような、
死ぬまで止まることのない、権力欲。
いまや大統領の彼は、
より大きな刺激を味わうことができるだけの、
権力を手にし、
実態の無い「強い国アメリカ」
という存在に酔っぱらっている。

彼にはデタラメしか感じない。
彼の影響化にある世界は、
どんどんデタラメで無計画な不幸と幸福が、
訪れるのではないだろうか。
彼の政策(?)によって起こる事柄を想像してみる。
経済の混乱、
極限の暴力、
殺人、差別、
偶然の平和、
棚からボタモチのアブク銭。



まだまだ作文は続くのだが、
一端、引用をここで切る。

世界中で大きなニュースになっているが、
彼はまた新しい殺人を犯している。
そのような人物を政治のトップに底上げする世界で、
歌を歌っていると自分は、
一体何なのだろう?
と、考える。

わかっていたことだが、
歌など、何の役にも立たないのだ。
プラカードを持って、
意志を示し、
街角に立つほうが、
まだ良いのかも知れない。

常日頃、
私は歌を歌い、
精神的な健康を維持している。
漢方薬を飲んで、
肉体の健康を維持しているのと同じことだ。

今回のドナルド・トランプの行為を、
報道で目の当たりにして、
精一杯心身の健康を維持しているときに、
不意に事故に会い、
負傷したような気持ちになっている。
宗主国の王が、
殺人鬼であることの絶望。

いろいろと考えて見る。
今、
香港の最前線で抵抗する人々は、
警察の背後に、
絶望的な権力者、
習近平の影を見ているのだろうか?

私は今、
アメリカ軍基地の無いヤマトの街の路上で、
宗主国アメリカ王の、
犯罪のニュースを聞きながら、
京都市長選挙のために、
使い回しの歌を歌っている。
新しい言葉も、新しいメロディも、
何もない。

自分が歌を作れないときは、
人の歌を聴いてみる。
友人が作った、
「ちいさなともしび」という歌↓
https://www.youtube.com/watch?v=7mg-H648waU


注意深く聴いてないと、
歌がかき消されそうだが、
私には大きな力で響いてくる。

消えないように そっと歩く 森の中…

小さなともしび 消えないように そっと歩く…

私の心の中には、
ともしびでなく炎がある。
消えないように燃えている。
歌を聞きながら、
消えていないことを確認する。


だが、
私には駄目なのだ、ともしびや炎では。
歌が何一つ役に立たないのなら、
圧倒的な暴力のニュースの前で、
鋼鉄のような心を持つことを、
この胸に確かめる。
鋼鉄のような心で踏みどまりたい。
そんな心のことを、
人に話したい。

とだけ、今は思っている。

 

京都市長選について思うこと

京都市はこれから、
市長選挙に入る。
応援する予定候補が見つかったので、
選挙運動のついでに、歌を歌っている。
(歌のついでに、選挙運動をしたくはないものだ)

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自分は選挙運動が大の苦手というか、
キライなので、
選挙期間は、
基本的に憂鬱な気持ちで過ごさなければならない。

まあ、
とりあえずそーゆー愚痴は置いておく。
せっかくだから、
今だけの話なので、
京都市長選挙について思うところを、
少し書いておく。



まず、自分は、
「青いとり保育園問題」に関心がある。

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青いとり保育園は、
京都市立病院に勤務する、
子どもを持つドクターや看護師の、
仕事、子育てを支える園で、
元々は、
市営保育所に近かったらしい。
(↑写真の本「先生、ボクたちのこと きらいになったから いなくなっちゃったの?」の内容から)
だが、
昔から今に至り、
あらゆるところで進行している、
国の、
そして京都市の、
民営化政策のあおりで、
青いとり保育園も、
突然の、
民間委託の憂き目にあってしまった。
自分は偶然、
この問題の当事者に、
関わりがあって、
民間委託の現状を聞いたことがあるのだが、
それはひどいものだった。

民間委託とは、
バクチというか、
たまたま、
マシな企業が入ればマシなのだが、
最悪な企業が入れば、
最悪にしかならない、ということだ。
保育に関することなのに、
人道的な後ろ盾が全くない状態になる。
企業にあるのは、
ソロバン勘定のみ。
ソロバン勘定自体は結構だとしても、
保育=ソロバン勘定など、
あってはならない考えだ。

結果、
アートチャイルドケア社が入りこんだ、
青いとり保育園は、
勤務していた保育士が全員解雇され、
民営化の事情など、
知るよしもない園児たちは、
ある日を境に、
低賃金で雇われた、
全く知らない保育士に囲まれることになった。
解雇された保育士と園児たちの、
お別れ会の映像を見たのだが、
涙の別れの場面は、
とても、正視に耐えるものではなかった。
暴力とさえ言える、
民営化の魔の手は、
園児たちと、
保育士を引き裂いたのだ。



門川大作現市長は、
300億円超の赤字だった市財政を黒字にした、
と言う。

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なるほど。
自分は、
市長に寄り添って、
人の心を薄めてみよう。
確かに、
300億円の赤字を黒字に転換さすのは、
大変な労苦が必要だろう。
貧弱な家計を黒字に転換さそうと、
四苦八苦している自分には、
想像もつかない世界だ。

ならば、
保育園民営化も労苦のひとつだろう。

かつての対立候補だった、
中村和雄氏が訴えた、
観光環境税を、KBS京都の討論番組で、
「観光客の方々からお金を頂くなんて…」
と批判して後に、
チャッカリ観光客から宿泊税をとったりするのも、
労苦のひとつだろう。

京都市美術館命名権を、
企業に渡し「京セラ美術館」にする過程を、
自分は学習したことがあるが、
これも財政健全化のための労苦か。

こうして、
知っていることを並べたてて見ると、
京都アニメーション襲撃事件後の、
最悪な発言が象徴する、
現市長独特の無感覚とも言えるセンスでしか、
達成できない財政健全化だったと、理解できる。

皮肉ではない、
間違いなく現市長の功績だろう。

彼のセンスと功績は、
景観政策にも、表れているように見える。
市街から余分な看板は消え、
よくわからないものは、
淘汰されていってる。
街中をぶらぶら歩くと、
「え、ここもホテルになったん?」
と、
しょっちゅうつぶやくほどに、
宿泊設備は整備され、
かつては街と地続きだった、
寺社仏閣は、
まるで、エサ箱のような扱いで、
海外から観光客をおびきよせている。
近頃の京都市はまるで、
よくできたジオラマのセットのようだ。
見ている方が、
思わず、
「よーやるわ」と言ってしまうほどの、
現市長の演出的な着物姿同様、
まるで、
張りぼてのような文化都市なのだ。

今回の市長選、
3人の予定候補のひとり、
村山祥栄氏は、
選挙対策用の著作のキャッチコピーで、
「こうすれば観光公害は防げる!」
と謳っているが、

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観光公害という言い方は、
あまりに冷たすぎるように、自分には感じる。
むしろ、
映画のセットのように仕立てた、
実際には何の深みもない京都市に、
海外から観光客をおびきよせ、
安くはつかない旅費を散財させている気がして、
旅行者に対して申し訳ないくらいだ。

観光による収益が上がっていると言っても、
現実は、
局所の観光地を場当たり的に活性化させる、
カンフル剤を、
永遠と打ち続けてるようだ。
伏見稲荷大社が、
毎日、信じられないくらい混雑しても、
伏見区在住の自分が、
金銭的にも精神的にも恩恵を受けているとは、
生活実感として、到底感じられない。
現市長の街づくりは、
京都市民の心を豊かにするものなのか?
京阪沿線を散策するたびに思う。

現市長が財政健全化を達成した、
その功績を信じるならば、
彼の役割は、もう終わったのだと思う。
ここからは、
新しい市長による市政が見たい。
前例がほとんどない4期目になど、
立候補するべきでは、
なかったのだ。
かつての蜷川虎三府知事の多選に、
ウンザリだったという昔話は、
京都に住んでいると、
イヤというほど聞かされるというのに。
ステレオタイプ化された、
京都風の皮肉ではないが、
「おくたぶれさんどした」だ。
(お疲れ様でした、の意味らしい。自分も京都弁はよく知らない)
民主党は失敗したのだ。
福山和人、村山祥栄と対峙する、
新たな候補者を擁立するべきだったのだ。
(自民党の事情はよく知らない)

自分は、
京都市は私が住んでいる市!」
という実感のもとで暮らしたい。
京都に生まれてから、一度も感じたことがないのだ。
京都市は、
新聞等で、
何やらかんやらの受賞が報道されているような、
伝統文化の世界と、
わけのわからぬ老舗ライブハウスで行われる秘め事じみた、
アンダーグラウンドな文化が、
双方とも力を持ちながらも、
乖離し平行線をたどっているように見える。
別に、それ自体が問題ではなく、
表の文化と裏の文化が、
繋がる必要もないのだろうが、
何と言うか、少なくとも、
観光の次元だけではない、
京都の奥深い文化を理解し、
それを後押しできるような、
市長の元で、一度は暮らしてみたいと思うのだ。
自分は美しい寺社仏閣も、
今は強制撤去されている、
京都大学前の、ゴチャゴチャした立て看板も大好きだ。
文化的な背景の存在は、3予定候補の誰にも感じない。
これはまあ、自分の勝手な願望だから仕方ない。
そもそも、
仕事の場所が違うのだろう。



と、まあ京都風に、
ねちっこくボヤいてしまいましたが、
こうしていろいろ考え、
自分は3人の中、
福山和人氏を、支持することにしました。
子育て世代として、
彼の訴える「すぐやるパッケージ」の中、
特に、
市独自の給付型奨学金の設立の現実化に、
大きく期待します。

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12月13日~劇団石(トル)の『キャラメル』を観に行く~

劇団石(トル)の『キャラメル』を観に行く機会は、
何回かあったはずだが、
意図的に避けていた。
というより、
決して観に行かないでおこうと、思っていた。

理由は簡単で、
劇のテーマがわかりきっていたから。
加害の感性を、色濃く持つ自分が、
わざわざ、
しんどい思いをしに行くはずがなかった。

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ところが急に、
この、
12月13日の、滋賀県栗東芸術会館での公演を、
見に行く気になった。
タイミングもあったが、
何となく、
劇に自分が呼ばれている気がした。
(理由は、後で気づくのだが)

そうは言っても、
私にとって『キャラメル』を観に行くことは、
重荷であることには間違いなかったし、
開演時間ギリギリに、
隠れるようにして、栗東駅に到着した。
会場に滑り込み、
観劇に来た実感が無いまま、
幕が開く。

劇団石(トル)の舞台を見に来たのは、
初めてではない。
だから自然と、
今まで、散々自分を笑かしてくれた、
きがんさんの躍動する空間の中で、
私は寛いでいた。
ひょっとしたら、
他人にこの劇を説明するとき、
「ああ、喜劇やで」
と説明するかも知れない、と思った。
僭越ながら、
自分の感覚に、少し似ているなと思った。

しかし、
劇がやがて過去にタイムスリップするのは、
目に見えていたので、
現実の私は全く笑ってはいない。
ハルモ二があの日に戻った時、
自分の中に様々な悪夢が蘇った。
レイテ島で死んだであろう祖父は、
慰安所に行ったのか?
テレビ画面で、
アボジ!」と叫ぶ彼女らを見て、
「(テレビを)消せ!」など罵詈雑言を浴びせた、
絶縁した実母の、強力な差別性。
その血を引く自分は、
慰安所にいたら、何をしていたか?
いや、それは誤魔化しだ。
単に、
自分の人生を思い出したら良い。
「あなたが謝る必要はない」
と、俺に言うあなたは、
一体俺の何を知っているのだ?

きがんさんは、
彼女たちの魂を、
自分の肉体に呼びよせている。
同時に、
自分自身も世界に晒している。
そう見える。
私は、
泣きも笑いもせず、
ずーっと無表情で観ていたと思う。
感情を表に出すことができない。

(私は、何ということをしてしまったのだ)
自分の人生を悔いる。



救われた気持ちになったのは、
芝居が終わった後の、
きがんさんの口上だった。
そこでしか聞けない話を、
ここに書く必要はないし、
また、話も変わっていくのだろう。
ただ、
この12月13日の口上を聞いて、
わかったのが、
私はハルモ二に会いたくて、ここに来たということだ。
それだけのことだった。
普通に考えれば、
会うことはかなわない。
どうすれば会えるのか?
きがんさんの表現を通して、
劇団石(トル)を通して、会うしかない。

そして思った通り、
私には、会わせる顔などあるはずもなく、
本能的に最後尾の席で観劇していた。
彼女らの、
パーティーを、
悪夢を、
レボリューションを、
隠れた場所から見ていた。
見ればみるほど、
いつものように、
私は自分を許せなくなる。

だから、
観客席にいた知り合い、
誰とも話す気になれず、
行きと同じように、
帰りも逃げるようにして、
足早に会場を去った。
今後も、誰とも話すことはないだろう。



特筆すること。
帰り道、
会場から、栗東駅までの遊歩道を歩いている間、
私の胸の中に、ほんのりと温かさが湧いたのだ。
突然だった。
胸の中に、
ピンク色の炎を燃やしたランタンのようなイメージが、
湧いたのだ。
それは、実にあたたかい気持ちだった。
あの場(演劇)に立ち会わなければ、
湧かない感情だったと思う。



電車に乗ってしまったら、
そんな温かい感覚は吹っ飛び、
元の、
自分が許せない、
という気持ちに戻るのだが、
あの、
ほんの数分間の温かい感覚は、
今までの人生で、一度も感じたことはなかったし、
今後生きて、生活していく中で、
あれを経験したことは、
私の歩みが、少しでも希望の方向に向かう、
標になるはずだ。

ありがとう、きがんさん。
ありがとう、劇団石(トル)



【少女】作詞作曲:たろう

私はここにいる 私はここにいる

どこにも行きません
どこにも行けません
ここから動かない
ここから動けない

いつでもこの場所に座って
あなたの心 揺らし続けてる

だからここにいて

*

私はここにいる 私はここにいる

何も気にしないで
何も気にしないで
どこにも行きません
どこにも行きません

あなたを許せる日は来ない
だから安心して苦しんで

ここにいて 安心して 苦しんで

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11月29日、30日~今週もたくさん歌いました~

11月29日(水)↓
仕事帰り、
三条木屋町下る「わからん屋」の、
オープンマイクに行く。
自分も含めて、出演者=観客がたったの5人。
こういう雰囲気が実に良い。

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自分は3番目に歌う。
たった15分のステージ。
「おはよう」
「ジャンプの打ち切りマンガとカネやんの400勝」
「Glory to 香港」
の3曲を歌う。
前回のブログで書いた、
「Glory to 香港」を歌う理由について話す。
わずかでも、伝われば。

出演者の中に、
最近、
京都新聞で取り上げられて話題になった、
岡林信康の「山谷ブルース」原作詞者の平賀さんの姿があった。
人間国宝と握手させてください」
と申し出ると、
「下町の国宝ですよ」とニッコリ。
偉人は、案外身近なところにいるのだな。



11月30日(土)↓
午前中のみ仕事。
家にウクレレを取りに帰った後、
原点とも言える、
京阪伏見桃山駅前は大手筋商店街へ。
この日はどうしても、
大手筋で歌いたかったのだ。
路上で歌える、
まだ見ぬ誰かと出会えるかも知れない、
この感覚が大切なのだ。

自作の「資本主義」という歌を歌っていると、
マスクとサングラス姿の紳士が、
歌を気に入ってカンパをくれた。
全共闘だという、
その紳士は、
京都のシンガーソングライターの、
オクノ修に詞を提供したこともあるらしいが、
ご本人は全く表には出ておらず、
現在は、
難解な数式を日々解くなどして、
研究と思索に満ちた生活を送っているらしい。
ソフィア・ローレンの「ひまわり」の話や、
紳士の青春時代に、
自分と似たような歌手がいた話をしてくれ、
多いに励まされる。
自分の歌は、
ネオレアリズモだと、
身に余る褒め言葉を頂き、
ならばと、
しばらく歌う機会もないだろうと思っていた、
ロスト・ジェネレーションの歌」を歌う↓
https://www.youtube.com/watch?v=ZFIn1ZgyYEA&t=34s
13分超のこの曲。
紳士はじっと聞き入ってくれ、
「ラップが入っているが…ボブ・ディラン!」
と最大級の賛辞をくれた。
(自分では、ポエトリー・リーディングやトーキング・ブルースのつもりでも、
世代の方からしたら、ラップらしい)
全共闘世代なら、
議論がむき出しになり衝突するところを、
直前で回避していると、
自分の詞の特徴を評してくれた。
「40歳を越したくらいから、表現しだすのが一番面白い。
もっと歌いなさい、通行人の耳には必ず届いている」
と、言い残して紳士は去って行った。
ナルホド、
たまたま出会った紳士は、
すぐれた批評家でもあった。
ホント偉人は、案外身近なところにいるのだな。

一時間強、歌った。
思い出せる限りのセットリストは、
「資本主義」
自衛隊のおっちゃん」
「おはよう」
「ジャンプの打ち切りマンガとカネやんの400勝」
「Glory to 香港」
「そよ風」
「生活のうた」
「種」
「戦争と選挙はやめてくれ」
「他人の幸せ許せない」
「みちのみち」
ロスト・ジェネレーションのうた」



その足で、京阪電車に乗り、
今度は、
三条河原町アーケード前でライブ。
時刻は五時。
早くも日は落ちて、
河原町は、
気が早いクリスマスのイルミネーション。
友人Kさんが、励ましに来てくれる。
いつもは、
辺野古新基地に反対する京都行動の、
ステージであることが多いこの場所。
だからなのか、
何となく、社会的な曲から歌い出す。
思い出せるセットリストは…
「Glory to 香港」
「ハローハローハローハローハロー沖縄」
「おはよう」
「ニノヨイサッサイ宮古島
表現の自由
「戦争と選挙はやめてくれ」
「そよ風」
「他人の幸せ許せない」
「絶対ここから抜けだしてみせる」
「二人のシェルター」
「少女」
ここでも、一時間強歌う。

「Glory to 香港」は3回歌う。
どうやって歌えば良いのか、
わからないまま歌う。
しばらく演っていない自作曲を、
思いつきで演ったりするので、
コードがめちゃくちゃだったり、
キーを間違えたりするが、
気にならない。
キーを間違えた曲で、
外国の方がカンパをくれたりする。
声は出る、いやもっと出しても良いなと思う。
扱いが荒いアンプが雑音を出し、
自分には心地良い。
気分が良かったので、ラップもする。
Kさんは香港を想い黒マスク。
真横で、
自分が作った、
辺野古新基地建設NO この場所から】
【南西諸島への自衛隊配備を考えよう】
【Glory to 香港】
のプラカを抱えてくれたり、
撮影してくれたり、
まるでバンドだと思う。
メッセージ・バンドに音楽スキルなど関係ない。
楽しい。

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面白かったのが、
途中、
京都市長予定候補の、
村山祥栄氏の選挙カーが停まったこと。
街頭演説をしたい様子だが、
歌っている京都市民を、
追い出すわけにも行かず、
選挙カーは、何処かへと去っていた。
様々なことを考えたであろう、
困惑の表情の村山氏と目が合った。
全く応援していない予定候補なので、
良いことをしたのか、
悪いことをしたのか、
よくわからない。
正直、
応援している福山和人予定候補か?
と期待した自分がいた。
彼ならきっと、
こんなアホなことをしている、
ビンボー京都市民に困惑することなく、
楽しんでくれるだろうな~
と考えた。

11月21日 ~僕にとっての「Glory to the 香港」~

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1976年生まれなので、
中学生のときに起こった天安門事件は、
ちょっとした、心的外傷になっている。

疑うことを知らない年齢だったから、
天安門広場に学生たちが建てた、
洗練されている造形とは言えない「民主の女神像」も、
永遠にそこに在り続けるものだと、
思っていた。
だから、
像が倒れされたときはショックだった。
広場に集まっていた、
学生たちはどうなったのだろう?
久米宏がキャスターを務めていた、
ニュースステーションを見ても、
像が倒れた下の状況が、
わかる映像は、流れていなかったと思う。

何となく伝わったのは、
人民解放軍は兵器を使用したこと、
学生たちを始め、
多くの人たちが虐殺されたこと。

鄧小平と中国共産党指導部は、
してはならないことを、したこと。

成人してから、
少しでも事件の様子が知りたくて、
三条河原町にあった、
メディアショップという、
レンタルビデオ店の中古販売コーナーで、
まんま「天安門」というタイトルの、
ドキュメンタリー映画の、二巻組ビデオテープを購入したが、
この映画の中にも、
天安門広場のあの時を、
はっきりと捕えた映像は存在せず、
映画の中に出てくる、
柴玲や王丹の、
その後を考えると、
暗い気持ちになり、
それ異常、追いかける気もしなくなった。



香港だが、

「小林サッカー」というコメディー映画が好きだった。
映画が公開されたのは、返還後の2001年。
何せ、飛行機が嫌いなので、
海の向こうのことは、
人から聞くか、映画でも観て想像するしかない。
「小林サッカー」は、かなり好きな映画だった。
コメディーが好きということも、もちろんだし、
何と言うか、
太った男が空を飛ぶ場面があったり、
そーゆー、
自分の内にもあるバカな感覚を、
映画を通じて、共有することができた。
どんな近くの海外も、
自分にとっては、
まだ見ぬ黄金の国を夢見るように、
遠かったのだが、
「小林サッカー」を見終わった瞬間、
香港の空気を、胸に吸い込んだ気がしたものだ。

だから、
今の香港の状態が信じられない。
「小林サッカー」の呑気なコメディー感覚を持った、
あの香港が。



周庭さんが、
発信している情報を見るのが、辛く怖い。
何となく見覚えがあるような、
コンクリートの道路の上を、
黒いマスクをした、学生や市民たちが、
香港警察が解禁した殺人兵器より逃げ惑う。
映像で見ると、
その足取りは、生命力に溢れているようだが、
心の内はどれほどの恐怖とパニックだろう。
「逃げろ、逃げてくれ」
としか、考えることができない。
「小林サッカー」が好きでも、
今の香港に在り得たかもしれない自分を、
想像することができない。
唖然と映像を見ているばかりだった。

だから、
真由美さんから送られてきた、
「Glory to the 香港」の歌詞を見て、
考え込んでしまった。

なぜ涙が止まらない 何故怒りに震える
頭上げ沈黙を破り 叫べ自由を求めて
なぜ恐怖は消えない なぜ信じて諦めない
なぜ血を流しても 前に進むの
自由で輝く 香港のため
星も見えない 暗い夜に
遥か向こうから聞こえる つのぶえ
自由のために ここに集え 全力で闘おう
夜明けだ 取り戻せ香港 
みな正義のため 革命を
どうか民主と自由が永遠であれ 
香港に栄光あれ

歌詞の一部、
「なぜ血を流しても」

自分に、ここが歌えるだろうか?
血を流すとは、
どういうことだろう?と、考える。

周庭さんの発信を思い出す。
天安門事件を想像する。

血を流す…
目をやられ、皮膚が避け、肉が弾け、内臓が飛びだし、
激痛に身悶えすることか?
怖い、逃げてくれ。

「みな正義のため 革命を」
革命とは何なのかと、考える。
本当の革命家というものが存在するならば、
恐らく、
愛する人より、共に闘う同志を選ぶだろう。
自分にはそれはできない。
真っ先に家族を思う。
しかし、
香港の皆がやりたいことは、
革命なのだろうか?
自分たちを脅かすものから、
身を守ろうとしているだけでは、
ないのか?
それなら理解できるかも知れない。
自分たちが、
自分として生きる権利そのものが、
脅かされるとき、
怖くて怖くて、仕方なくとも、
闘いの場に行く時が来るのだろうか?
いややはり、
自分なら家に隠れているのではないか?
それとも、
もはや、
普通に歩いているだけで、
香港警察にわずかでも疑われると、
暴力を受ける対象になってしまう、
そのような状況なのだろうか?

自分の心は、
果して香港のあの現場に在るのか?
と、考える。
何度映像を見ても、
(逃げろ、逃げてくれ)
それしか出てこない。

歌詞を勝手に変えてやろうか?
と思う。
「血を流しても」を「傷ついても」
にする。
原曲をYouTubeで見る。
字幕は、
「何解 血在流」
「傷ついても」ではない。
誤魔化しがきかない。

自分は考えることを止めて、
恐る恐る、只歌って見る。
真由美さんの歌いまわしは、独特で、
真似るのは難しい。
このコードで、
なぜこんな風に歌えるのだろう?と思う。
それでも、なぞるように何とか歌ってみる。
最後の方、

「どうか民主と自由が永遠であれ」 

を歌うと、
正直、胸にジーンと来る。
自分の中身は空っぽだ。
歌が身体を通過する。
只のメッセンジャーなのかも知れない。
しかし、
歌ってみることは大事だ。
全く違う性格の歌だが、
宮古島にミサイルいらないよ、
と伝える、
『ニノヨイサッサイ宮古島』を、
初めて歌ったときのことを、
思い出す。



歌う以外の用意をしないまま、
11月21日、
三条河川敷での、
香港連帯スタンディングに参加する。
新聞記事にもなったし、
スピーカー(話し手)となった人達は、
香港、中国、カタルーニャ、メキシコ、台湾、
正に世界各国から、
愚かな大国指導者の意図を乗り越えて、
半ば偶然集まり、
香港を想って話した。
この日が、
いかに奇跡的な集まりだったかは、
友人たちが素晴らしい報告を書き、
広めてくれているので、
詳しくは書かない。
自分自身は集まりの最中、
この奇跡を実感することができず、
家に帰って思い出し、
こんな導きを、
南海子さん以外誰ができるか?
と改めて思い返した。

ひとりのスピーカーが、
中国共産党を糾弾しながら、
「自由と民主主義のために!」
と連呼していた。
その、
直情的なまでの、
たどたどしさから、
ひょっとしたら、
普段インターネットに、
偏った、
反中国思想を書きこんだりしてるのかも知れない、
と想像する。
何でも良い、
つながるきっかけがあるのなら、
まずは友達になりたい、と思う。
自分だってもはや、
ポップアートの素材みたいな、
習近平の顔を見ても、
笑うことができないのだ。

皆で「Glory to the 香港」を歌う。
理工大学に閉じ込められている、
学生たちのことを考える。
学生たちを救助する現場にいた(!)という、
スピーカーの男性が、
危険な救助に、
10代の中高生の姿もあったと、
泣きながら伝えていた。
何と言うことか。
もはや、そうでもしなければ仕方がない、
極限状況なのか。

極限状況では、
歌が人と人をつなげ、
かすかな勇気を、胸に灯すのかも知れない。
ひょっとしたら、
「この人となら、死んでもよい」
と、思ったりするのかも知れない。
だが、そんな考えは、
この連帯スタンディングが終わった後に、
同じく、
香港の友人より状況を聞いたという、
ひとりのスピーカーが、
たまたま隣にいた自分に伝えた、
香港警察による女性への性暴力の話により、
絶望的に打ち砕かれる。
別の考えが思い浮かぶ。
無法地帯という、
暴力を自分の中で容認できてしまう環境の中では、
またしても、自分は加害者になってしまうことも、
あるのではないか?と。

人間の中身を変えてしまうものは、
一体、何なのだろう?
香港警察は、
かつての人民解放軍のように、
暴力組織としての自分たちを解放してしまった。
習近平は、
一体どんな指令を出したのだろう?
中国から来たスピーカーは、
中国に住む人間の大部分は香港を救いたいと、
思っている。
だが、
それを言うことは許されない状況だと言っていた。
彼は、京都の三条河原なのに、
その場で黒マスクを着用した。
(中国では、顔認証システムが個人に網を張っているのだ)



とにかく、歌った。
皆と歌った。
「Glory to the 香港」
それしかなかった。
歌の導きが無ければ、
あの場にいなかったかも知れない。
歌と、自分との距離がわからないまま歌う。
どんな歌声になっていたのだろう?

家に帰ってからも、
何度も、歌う。
一回歌うごとに、
自分が少しずつ変化するのを感じる。
街で歌う必要があるな、と思う。

先に書いたように、
例え、
自分の中身は空っぽでも、
香港のことを伝える、
メッセンジャーとしての義務は、
アジアに住んでる人間として、
自分にある。
(自分たちにと考えたら、少し気が楽だ)
自分の心は香港のあの現場に在るのか?
何度も、自問自答する。
やはり、わからない。
わからないまま歌う。

その歌声がどう聞こえるのか、
自分にはわからない。

https://www.youtube.com/watch?v=D_rZ01tkUdc&t=10s