ド不幸自伝⑫ ~精神病棟見学記⑵~
≪前回までのあらすじ≫
:20代前半。両親の借金のため、兵器工場で、働くことになった自分は‘モアイ’像によく似た男と、知り合いになった。自分はモアイと、頽廃的な遊戯を繰り返した果てに、消費者金融でモアイのために金を借り入れる。モアイは逃走し、ショックとストレスから精神を破綻した自分は、京都市北部の精神病院へ通うことになる:
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先程の、
コンクリートの墓場が地獄なら、
デイケアは天国的な場所にすら見えた。
遠藤医師が何と言ったのかは、
覚えていないが、
彼は、実に面白くなさそうな顔で、
自分をデイケアの職員に引き渡した。
自分を受け取った、デイケアの職員は、
薄いピンク色の、動きやすい服装を、
ピシリと身にまとった、
20代後半くらいの若い女性。
失礼だが、
名札の「北条」の文字を覚えてしまった。
当時流行していた、
ショート・ボブとでも言うのだろうか?
髪型の名前が、
自分にわかるはずもなかったが、
切っただけのような、無頓着さ。
とにかく、
全体の印象が小ざっぱりして、
俊敏に動く人だった。
(結局、会ったのはこの一日だけだったが)
「久しぶりの、人間や」そんな気がした。
彼女が、何と言って自分を迎えたのか、
覚えていない。
病棟から流れてきた、
突然の、
新たな利用者である自分を見て、
少々は戸惑ったのかもしれないが、
彼女に排他的な雰囲気は、少しもなかった。
とにかく、丁寧に対応してくれたことだけ、
覚えている。
病棟と違って、
デイケア施設の窓は大きく、
温かな光が、
フローリングの床に反射している。
広い空間の一角には
喫茶スペース、
それに、
やわらかい椅子が並んだ、休憩スペースもある。
窓を開けると、
青い芝生が敷き詰められた中庭に、
すぐ出られるようになっている。
これなら、
簡単に『脱走』することができる…。
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確か自分は、
中庭にしゃがんで、
スコップ片手に、
土をプランターに入れる作業をしていた。
何故、土をいじる作業をしていたのだろう?
思い出した。
「花壇作り」の課題だ。
デイケアには、タイムスケジュールがあり、
利用者は、何らかの課題を選択して、
時間を消化する。
そして、
夕方に帰宅することになっている。
自分は、土に触れたかったのだ。
少しでも、有機物に触れることが、
改善のひとつだと本能的に感じていた。
土。
土が、冷たい。
7,8人ほど利用者が、
コーラス・グループを作って、
合唱曲を歌っているのが聞こえてくる。
これもデイケアの課題だ。
曲は、
『翼をください』
すぐ傍で歌っているのに、
まるで、はるか遠くから聞こえてくるかのようだ。
その歌声は、
利用者たちが、
デイケアにいる現状に、
満足しているわけではなく、
いずれは、
この場所から飛び立ちたいと、願っている風に聞こえる。
考えてみれば、曲が
『翼をください』というのは、
少し、当てはまり過ぎている。
ひょっとしたら、後付けの記憶かもしれない。
だが、悲しげな声であることだけは、
記憶違いではない。
歌、ラジオ体操、ゲーム…。
課題をこなしている、
利用者を見て、
自分もとにかく、何かに没頭したい、
何かに集中して、
少しでも、
我を忘れる瞬間がやって来て欲しい、
不安と恐怖への強い自覚から、逃れたい。
そういう風に思った。
もう一度、土の冷たさを感じてみる。
気持ちの良い感触。それでも、心は晴れない。
また土を掬う。
すぐ傍に積まれた、球根を植えてみる。
「これで良いですか?」
と、北条さんに尋ねる。
「あ、いいですよ」
北条さんは、戸惑い半分にそう答える。
イヤ、本気で戸惑っているわけでは、なさそうだ。
きっと、
受け答えの際の、彼女のクセだろう。
(自分は、動ける)
そう自身に言い聞かす。
あの蛾のような、老患者たちには申し訳ないが、
入院病棟に戻るのは、恐ろしい。
デイケアの利用者は、
ずっと、同じプログラムを続けるのではなく、
一時間立てば、
休憩を挟んで、別の作業に従事する。
まるで、仕事か学校のようだ。
壁に貼られている、スケジュール表を見ると、
「喫茶係」というのがあった。
読んで字の如く、喫茶スペースで、
作業に従事する係のようだった。
「喫茶係やってみます」
自分は、北条さんに提言した。
「大丈夫ですか?ムリしないで下さいね」
と、彼女は答えた。
「アルバイトをしてたんです」
自分が言うアルバイトとは、モアイの粉物屋のことだった。
自分はモアイにカネを吸い取られながら、
面白がって、
粉物屋のカウンターに侵入し、
作業をしていたこともある。
「オッ、それは頼もしい」
と、北条さんは言った。
だが実際のところ、動ける自信はない。
喫茶係は、
自分と利用者の女性二人が、担当することになった。
それに、北条さんも加わる。
皆で、揃いの三角巾をつける。
(自分は、デイケアの方が向いている)
心に言い聞かす。
客がいなかったのは、
開店して10分の間だけであった。
時間は11時過ぎ、
丁度ランチタイムに突入する頃である。
喫茶スペースに来るのは、
院内の人間だけでなく、
外部からの、
医療機器メーカーか何なのか、営業マンらしき、
黒スーツ姿の男性数人の姿もあった。
自分は、コップに氷を入れる作業に従事していた。
ただ、氷を掬っているだけなのに、息が切れる。
だが、それを悟られるわけにはいかない。
様子を見ていると、
まともに動けるのは、
北条さんのみで、
ふたりの女性は、表情に生気がなく、
客の注文を、マトモに取ることすら、
ままならないようだった。
黒スーツの男たちは、
そんな彼女たちにも、容赦なくイライラした態度を示す。
北条さんも、
フォローが出来たり、出来なかったりだ。
(いつも、こんな感じなのか?)
まるで成り立っていないのが、不思議だった。
自分は、ひたすら氷とジュースを入れる。
呼吸が荒くなる。
(考えが、甘かった)
ハアハアゼエゼエと、息切れの音が漏れる。
動悸がする。恐ろしい。
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「忙しかったですねエ!」
と、北条さんは三角巾をはずして、自分に言った。
答える気力はない。
(今日は、特別ということなのか?)
状況を、理解しようとした。
今にして思えば、
単に、健常な人間からすれば、
どうということにない、労働なのだろう。
落胆したのは、
「喫茶係」の課題が終わっても、
それに課題の最中であっても、
胸の中にある不安が、少しも抜け落ちないことだった。
(一体、何をどうすれば、この胸のうちの『毒』は、俺からおさらばしてくれるのだ!)
その時、
背後から急に、
誰かが自分に話しかけてきた。
「自分、初めての人やなア~」
聞いたことのない、声だった。
振り向いて、その人物の顔を見てみた。
特別な人物ではない。
ただのデイケアの利用者、ただの男だ。
「ハイ」
とでも、自分は答えたのだろうか?
男の顔は、マヒしているのか、
ひどく引きつっていた。
それが、はにかんだような笑顔であることは、わかった。
「オレなんか、ここに入ってもう12年やああ」
そう言って、
男はさらに顔面をくしゃくしゃにして、笑った。
その瞬間だった。
「おわああああ!」
-と、叫んだのは、自分だった。
デイケアの空気が凍りついた。
自分は、とっさに北条さんの手を握った。
「先生を、呼んで下さい!」
そう叫んだ。
「どうしたんです!?」
と、北条さんは言った。
「今の人が、今の人が怖いんです!」
自分は、話しかけてきた男のことを、そう言った。
ひどいことを、口走ったのものだ。
自分は、
この場所でただのひとりも友人を作り、
住み着きたくなかったのだ。
だから、
「ここに入って、もう12年」
この言葉が耳に入ったとき、
恐怖が、瞬間的に増幅した。
体は急速に冷え、全身が震えて動けない。
「どうして、気さくな人なのに?」北条さんは言った。
自分は、怖々男の顔をチラリと見た。
その顔は、今でも記憶に残っている。
写真のように固定された、顔。
その無表情が、
悲しみなのか、戸惑いなのか、驚愕なのか、わかりようもない。
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5分も経たないうちに、
遠藤医師がやってきた。
彼は、震えて動けずにいる自分を見下ろし、
「私も、5、60人からの患者を抱えてまして…」
と、最早はっきりと、露骨な嫌悪の態度を示した。
「もう良いんです!」自分は言った。
「何が良いんです?」遠藤医師は言った。
「良いんです!」
自分は、
北条さんの手を離し、遠藤医師からも遠ざかり、
窓を開け、庭へと出て、
そのまま脱走した。
おそらく、
話しかけてきた男も、
北条さんも、
デイケアの利用者も、
遠藤医師も、
皆が、自分を見ていただろう。
絶望の塊のような気分だった。
恐怖の球体と化した自分が、
道を転がっていた。
どうやって帰ったのだろう?
何故無事に、抜け出れたのだろう?
治療代は、支払ったのだろうか?
全く覚えていない。
だが、現に生きている自分がここにいて、
こうして文字を打っているのだから、
無事だったことには、間違いない。
だが、しかし、だ。
今、気づいたことがある。
自分は、
この時、治りはじめていたのだ。
治ったのは、
もっと後のことだと思っていた。
違う。好転はもう始まっていたのだ。
逃げた。自分は逃げた。
とにかく走って逃げた。
実際には、
息も絶え絶えの精神病患者が、
走れたはずもないだろう。
だが、心は走っていた。
抜け出した方法は、覚えていなくても、
目に映った景色は、覚えている。
病棟の灰色が溶け、足元の芝生の青緑が流れた。
温かい、春。
青緑は、流れる。
どんどん、スピードを上げて流れる。
足裏が、非力に地面を弾く。
靴越しの、その感触も覚えている。
抵抗した。
土を蹴った。
黄色いタンポポが点在していた。
蹴った。どんどん蹴った。
逃げろ。ここから逃げろと。
逃げるのだ、と。
自分は、治ろうとしていたのだ。
つづく→
*この自伝は、事実を元にして書いていますが、あくまでフィクションです*