京都市長選2020の感想~市民の終わり~
2020年の、
京都市長選挙とは、
一体何だったんだろう?
と、考える。
自分が、
あの市長選挙に、
今までに無く関心を持ったのは、
他愛もない理由で、
地元伏見区の投票率が、伝統的に非常に悪く、
選挙の足を引っ張っているという、
悪評を聞いてのことだった。
たまたま、
今回の市長選挙は、
力を入れて応援できる候補者がおり、
自分は週に一度、近所の大手筋商店街に出て、
ウクレレを演奏し、
歌を歌いながら、
候補者の存在をやんわりとアピールした。
仲間に募集をかけ、
集まってもらい、
ポスターやプラカードでの政策宣伝に、
協力してもらった。
もちろん、
こんなことくらいで、
伏見区の投票率が向上するわけもなく、
自分がせいぜい、小さな火花ほどの、
発火点になればと思っていた。
*
わかっては、いたのだが、
公示を前後に、
選挙の様相は変わってきた。
例えば、こんなことがあった。
選挙中、
自分はインターネットもよく利用しており、
面白半分で、
今回の選挙の、
政党事情のひとつを象徴するような写真を、
SNSに投稿してみた。
それは、ホントにどうでも良いような写真だった。
ところが、
投稿と同時に、
その写真が、
いわゆる拡散をされて行き、
さまざまな人たちが、
あーでもない、
こーでもない、
と好き勝手に批評を始める始末だった。
「一体どんな写真だったのか?」
と、問われても、
説明をする必要は全くないと思う。
強いて言うなら、
この広い広い京都市の、
誰も目につかないような一角を、
切り取った風景写真だ。
(なるほどコレは、ネッシーの写真みたいなものだ)
と、自分は思った。
インチキなおもちゃかも知れない、
岩の影かも知れない、
動物の尻尾かも知れない。
ひっくり返った船かも知れない、
人々は、
実際は存在していないものに、
過剰な自意識を投影し、
自らに興奮剤を注射する。
面白半分でネットを利用した、
自分の責任なのだが、
政党事情のひとつを象徴するような写真、
というのは、
非常にタチが良くなかった。
自分がそれを、
SNSに投稿したのは、
イタズラ心がほとんどだったので、
ネット用語での「釣れた」ということになる。
後からも書くが、
これほど「市民」という単語が、
出鱈目に、
使用されまくった選挙はなかったのに、
インターネットを好む人々の間では、
政党事情が全然、
どうでも良くなっていないのだ。
原因は、
とっくに成立しなくなっている、
安倍内閣打倒のための「野党共闘」だった。
もう長い。
安保関連法の成立からずっと、
「野党共闘」というワードは、
幕末の尊王攘夷並の、
強烈なイデオロギー、
キャッチコピーとなり、
人々から思考を奪い去っている。
野党共闘を邪魔するものは、
切り捨て御免。
当然の如く、
野党共闘の4文字は、
一部ネットウォッチャーの、
好奇心と憎悪を、
多いに刺激することになる。
自己顕示欲と権力欲の固まりみたいな、
自称選挙評論家、
自称ジャーナリストが、
これに目をつけないはずはない。
昔の写真週刊誌と同じで、
選挙ポスターを映しただけ、
政党の有力者が映っているだけの、
どうとでも解釈できるインチキ写真に、
扇動する類のコメントや記事を加えれば、
ネットウォッチャーは、
穴の開いたチーズに食らいつく鼠の如く、
罠に向かって一直線。
仕掛ける側は、
増幅してゆく、
「いいね」や「リツイート」に、
自らが影響力のある人間だと錯覚し、
麻薬のような快感に溺れる。
ホリエモンや立花孝志といった人間は、
こういった仕組みをよく理解し、
金銭を稼いでいるのだと思う。
*
ここで、
今まで書いたことを、
一度全部忘れて欲しい。
(無意味なので)
話を身辺に戻すと、
兎にも角にも、
自分はこの辺りから、
選挙ムードに着いて行けなくなった。
毎回のことだし、
選挙とはそういうものなのだが、
街宣カーのアナウンスはうるさく、
街に緊張感とキナ臭い雰囲気が充満してくる。
苦手だ。
情熱と関心が薄らいで行く。
それでも、
自分が応援していた福山候補は、
傑出しており、
彼の陣営が言う「99%の市民」とか、
自分にはよく理解できない概念について、
「市民というのは彼の中で『庶民』のイメージ」と
説明した。
そういうことなら、我が意を得たりだった。
選挙期間中での変化を、
アウトプットするこの候補は、
空気に気押されていた自分を、
刺激してくれたのだ。
*
しかし、
決定的に最悪だったのは、
ニュースにもなった、
「独善的」「共産党の市長はNO」
等書かれた、
現職側の反共ヘイト新聞広告だった。
あれで、
現職側は、
自分たちの精神が、
汚染されたものであることを、
世間に向かって正直に告白してしまった。
こうなると、泥試合だ。
対立候補側は、
市民のための市長がYES…云々、
ほとんど虚構に近い、
アンサー広告を出した。
(せざるを得なかったのだろう)
毎日の出勤前、コンビニに立ち寄り、
パラパラと新聞をめくっている、
自分には、
どちらがどちらの陣営の広告なのか、
もはや区別がつかない。
(実際、新聞の現物も古紙回収に出してしまったから、
キャッチコピーの文面も、正確に覚えていない)
果たして、
どういう裏事情とカラクリで、
広告合戦のキャッチコピーが決定されているのか、
それはもう、
遥か雲の上の世界だった。
はっきりしたのは、
せっかく候補者自らが、
解きほぐしかけていた、
「市民」という、
得体の知れない概念が、
反共ヘイト広告によって、
高らかに復活してしまったことだ。
*
お気づきの方も多いと思うが、
言ってしまうと、
市民など、最初から存在しない。
特定の候補者の間近にいる人たちが市民だというなら、
自分は、絶対に市民ではない。
今回の選挙で、
「市民」というワードは、
幕末の尊王攘夷並の、
強烈なイデオロギー、
キャッチコピーとなり、
人々から思考を奪い去った。
自民党員、創価学会員、その他政党、自分のような庶民は、
市民に非ず、
切り捨て御免。
切り捨て御免?
いや違う。こちらから逃げ去って行く。
ならばいっそ、
「市民党」という新しい政党を作れば、
全てすっきりするのだ。
(こうなれば「市民」とは、ネッシーみたいなものだ)
と、自分は思う。
インチキなおもちゃかも知れない、
岩の影かも知れない、
動物の尻尾かも知れない。
ひっくり返った船かも知れない、
人々は、
実際は存在していないものに、
過剰な自意識を投影し、
自らに興奮剤を注射する。
一体、私たちは何を見てるのだろう!
*
投票日も間近な頃、三条河原町で、
著名な山本太郎を迎えた、
大層な街宣があった。
その日は確か、
ムスメの保育園の行事に参加していた日だと、記憶する。
ネットニュースで見た三条河原町には、
京都市周辺から絞り出した、
ほんのわずかの支持者が集まっていた。
自分は、
大多数の庶民と同じく、
はや選挙のカヤの外、フツーに家で過ごしていた。
友情以内の範囲でしか、
選挙活動に参加することは、なくなっていた。
*
立憲民主党、社民党に裏切られた!
ガッカリだ!
と、共産寄りの人間が、
原因を考えようともせず、
言いがかりに近い呪詛の念を漏らすのは、
「野党共闘」「市民」以前に、
京都の選挙の名物みたいなものなので、
別にかまわない。
むしろ、
毎回繰り返されるコレが無いことには、
選挙に入ったという気がしないし、
次の市長選挙でも、
必ず起こる現象だ。
(他府県市の方にはピンと来ないかも知れないが、
京都市は民主党がその本質を、隠さず示してくれる、
貴重な場所なのだ)
だが、
今後も「市民」というキャッチコピーが、
この京都で継続されていくのかと思うと、
自分は心底ウンザリする。
恐ろしい閉塞感を覚える。
この言葉を使ってはダメだから、
新しい言葉を探すという問題ではない。
こうなれば救いはもう、愛しかないように思う。
お手軽な愛ではなく、
感情や気分から来る愛ではなく、
根本思想としての愛。
胸に愛を秘めて、
エゴを削り落す作業を可能な限り継続し、
世界を見つめることが、
この困難な時代、
最も重要な行為なのだ。
*
選挙は、結果が出た。
大きく向上した投票率は40%、
庶民のうちの60%は、
3候補の誰が市長になっても良かったのだ。
*
『♪戦争と選挙はやめてくれ』作詞作曲:たろう
目を覆いたくなるデマ合戦
ネットの言葉は汚くなるし
目立ちたがり屋は出てくるわ
世の中変える主人公気取り
いつの間にやら なりたくもない
相手と同じ顔になっちゃった
戦争と選挙はやめてくれ
戦争と選挙はやめてくれ
戦争と選挙はやめてくれ
だけどやるしかありません
だけどやることありません
自民党にはイヤ気がさしてるし
社会党には腹が立つ
共産党には何故か説教されて
結局はアメリカの所為なのか?
いつの間にやら なりたくもない
あんたと同じ顔になっちゃった
戦争と選挙はやめてくれ
戦争と選挙はやめてくれ
戦争と選挙はやめてくれ
だけどやるっきゃありません
せめて寄付くらいしてみようか
だけどお金もありません
ララララ ラララララ…