たろうの音楽日記

日々の音楽活動に関する覚え書きです。

天安門事件

一年前の今日、SNSに投稿した文章です。
今でも基本的な考えは変化していないので、
ブログに転載します↓




天安門事件は、76年生まれの私にも心的外傷です。

中学生のとき、
久米宏が出演しているテレビのニュース映像で、
学生たちが制作したであろう、
洗練されてるとは言えない造形の
‘民主の女神像’
が、破壊されたときには、悲劇性を感じたものです。

長らくそこに飾られるものと、思っていましたから。

民主の女神像の下で、
鄧小平と人民解放軍はどのようにして、
一般庶民を殺したのか、テレビのニュースが全てだったその時代にはわかりませんでしたし、今でもわかりません。

成人してから、
三条河原町にあったメディアショップという、レンタルビデオ店の中古販売コーナーで、
二巻組の映画「天安門」のテープを購入しましたが、
それを見ても天安門事件が一体何なのかは、よくわかりませんでした。

段々と理解していったのは、
国家の指導者の冷静な頭脳は、放っておくと何をしでかすかわからないということ。

(シリアへの空中からの虐殺作戦を、自国の軍隊に指示しながら、日本の通り魔殺人事件に哀悼の意を表明する、ドナルドのように)

そして、
たまたまそこにいた美しい若者を、危険を伴う反体制のアイコンに仕立て上げておき、
影で、それをずるく自分勝手に応援したり、熱狂したりする人間が存在すること。

インターネットのいい加減な情報で、 柴玲や王丹の人生が、その後どうなったのか知ろうとは思いません。

ですが、天安門事件以来、政治運動の中で胸を打つ英雄が出てくるたびに、「よしなさいよ」としか言えない、臆病な人間に私はなったのです。