たろうの音楽日記

日々の音楽活動に関する覚え書きです。

ド不幸自伝② ~モアイという男~

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その男のことを、
‘モアイ’
と、呼ぶことにする。

モアイと工場内で、
初めて出会ったとき、
彼の顎周りの骨格が、
非常に、
しっかりとしていて、
なおかつ面長なのが、
まるで、
イースター島のモアイ像のように、
見えたからだ。
(悪い感じは、しなかった)

大体、
発表するつもりの文章に、
本名を、使うわけにもいかない。
それに、
モアイの本名を、
パソコンのキーボードで打ち込み、
見るたびに思い出すことに、耐えられない。
自分は、
モアイに酷い目に合わされたのだ。
そもそも、
モアイが最後に使っていたのが、
彼の本当の名前だという保証は、
どこにもない。

あのような、
喋り方をする男に出会ったのは、
初めてだった。

ベタな例えをすれば、
アクの強い、関西弁を使用する、
吉本興業
‘しゃべくりが旨い’
タイプの、
芸人のような感じだ。
彼の一言一言には、奇妙な吸引力があった。
互いの自己紹介をしたとき、
モアイは私に、

「大阪で宝石商の仕事をしとったけど、今は休職中」

と、言った。
自分は当時、
1から10まで、
嘘をつく人間というものが、存在することを、
まだ、知らなかったのだ。

工場に勤めてから、
1年も経つと、
自分の身の周りの人間関係も、
出来あがってきていた。
昼休み、
一時間の休憩時間、
派遣会社の人間たち同士、
機械音が鳴り響く食堂で、
油臭い、仕出し弁当を食べていた。

正社員と派遣社員の間には、
やはり、一定の距離があった。
正社員が派遣社員を見下しているとは、
特に思えず、
(あるいは、気付いていなかったのか)
『所詮、別会社だから』
と、いう単純な理由で食堂のテーブルも、
それぞれに、何となく分かれている、
くらいの感じだった。

派遣会社は、
自分の所属していた社だけでなく、
もうひとつあり、
そちらは、明らかに、
「ランクの低い」仕事に当てられていた。
ロッカーでの着替えのとき、
‘そちら’の、彼らは重油で黒く汚れた作業着を、
脱ぎ去る。
そのたびに、刺青の入った浅黒い肌が、
蛍光灯の光をぎらりと弾く。
見るたびに、
自分は、暗い気持ちになった。

一方、
自分の所属していた方の、
派遣会社には、
同年代の若者が多かった。
入社(単なる登録)理由を、
彼らに尋ねてみると、
「何となく」「雑誌で見て」「親に怒られて」「就職できなかった」「役者志望の劇団員」
…etcと、いったトコロだった。
90年代半ば、
不景気への危機感が、
当事者にも、まだなかった。

湯浅誠さんが岩波新書から『反貧困』を出版したのは、2008年のこと』)

グループをほぼ20代が占めてる中、
モアイの存在は、珍しかった。
彼だけが、40近い
‘オッサン’。
ゆえに、話すコトからは、
酸いも甘いも、味わってきたような
人生経験の豊富さがあるように、
若者たちは、錯覚する。
いつの間にか、
モアイが中心にいて、自分も含めた若者たちが、
彼を取り囲む形になった。

若者のひとりは、
モアイのことを

島田紳助みたい」と言う。

もうひとりの若者は、

松本人志みたい」と言う。

するとモアイは、
彼が、吉本興業に所属している芸人と、
友人関係にあるという話を、
するのだった。
その中には、
今では故人となってしまった、
関西圏では誰もが知る、
大物芸人の名も上がった。

「アイツとは、よう祇園で遊んでいたけど、今の姿からは、
 考えらんくらい、小心者やった」

「宴会のとき、アイツの目の前で裸になったら、
 『オマエみたいな奴は、貴重な人間やから、オレらと一緒に、お笑いやれ』と言われた」

…このようなモアイの話を、
自分たち若僧は、目を丸くして聞いていたのだ。

次第に、
モアイと、会社以外の場でも、
遊ぶようになった。
派遣会社グループの若者たちは、
焼けつくようなストレスを、抱えていたし、
刺激を求めていた。
高いアルバイト代も、
馬鹿馬鹿しい、欲求不満の解消へと、
消えていく。
ひとつは、酒と食欲だ。
グループで酒に強いのは、
自分と、モアイのみだったが、
皆、飲めなくとも、
仕事の帰り、
居酒屋や、焼き肉屋に入り浸り、
安物のビールと、
色のついた、
甘ったるいチューハイを、
ガブ飲みする。

とにかく、
モアイは自分の人生の中で、
‘新しい人間’だった。
彼は、酒の席で(いや酒の席でなくとも)
必ず、在日コリアンのことを、
こちらの耳を潰したくなるような言葉で、
罵った。
使用してはならない言葉の連続に、
自分は、

「どこの国だろうが、良いヤツ悪いヤツはいるやろ?」

と、素朴に応対したのだが、
モアイは、
「なら、一度アイツらと…」
さらに救いようのない言葉を、浴びせる。
自分が、
世間知らずだったのかも、しれないが、
当時、
差別感情の存在は、
道端の石の下側の湿った場所に、
あるように感じていた。
まだ、
ヘイト・スピーチという存在は、表に出ていない。
モアイが石の下から、
引っ張りだしてきた、ヘイトには、
呆然とするしかなかったし、
モアイのような考えの人間がいることが、
不思議で仕方なかった。

なぜ、そのような人間との付き合いを、
辞めなかったのか?
それが、わからない。

とにかく、何でも良いから、
自分は、アテにする存在が欲しかったのだろうか?
モアイと出会ったとき、
父が、すでに死んでいた。
手遅れの癌に犯されていた父が、死んだ日は、
英国で、あの可哀そうなダイアナが、
好奇の目に応える、パパラッチたちの目により、
高速道路で殺された、
1997年の8月30日だったので、
よく覚えている。

21歳で、父を失うというのは、
中途半端だった。
気持ちに踏ん張りを効かせたら、
父の存在など、
特に指針にすることもなく、
人生を、
切り開いていける年齢にも思えるが、
今にして思えば、
ただの子どもだ。

「寄り添う物が、欲しかった」

と、いうわけではない。
しかし、
強烈な個性の、年上男性を見ると、
虫が、電気の光に、
吸い寄せられるかのごとく、
ただ、本能的にそこに向かってしまう。
数字の上では、
成人しているとはいえ、
理由のない本能を疑うほど、
自分の心を、客観的に見つめることができる、
年齢ではなかった。

不幸中の幸いというのか、
両親が、
喫茶店経営の失敗で抱えた借金は、
父親名義によるものだったので、
父の死と共に、
相続放棄し、支払いの義務はなくなった。
それでも、
元妹の学費は稼がねばならず、
家に主要な働き手がいないことにも、変わりなく、
何より、
毎日毎日、兵器を作り続けているという灰色の事実が、
自分の心を、少しもラクにさせなかった。

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政権は、
相変わらず、橋本内閣だった。
当時自分は、借金を返すことのみを、
目標に生きていたので、
広く社会に向ける目など、持っていなかった。
だから、橋本内閣の仕事など覚えておらず、
ただ何となく、
鈍重な、安定感のようなものがあったのを、
単に感覚だけで、覚えている。
‘ポマード頭’などと、
くだらない指摘をよくされていた、
橋本龍太郎より、
その前、村山内閣の退陣と共に、
アッという間に、
社会党が崩壊してしまったインパクトの方が、
よほど強かった。
自分は、社会党のことなど、
よく知らなかったし、
村山内閣が、
自社連立政権であることも、
ちゃんと、理解していなかった。
それでも、
社会党という、
巨大野党の党首が、
内閣総理大臣の職についたのは、
人生で、初めてのことだった。

(細川内閣の時は、自分はモノを知らない高校生だった上、内閣の存在がアヤフヤだった)

それが、
何も変化を起こせず、
「売党村山」と、言われながら退陣し、
結局、
いつの間にか、変わり映えのしない、
自民党政権に落ち着いている。
自分が政治に対して、
何処か、二ヒルになってしまったのは、
この辺りが、
結構、原体験になっている気がする。

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モアイとの付き合いが、
本格化するのは、
工場での話ではない。
モアイは、
意外にアッサリと、工場を辞めた。
派遣会社の人事担当の人に
尋ねると、
「お母さんが危篤」
と、いうことらしかった。
(それなら仕方がない)
自分は、
これから、仲良くなるところだったのに、
モアイはずいぶん水くさいな、
と、思った。
モアイに限らずとも、
派遣仲間で、
長く工場の仕事を続ける人間は、
余りおらず、
グループにいる人間の回転も早かった。
自分は、
この兵器工場で、
3年半、
1999年の半ばまで、
働くことになるのだが、
辞めるころには、
周りの顔ぶれが、入社当初とすっかり変わっていた。

モアイから、
再び連絡があったのは、
年も明けた、
1998年の冬のことだった。
多くの人に、
携帯電話が普及し、
個人個人で連絡を取り合うことが、
以前よりも、ずっと容易になっていた。
自分もこの頃に購入し、
そのうち10ケタだった、
電話番号も11ケタに増えることになる。

京都一の繁華街、
河原町の居酒屋で、
モアイを囲む、
『工場同窓会』が、行われた。
自分は、
「お母さんは、どうなったん?」
と、モアイに尋ねた。
「悪い嘘やないやろ」
と、モアイは答えた。

モアイが言うには、
「これから事業をやろう」
と、いうことだった。
木屋町に借りれる見込みの物件を見つけた、
そこで、
タイ焼き、焼きそば、タコ焼き、
粉ものを出す店をやろう、
酒も出して、
客を呼ぼう、
店員が必要やから、
おまえらやらへんか’

…モアイは、
その口の旨さで、
工場にいた時から、
若者たちに、
「組んで仕事をしよう」
と、持ちかけていた。
将来が見えてるものなど、
誰もいなかったから、
皆が、この話に飛びついた。
ただ、自分だけが、
未だに工場に勤めていたので、
参加はせず、
数ヵ月後、
本当に開店した粉もの屋は、
仕事帰りに遊びに行く、
絶好のストレス解消の場となった。

工場→河原町→自宅
の、トライアングルが生活習慣となる。

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山一証券が廃業したのは、この頃だった。
自分は、未だに証券会社というものが、
何なのかわからない。
だが、
山一証券
と、いう
赤い看板文字は、
事業の中身がわからなくとも、
無機質なビルディングの中に、
あたり前の風景として、存在していたものであり、
それが、無くなるということで、
何となく、
今まで信じて疑わなかった、
国の経済基盤が、
普通のものではなかったのだ、
という実感が、
初めて湧いた。

今でも、語り草となっている、
当時の野澤正平社長の涙とともに、
モアイに飲み込まれていく、
自分の生活も、
ガラガラと音を立てて崩れていくのだった。

*この自伝は、事実を元にして書いていますが、あくまでフィクションです*

つづく→