たろうの音楽日記

日々の音楽活動に関する覚え書きです。

ド不幸自伝⑩ ~不幸とは何か?~

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≪前回までのあらすじ≫

:20代前半。両親の借金のため、兵器工場で、働くことになった自分は‘モアイ’像によく似た男と、知り合いになった。自分はモアイと、頽廃的な遊戯を繰り返した果てに、消費者金融でモアイのために金を借り入れる。モアイは逃走し、ショックとストレスから精神を破綻した自分は、京都市北部の精神病院へ通うことになる。苦痛を抱え、精神科の待ち合い場所に腰かけていると、真横に見知らぬ男がいた:

***************************************

いくら肌寒い病院内とはいえ、
春は春だ。
なのにその男は、完全に冬服だった。
あずき色のロングコート。
自分は、コートの厚みと重みを、
すぐに捕えることができた。
なぜならそれは偶然、
自分が持っているのと、
全く同じコートだったからだ。
コートから出ている、
男の手と顔の部分は、
そこだけがまるで、
モノクロ写真のように見えた。
生命感というものが、ない。

男はいきなり、
両手で頭を抱えて、
雑に伸びた髪の毛を、
激しく爪で引っ掻きはじめた。
傍の灰皿が、
ガタガタと音を立てて、揺れた。
自分は、思わず男の動きにつられて、
自身の髪の毛を、爪で引っ掻いた。

「ウウッ、ウ~」

男は、うめき声を上げた。
自分は、男のうごめく髪の毛を見つめた。
年齢は、おそらく自分と同じくらいだろう。
人とは思えない気がした。
こういう所へ来る人間には、
何処か、似たところでもあるのだろうか?

(こいつは、苦しいのか?)自分は思った。

***************************************

苦しい苦しいと無闇やたらに書いているが、
この時期の自分の苦しさが、
どういうものだったのかを、
説明する必要があるだろう。

一言で言うならば、

「殺される」

と、いう恐怖だ。
そもそもは、
モアイに追い詰められていたとき、
街中の牛丼店で、
内面に湧きあがった大きな恐怖が、コトの始まりだった。
やがて、恐怖が時を選ばず発生しはじめ、
恐怖を感じないときが、無くなってしまった、
という所までは、説明した。
加えて、
今度はその恐怖から逃れるために、
いっそ命を絶とうとする、もうひとりの自分が、
自分の中に発生したのだった。
元々の自分は、
自殺を考えたことなど、一度もない。
むしろ生への執着が激しい方で、
常に「死にたくない」と思っている。
だから、命を絶とうとするもうひとりの自分は、
自分の内面に巣食っていながらも、
自分の全く知らない誰かのようだ。

「おれが、おれに殺される」

死にたくない。
だが追手は、
自分の胸の内にいる奴だから、逃げようがない。
24時間、殺し屋が自分に向かって、
銃口を向け、引き金に指を当てている。
隙あらば、自分の体を崖下にでも投げ飛ばし、
存在を消しにかかろうとする。
だから、
どこに留まっているのも、
どこを歩くのも、
電車に乗って移動するのも、
人混みの中にいるのも、
ひとりでいるのも、
広い場所にいるのも、
狭いところにいるのも、
怖かったし、
薬の効果が無いことを、
延々と恨み続けていた。
簡単に説明すると、そういう事である。

***************************************

(おまえも、苦しいのか?)

自分は、
髪の毛を引っ掻き続けている男に、
心で問いかける。

(おまえは、苦しいのか?殺されかけている、今のおれと、どちらが苦しいのだ?)

「ウウッ、ウ~」

男は相変わらず、うめき声を上げている。
客観的に見ると、
自分は動きひとつなく、
オレンジ色の長椅子に腰かけて、
男を見つめているだけだ。
のたうちまわっている男に比べれば、
全く苦しそうには、見えない。
上には、上がいる。
不幸の上には、
さらなる不幸が存在するのだろうか?
この後、
順番に診察室へと呼ばれ、
治療を受ける自分と男は、
挨拶も交わさず、
待合室で会ったのも、これきりだったので、
男がどのような運命を辿ったのか、
自分は知らない。
生きながらえたのか?
死んだのか?
それがわからぬのだから当時の自分と、
記憶の男を振り返って、
どちらが不幸だったのかを測ることは、できない。
だが果たして、
そのように、不幸の背くらべを試みることに、
意味があるのだろうか?
おそらく、ない。
なぜなら、
不幸はいつでも、
偶然の力で、適当にピックアップされた人間へと、
並列に割り当てられるものだから。

仮に記憶の男が、
その後死んだのだとしたら、
自分の方は、生き残ったということになる。
だから今こうして、文章が書けている。
生き残って思うのは、
人生の中で自分の心を支える底板が、
一番ブ厚かったのが、
皮肉にも、
この最も不幸だったときではないか?
ということだ。
何故かというと、
それ以上は、
堕ちようがないところにいるわけだから、
這い上がるしかない。

不思議なもので、今の自分は、
却って不幸を求めている部分がある。
決して、あの頃に戻りたいというわけではない。
苦しいのは、もうゴメンである。
だが、
不幸の最中にいて、
這い上がる以外の選択肢がなくなったときに、
人がブ厚い底板を内面に得て、
強い心を持つことができる実感は、悪夢の恩賞として、
確かにこの手の中にある。
何のために生きているのか、
わからなくなるほどの、
もろくぼんやりとした平穏に包まれるより、
襲いかかってくる苦難に、
自ら近寄って行くことで不幸を得て、
心の強さを得て、生の実感を得る。
この場合の不幸は、
まるで生きるためのジャンプ台だ。

ゆえに意外と人は、不幸を求めるのではないかと思う。

「私の方が不幸せだ」と。

かといって当時の自分が、
積極的に不幸を求めていたわけではない。
自分をここまで不幸にした、モアイとの出会いは、
それこそ単なる偶然だ。
適当にピックアップされ、
不幸を割り当てられただけだ。

重要なことは、
不幸を呼び寄せた、
モアイとのつきあいの過程で、
自分がロクなことをしていないという点だ。
その有様は、散々この「ド不幸自伝」に書いてきた。
だが、ロクなことをしていなかったのは、
実際のところ、
モアイに引っ張られていた時期だけでなく、
モアイと出会う以前もだったし、
この病が感治し、生還してからもさえ、
自分はロクなことをしていない。
自伝とは言え、
何もかも書くことはできないが、
あらゆる場所で、
自分が自分に殺される以前に、
他者を、まるで殺すほどに傷つけているのは確かだ。
自分の存在が、
バチ当たりなものであることを思えば、
人生の中で自分の心の底板を、
最もブ厚くしたとかいう、
自身の不幸など、
とるに足らない、
ゴミのようなものだということだけは、
ハッキリと記しておく。

本当に、
究極な不幸とはおそらく、
自身に訪れるものではなく、
愛する他者が、
悲しさにまみれて死ぬようなことなのだろう。
そのような不幸は、いくらでもある。
例えば爽やかな朝に、
コーヒーを飲みつつ、
新聞記事に軽く目を通すだけでも、
世界は究極の不幸に溢れかえっている。
戦争、紛争、公害、事件、事故、etc…。

今は真夜中なので、
コーヒーではなく、ホットミルクを飲みながら
こうして気楽に文章を書いている。
自分は余程、気楽で呑気な顔をしていて、
話しかけやすいからなのか、
パソコンで文字を打ち込んでいる、
合間合間に、
メールやメッセンジャーで、
人生相談を頂くことがたまにある。
様々な相談事に目を通すと、
正に人生は苦難の連続だと思う。

「いっそ、死んでしまいたい」

とまで、打ち明けられる時もある。
死んでしまいたい程の苦しみに、
自分はどう答えることもできない。
そんな時は、
とりあえず、この頃の自分を説明してみる。
死んでしまいたいと思うより先に、
自分が自分に殺されかける時だってある。
少なくとも、自身が体験した、
「自殺未遂」
とは、そういうものだった。
体を傷つけることや、
紐でくくることではない。
だから、一応言ってみる。

(生きてみないか?)と。

だが、
愛するものを悲しく失った程の、
不幸の経験を相談されたとしたら、
自分ごときの貧しい経験を差し出し、

(生きてみないか?)

と、声を架けたところで、届くはずもない。
どうすれば良いのか?
どうしようもない。
当事者と傍観者の悲しい壁が、そこにある。
届かないことを承知で、
言ってみるのだ。

(おい、生きてみないか?)と。

いや、
どうすれば良いのか、わからないからこそ、
もう一度言ってみる。
ひょっとしたら、届くかもしれない。

(おい…生きてみないか?生きてみないか…)

もう一度。
あきらめては、ならない。

(生きてみないか?)


つづく→

*この自伝は、事実を元にして書いていますが、あくまでフィクションです*



ド不幸自伝⑨ ~春はこわい~

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≪前回までのあらすじ≫

:20代前半。両親の借金のため、兵器工場で、働くことになった自分は‘モアイ’像によく似た男と、知り合いになった。自分はモアイと、頽廃的な遊戯を繰り返した果てに、消費者金融でモアイのために金を借り入れる。モアイは逃走し、ショックとストレスから精神を破綻した自分は、日常生活が困難となり、人間関係も破綻して行く:

***************************************

ところで、
2000年4月5日から始まった、
森内閣の記憶がほぼ全く、無い。
確かに、評判の悪い内閣で、
記録的な低支持率だったことくらいは、覚えている。
印象が薄いのは、低支持率の所為ばかりでなく、
この頃の自分が、
いかに社会を見る余裕がなかったかの、現れだと思う。
政治どころか、出来事すら記憶にない。
頭は全く働いておらず、残っているのは、
感覚だけ。
ぬくいとか、
重いとか、
しんとしてるとか、
電車の音とか、
香りとか。
そう、香りの記憶は、バカに鮮明だ。
季節の香り。
春。
春だった。

***************************************

冬が終わり、春が来た。
いつまで、こんなことが続くのか?
散歩。
もはや歩くのも、辛い。
登り階段をほんの少し、早歩きしただけで
100メートルを全力疾走した後のように、
ゼエゼエハアハアと息が切れる。
(何という、体になってしまったのか)
苦しみがいつまで続くのかを、
気にするより、
二度と元の肉体に戻れないのでは、
という恐怖が自分を支配する。
人生で、最も死に近づいた、2000年春の景色。
薄暗い土色の風景の中に、新芽の鮮やかな黄緑色が、
ぽつり、ぽつり。
K医院の風景。
若々しい、新しい命が匂う立つのに対して、
錆びた重機のような胸の中。
自分の一歩は、何故こうも遅く、
目的地は何故こうも遠いのか?

***************************************

「ところで私、移動になるので、あなたも付いてきてください」

遠藤医師は、事もなげにこう言った。
「同じ医師の治療を受けた方が良いんです」
話によると、
遠藤医師は府立医大から、
市内北部のK医院へ転勤になるということだった。
東南部に住む自分にとってみれば、
地下鉄路線図の端から端までを渡り、
さらにバスを使わなければ、
辿りつけない、困難な場所である。
そもそも、府立医大に通うこと自体、
困難なのだ。
それに、当時は気づいていなかったが、
自分は遠藤医師に、
親和性を、特に感じてはいなかった。
変えた薬が効かないとなると、
どうも、
以前の薬に戻すクセが、
あることくらいしか、
治療の印象が無かった。
遠藤医師以外の精神科医が、
どういう治療をするのかは、
知りようもないことだったし、
他の選択肢があるという観念もなかった。
遠藤医師の移動に、付いて行くことによって、
良い方向に向かない予感がしたことは、
事実だが、
告げられたことに対して、
抵抗する気力はなかった。

何をするにしても、そうだったのだ。

診察が終わった、
帰りの電車の中では、いつも処方された、
薬の説明書きを見ていた。
(電車に乗ってる間も、苦しいのだ)
デパスメレリルソラナックス
記憶違いかも知れないが、
そんな名前が並んでいたような気がする。

(効いてる気がしない。だが、これを止めると、さらに恐ろしいことになるのだろうか?)

薬の存在が、いつも不思議で仕方がなかった。
だが、飲むだけで、とりあえず何かをした気にはなる。
自分は、
この世に完全に効く薬が存在しないことを、強く恨んだ。

***************************************

市北部に来ると、南部とは気温も違う。
自宅近辺はすでに、生温かったが、
この辺りはまだ、京都独特の切れ味鋭い寒さが残った、
冬混じりの春だった。
咲き始めた桜の花びらすら、
冷気に苦しんでいように見える。
K医院は歴史の古い病院で、
むき出しのコンクリートの病棟は、
苔むして、うっすら緑色に湿っている。
患者という役割で、
こんな景色の一部に溶け込むと、
病院近辺の人気の無さとも相俟って、
自分がまるで、
世界の果てに存在しているかのように、感じられる。
ある場所(何処でも良い。例えば西アジアとか)から、
想像すると、
ここは、とてつもなく遠い場所だ。
ここより、さらに北はいくらでもあろうとも、
何故か、場所が『果て』のように思えて仕方なかった。
墓場であり、
落ちた者の、馴れの果て。
どうしても、
そう感じずにはいられなかった。

人が多く、暖房が、
やや効きすぎている府立医大とは違い、
何処も寒々しく、患者の数も少ない。
精神科の待ち合いスペースは、
建物の奥に細長く続く廊下の、
先端のようなところにあった。
無造作に設置された、
オレンジ色の固い長椅子に腰かけて、
奥に続く廊下の先をじっと見ていると、
自分の存在が、何処に向かっているのか、
わからない気持ちにさせられる。
非現実的な空間だった。
だが、苦しい。
座っていても、苦しい。
いつでも、苦しいのだ。

(どうしてこうも、院内には人が少ないのだ)

沈黙の音が、聞こえてくる。
椅子の傍には、
昔のテレビドラマでよく見かけた、
銀色の円盤のような、
無神経に大きい灰皿がある。
余計な気づかいもあったもので、
水が浸され、
捨てられた吸殻にニコチンが溶け出し、
不快な匂いが鼻につく。

いや、待てよ。

院内に、
タバコの灰皿など、置いているはずがない。
記憶違い?
一体この時、自分は何を見ていたのだろうか。
果たして『本物』
を見ていたのだろうか?

気が付くと、自分のすぐ横に、
全く見知らぬ男が座っていたのだった。


つづく→

*この自伝は、事実を元にして書いていますが、あくまでフィクションです*

ド不幸自伝⑧の2〈修正版〉 ~あの子との別れ~

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【お知らせ】
前回、自伝の⑧を書いたのですが、

読者の方から、ご指摘を頂いたことで、作品として大きな弱点があることに思い当たり、やや修正させてもらいました<(_ _)>
これを⑧〈修正版〉として、2回に分けてアップしますね。(長くなったので)
修正前のも、そのまま残しておきます。
気合いを入れ直す意味で、画像もリニューアルしてます。今さら。やはり読んでもらえてナンボですね(`・ω・´)そんなわけで、是非ご覧になって見て下さい。


≪前回までのあらすじ≫

:20代前半。両親の借金のため、兵器工場で、働くことになった自分は‘モアイ’像によく似た男と、知り合いになった。自分はモアイと、頽廃的な遊戯を繰り返した果てに、消費者金融でモアイのために金を借り入れる。モアイは逃走し、ショックとストレスから精神を破綻した自分は、日常生活が困難になって行く:

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苦しい、
ただひたすら、苦しい。
それだけだった。
やはり、
薬は効いているのかどうか、よくわからない。
いや、効いているはずもない。
効いているというのなら、この苦しさにはどう説明がつくのか。
寝てる時間以外は、全て苦しかった。
(寝ることができたのは、幸いだった)
寝る前には必ず、
「何かの拍子でこの苦しさが、嘘のようにスッと消えている、
雨上がりの朝のような目覚めを、迎えていないものだろうか?」
と思うのだった。
だが、幾日経っても、
それこそ、1999年7月に来るはずだった、
〈恐怖の大魔王〉に襲われるかのごとく、
目覚めたことそのものが絶望のような、
鉛色の朝が繰り返しやってくる。

昼になると、
食べて、排泄し、動く。
そうして生きようとする。
かろうじて可能だった外出は、
近場の土手を散歩することだった。
それは、周囲の人間から見れば、
ひとりの若い男性が、
単に、歩行をしているだけに見えただろう。
もちろん、そのようなはずはなく、
自分の中では、まるで命の奪い合いのような、
無慈悲で冷酷な戦いが、繰り広げられている。
そして一方では、肉体を飛び出した、
意識だけのもうひとりの自分が、
やもりのように川べりを這いずりながら、
荒い呼吸をしている瀕死の肉塊となった自分を、
冷たく見下ろしている。

携帯電話は、必ず持ち歩いていた。
万が一、自分の意識があらぬ方向に飛んでいったときに、
連絡方法が何もないと言うのは、絶望的だったからだ。
だが、そんな状態でも、
自分はなるべく電話などに頼らないでおこう、
と思っていた。

(電話をしたところで、何になる?どう説明する?)

仕方がないという思いの方が、強かったのだ。
だから、
病院に電話をした、あの瞬間というのは、
どれほどまでの症状が、出ていたのだろう?と思う。

「どうされました?」

看護師だろうか、女性の声だった。

「精神科にかかっているものです。遠藤先生とお話できないでしょうか?」
「遠藤先生は、今診療中です」
医者に接触することができないと、
わかった瞬間、自分の中の理性の防波堤が崩れ落ちた。

「なら、もう麻薬でも何でも打ってください!苦しいんです」

まるで〈冷たい七面鳥〉だ。
「そんなもの、ありません!」
看護師らしき女性は、諭すというより、本気の怒りの声でそう答えた。


次に電話をしたのは、
あの、カウンター・レディーの彼女だ。

「何かあったら電話ちょうだい」

彼女のこの言葉を、思い出したのだった。
考えて見れば、
連絡はいつもメールで済ませ、
一度も、こちらから電話をしたことはなかった。
このような形で、
初めて電話をするというのは、馬鹿馬鹿しいことだった。
どうして、もっと楽な気持ちで電話をして、
「愛している」と、告げられなかったのか?

「一体、今どこで何をしてるんや!」と、彼女は言った。

「苦しい、苦しいねん」
質問には答えられず、まず先に苦痛を訴えた。
それを聞いた彼女は、理由を問うより早く、
「牛乳を飲み!牛乳。少しラクになるはずや」と言った。
「牛乳…無い、外」
「どうしたん?一体」
「○○(モアイが名乗っていた名前)にカネ貸してん…」
それを聞いた瞬間、彼女は何もかも察したように、

「何で、あんな奴に金を貸した!」と言った。

夜の街つながりで、彼女はモアイのことを知っていたし、
自分がモアイの粉もの屋に、通いつめていたことも、
もちろん知っていた。
(心配していたのかもしれないな)
と、自分は思った。
今さら、
モアイにカネを渡していたような、自分の人格を、
改まって白状してしまえば、全てが終わることはわかっていた。
(もっと、早く言っておけば良かったのかも知れないな)
ほんの少し、後悔した。

「切るよ」

と、彼女は言った。
「うん」自分は言った。
「もう、良いの?切るよ」
「…うん」
「…切るよ」

***************************************

(戻っておくれ)

とでも、自分は思ったのだろうか?
戻ってほしい人とは、誰?
彼女?
それとも自分自身?
戻ってきたとしても、何処に戻る?
あの夜の街の何処にも、生活なんて存在していない。
戻るような場所など、最初から無かったのだ。

つづく→

*この自伝は、事実を元にして書いていますが、あくまでフィクションです*

ド不幸自伝⑧の1〈修正版〉 ~モアイとの別れ~

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【お知らせ】
前回、自伝の⑧を書いたのですが、

読者の方から、ご指摘を頂いたことで、作品として大きな弱点があることに思い当たり、やや修正させてもらいました<(_ _)>
これを⑧〈修正版〉として、2回に分けてアップしますね。(長くなったので)
修正前のも、そのまま残しておきます。
気合いを入れ直す意味で、画像もリニューアルしました。今さら。やはり読んでもらえてナンボですね(`・ω・´)そんなわけで、是非ご覧になって見て下さい。


≪前回までのあらすじ≫

:20代前半。両親の借金のため、兵器工場で、働くことになった自分は‘モアイ’像によく似た男と、知り合いになった。モアイは工場の若者を集めて、粉もの屋を開店する。自分はモアイと、頽廃的な遊戯を繰り返した果てに、消費者金融でモアイのために金を借り入れる。支払いは滞り、緊張から自分は精神を破綻し、日常生活が困難になって行く。そんな中、モアイから家に封書がひとつ届く:

***************************************

封筒には、少しのふくらみがあり、
中に何かが入っているようだった。

考えるよりも先に、封を解いた。
中には、自分名義でモアイに預けていた、
(ものすごいことを、したものだ)
消費者金融のキャッシング・カードが5枚入っていた。
封筒を逆さにし、バラバラと5枚のカードを床に落とした。
カードはまるで、鉄の固まりのようだった。
自分は実に、ぼおっとカードを見つめていた。

(モアイはもう、あの場所にいないな)

そう思うと、少しは我に返った。
他に何か入っているものは無いかと、封筒の中を漁った。
無駄なことだとわかっていながら、
カッターナイフを持ち出し、
もう開くところが無くなるまで、封筒を切り開いた。

やはり、5枚のカードがあるだけで、
メモ書き一枚、無かった。
言うまでもないことだが、
モアイは、1円のカネも返しておらず、
返済義務の残ったカードだけを、郵送してきたというわけだ。
その時だった。
何故か不意に、
モアイが今まで何度も何度も、
在日コリアンへのヘイト・トークを、自分に繰り返してきたことを、
1から10まで順々に思い出した。

言ってはならない言葉、
書いてはならない言葉を主語にあてがい、

(あいつらに、騙された)
(一度、あいつらと商売をしてみろ)
(あいつらの性や)
(事業を邪魔された)
と、モアイはこのように言い張ってきた。

ある時は工場、ある時は粉もの屋、ある時は沖縄で…。
フラッシュ・バックだった。
自分は、その言葉を何と思って、聞いていたのだろう?
…いや、
「何と思って、聞いていたのだろう?」
ではない。
告白すると、
自分はモアイとの付き合いが長くなるにつれ、
ついには、単なる遊びの気持ちで、
彼の使用する、在日コリアンへの差別用語に同調し、
確実に他者がいる場所で、使用していた。
自分は、
ヘイト・スピーチへの参加者であり、そこからの帰還者なのだ。

〈あいつら〉

何故気づかなかったのだろう?
モアイにとってみれば〈あいつら〉には、
誰を当てはめても良かったのだ。

モアイに出会う以前、自分は考えたことがある。
人は何故、差別をするのか?
劣等感から?
自身より『下』の存在を作って、
自尊心を満たすため?
それを知った為政者が民を統治するための、汚い戦略?
それらも、あるのだろう。
だが、モアイを通じて、
自分はもっと、本質的なことに気づいた。
差別は、ある種の人間が持つ、理由なき根源悪なのだ。
知らぬ間に、巻き込まれていくものなのだ。
それは、ぬぐってもぬぐっても、
決して明るくなることはない、
ひたすらな闇。
モアイの姿、言葉はその場になくとも、
床上に転がった、
5枚の灰色のカードが、
闇の存在を雄弁に物語っている。
誰もが最初から、
そのような根源悪を持っているとは、到底思えないし、
思いたくもない。
自分が、モアイによって闇の心を少しでも、開発されたのだとしたら、
その闇から抜け出すことは、
ひとりの力では到底不可能だ。
自分は、いまだに
この闇から、
自分を抜け出させ、救ってくれる光をさがしている。
光は、ひとつでも多いほうが良い。
そんな光を、持ち合わせている人間こそが、
自分にとっての、
疑うことのない希望なのだ。
そして、光の世界に到達することが出来たとき、
モアイとは一体何だったのか?という疑問が、
初めて自分にとって、どうでも良くなるのだ。

***************************************

5枚のキャッシング・カードを握りしめた、
夢遊病者のような自分は、
かつてモアイと一緒に回った、
消費者金融の店舗を、一軒一軒再訪した。
今度は、
貸出機でなく人間相手に事情を説明する。
だが、事情とは言っても、
要はひとりの成人男性が、
自分で作ったカードで、カネを借りただけだ。
金融業側にすれば、事情そのものがない。
どこの店舗に行っても、対応者は気の毒そうな表情を見せるのだが、
結局は、
「返済していただく他はない」と言う。
当たり前のことだった。

何故か、店舗のひとつで、
数百円程度の手続き上のミスが発見された。
紺色のスーツ姿で、爽やかな匂いすら漂う、
細身の男性店員が、
「金融業として、このようなミスは有り得ない。誠に、誠に申し訳ありません」
と言いながら、深々と頭を下げ、
百万円近い借金を新たに抱えた自分に、
数百円をキャッシュ・バックするのだが、
この様は、ほとんど珍事と言え、
自分はただ唖然とした顔で、店員を見つめながら、
小銭を受け取った。

***************************************

5軒全てを回ったあと、粉もの屋を見に行った。
シャッターが下ろされ、まるで廃墟のようだった。
警察に相談することも、頭に思い浮かばなかったわけではなかったが、
網の目のような人間の群れの中から、
モアイが簡単に見つかるとは思わなかったし、
興信所のようなところに相談しようにも、
それはそれで、カネが必要になるだろう。
捕まえたところで、
やはり結局は、
自分が消費者金融から、カネを借りただけのことになる。
(モアイは、最初からそれを狙っていたのだ)
ならば、モアイを殴りでもするか?
無一文のモアイを殴って、何が出てくるのか?
監視して、働かすのか?
考えているうちに、
人生の時間をそんなことに費やすことが、
虚しく思えた。
病み、ズタズタになった自分は、
モアイから奪われたカネと心をとり返す、気力も体力もなかったのだ。

***************************************

しかし、
借金の方は、実にあっけなく解決したのだった。

親族会議にかけられた自分は、
「あいつの健康状態・精神状態はもうダメだろう」
と判断され、
比較的裕福な親類・縁者数軒から、
一括で用立てをしてもらった。
返済不要ということだった。
(おそらく、将来を考えて、自己破産を避けさせたのだろう)
だが、
この『幸運』は、
却って決定的に、自分を駄目にしてしまった。
親から引き継いだ借金を返すために、望まぬ労働に従事し、
そこから解放されかけたところで、
新たに借金を重ね、
それを、自分の責任で処理することができなかった。

『自分は、どうしようもなく愚かな人間なのだ。
この世に必要とされている人間では、ないのだ。』

引き裂かれた魂に、愚者の焼印を押されたような気がした。


ここから、
不安の症状は暴走列車のように、加速し、
いよいよ自分は、究極的に追い込まれていくことになる。


つづく→

*この自伝は、事実を元にして書いていますが、あくまでフィクションです*




ド不幸自伝⑧ ~二つの別れ~

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≪前回までのあらすじ≫

:20代前半。両親の借金のため、兵器工場で、働くことになった自分は‘モアイ’像によく似た男と、知り合いになった。モアイは工場の若者を集めて、粉もの屋を開店する。自分はモアイと、頽廃的な遊戯を繰り返した果てに、消費者金融でモアイのために金を借り入れる。支払いは滞り、緊張から自分は精神を破綻し、日常生活が困難になって行く。そんな中、モアイから家に封書がひとつ届く:

***************************************

封筒には、少しのふくらみがあり、
中に何かが入っているようだった。

考えるよりも先に、封を解いた。
中には、自分名義でモアイに預けていた、
(ものすごいことを、したものだ)
消費者金融のキャッシング・カードが5枚入っていた。
封筒を逆さにし、バラバラと5枚のカードを床に落とした。
カードはまるで、鉄の固まりのようだった。
自分は実に、ぼおっとカードを見つめていた。

(モアイはもう、あの場所にいないな)

そう思うと、少しは我に返った。
他に何か入っているものは無いかと、封筒の中を漁った。
無駄なことだとわかっていながら、
カッターナイフを持ち出し、
もう開くところが無くなるまで、封筒を切り開いた。

やはり、5枚のカードがあるだけで、
メモ書き一枚、無かった。
言うまでもないことだが、
モアイは、1円のカネも返しておらず、
返済義務の残ったカードだけを、郵送してきたというわけだ。
その時だった。
何故か不意に、
モアイが今まで何度も何度も、
在日コリアンへのヘイト・トークを、自分に繰り返してきたことを、
1から10まで順々に思い出した。

言ってはならない言葉、
書いてはならない言葉を主語にあてがい、

(あいつらに、騙された)
(一度、あいつらと商売をしてみろ)
(あいつらの性や)
(事業を邪魔された)
と、モアイはこのように言い張ってきた。

ある時は工場、ある時は粉もの屋、ある時は沖縄で…。
フラッシュ・バックだった。
自分は、その言葉を何と思って、聞いていたのだろう?

あいつら?
モアイにとってみれば〈あいつら〉には、誰を当てはめても良いのだ。

モアイに出会う前にも、自分は考えたことがある。
人は何故、差別をするのか?
劣等感から?
自身より『下』の存在を作って、
自尊心を満たすため?
それを知った為政者が民を統治するための、汚い戦略?
それらも、あるのだろう。
だが、モアイを通じて、
自分はもっと、本質的なことに気づいた。
差別は、人間の根源悪なのだ。
そこには、理由がない。
性悪説などという、ナマ優しい概念ではない、
ぬぐってもぬぐっても、決して明るくなることはない、
ひたすらな闇。
モアイからの言葉は何ひとつなくとも、
床上に転がった、
5枚の灰色のカードが、
闇の存在を雄弁に語っていた。
誰もが、そのような闇を持っているとは、到底思えない。
自分は、モアイに闇の心を少しでも、開発されたのだろうか?
だとすれば、その闇から抜け出すことは、
ひとりの力では到底不可能だ。
自分は、いまだに
この闇から、
自分を抜け出させ、救ってくれる光をさがしている。
光は、ひとつでも多いほうが良い。
そんな光を、持ち合わせている人間こそが、
自分にとっての、
疑うことのない希望なのだ。
そして、光の世界に到達することが出来たとき、
モアイとは一体何だったのか?という疑問が、
初めて自分にとって、どうでも良くなるのだ。

***************************************

この借金が、結局どうなったのかというと、
時間をかけてのことだが、
親類、縁者に返済してもらった。
この事実は、決定的に自分を駄目にしてしまった。
親から引き継いだ借金を返すために、望まぬ労働に従事し、
そこから解放されかけたところで、
新たに借金を重ね、
それを、自分の責任で処理することができなかった。
自分は、どうしようもなく愚かな人間なのだ。
この世に必要とされている人間では、ないのだ。
引き裂かれた魂に押された、愚者の焼印。
ここから、
不安の症状は暴走列車のように、加速することになる。

***************************************

苦しい、
ただひたすら、苦しい。
それだけだった。
やはり、
薬は効いているのかどうか、よくわからない。
いや、効いているはずもない。
効いているというのなら、この苦しさにはどう説明がつくのか。
寝てる時間以外は、全て苦しかった。
(寝ることができたのは、幸いだった)
寝る前には必ず、
「何かの拍子でこの苦しさが、嘘のようにスッと消えている、
雨上がりの朝のような目覚めを、迎えていないものだろうか?」
と思うのだった。
だが、幾日経っても、
それこそ、1999年7月に来るはずだった、
〈恐怖の大魔王〉に襲われるかのごとく、
目覚めたことそのものが絶望のような、
鉛色の朝が繰り返しやってくる。

昼になると、
食べて、排泄し、動く。
そうして生きようとする。
かろうじて可能だった外出は、
近場の土手を散歩することだった。
それは、周囲の人間から見れば、
ひとりの若い男性が、
単に、歩行をしているだけに見えただろう。
もちろん、そのようなはずはなく、
自分の中では、まるで命の奪い合いのような、
無慈悲で冷酷な戦いが、繰り広げられている。
そして一方では、肉体を飛び出した、
意識だけのもうひとりの自分が、
やもりのように川べりを這いずりながら、
荒い呼吸をしている、瀕死の肉塊となった自分を、冷たく見下ろしている。

携帯電話は、必ず持ち歩いていた。
万が一、自分の意識があらぬ方向に飛んでいったときに、
連絡方法が何もないと言うのは、絶望的だったからだ。
だが、そんな状態でも、
自分はなるべく電話などに頼らないでおこう、
と思っていた。

(電話をしたところで、何になる?どう説明する?)

仕方がないという思いの方が、強かったのだ。
だから、
病院に電話をした、あの瞬間というのは、
どれほどまでの症状が、出ていたのだろう?と思う。

「どうされました?」

看護師だろうか、女性の声だった。

「精神科にかかっているものです。遠藤先生とお話できないでしょうか?」
「遠藤先生は、今診療中です」
医者に接触することができないと、
わかった瞬間、自分の中の理性の防波堤が崩れ落ちた。

「なら、もう麻薬でも何でも打ってください!苦しいんです」

まるで〈冷たい七面鳥〉だ。
「そんなもの、ありません!」
看護師らしき女性は、諭すというより、本気の怒りの声でそう答えた。

次に電話をしたのは、
あの、カウンター・レディーの彼女だ。

「何かあったら電話ちょうだい」

彼女のこの言葉を、思い出したのだった。
連絡はいつもメールで、
一度も、こちらから電話をしたことはなかった。
このような形で電話をするというのは、馬鹿馬鹿しいことだった。
どうして、もっと楽に電話をして、
「愛している」と、告げられなかったのか?

「一体、今どこで何をしてるんや!」と、彼女は言った。

「苦しい、苦しいねん」
質問には答えられず、苦痛を訴えた。
それを聞いた彼女は、理由を問うより先に、
「牛乳を飲み!牛乳。少しラクになるはずや」と言った。
「牛乳…無い、外」
「どうしたん?一体」
「○○(モアイが名乗っていた名前)にカネ貸してん…」
それを聞いた瞬間、彼女は何もかも察したように、

「何で、あんな奴に金を貸した!」と言った。

夜の街つながりで、彼女はモアイのことを知っていたし、
自分がモアイの粉もの屋に、通いつめていたことも、
もちろん知っていた。
(心配していたのかもしれないな)
と、自分は思った。
今さら、
モアイにカネを渡していたことを、
告白してしまえば、全てが終わることはわかっていた。
(もっと、早く言っておけば良かったのかも知れないな)
ほんの少し、後悔した。
「切るよ」と、彼女は言った。
「うん」自分は言った。
「もう、良いの?切るよ」
「…うん」
「…切るよ」

***************************************

(戻っておくれ)

とでも、自分は思ったのだろうか?
戻ってほしい人とは、誰?
彼女?
それとも自分自身?
戻ってきたとしても、何処に戻る?
あの夜の街の何処にも、生活なんて存在していない。
戻るような場所など、最初から無かったのだ。


*この自伝は、事実を元にして書いていますが、あくまでフィクションです*

つづく→













 

ド不幸自伝⑦ ~精神科医~

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≪前回までのあらすじ≫

:20代前半。両親の借金のため、兵器工場で、働くことになった自分は‘モアイ’像によく似た男と、知り合いになった。モアイは工場の若者を集めて、粉もの屋を開店する。自分はモアイと、頽廃的な遊戯を繰り返した果てに、理由もなく、消費者金融でモアイのために金を借り入れる。支払いは滞り、緊張から自分は精神を破綻する:

***************************************

〈ある家族が、家を怪物に乗っ取られる〉

というのが、ストーリーの軸になっている、恐怖映画を見たことがある。
この映画が、何より怖いのは、恐ろしい怪物がいるなら、
そこから逃げれば良いのに、
『家』ゆえに、何故か家族は、怪物のいるところに帰ってしまう、
という点にあった。
さしずめ、自分とモアイの関係は、
この映画の家族と、怪物のようなもので、
自分は、逃げたくとも逃げられなくなっていた。
いや、むしろ自分から近づいて行くカラクリに、完全にはまっていた。

***************************************

「助けて!」

粉もの屋の入口の扉を、乱暴に開けると、
自分はモアイに、こう叫んだ。
モアイは大きく、両目を見開いた。
自分はカウンター内に乗りこみ、モアイに体を寄せ、手を強く握りしめた。
皿や調理道具が、ガラガラと大きな音を立てて、
床に落ちる音がした。
音は妙に、遠くから聞こえてくるようだった。

「手ェ握って!手が吹っ飛びそうや!」自分は言った。本当にそのように感じていたのだ。
「わかった!握っといたる!」モアイは言った。

「刃物を、全部どっかに捨てて!刃物はアカン!」自分は、こうも叫んだ。

調理場には、必ず刃物がある。
何も、狂った自分が刃物を持って、暴れそうになったという訳ではない。むしろ反対で、その時の自分は、いかなるものにも殺されるような気がしていたのだった。だからまず、刃物の薄さを本能的に恐れた。そして、四方八方から調理用の包丁が飛んでくるという、あり得ない可能性を想定した。

「わかった刃物やな!」
「頼む、カネを返してくれ!」
「わかった」
「救急車を呼んでくれ!」
やり取りが、会話と言える代物ではない。全く、その場にいた客は、自分とモアイに何を見たのだろう?

モアイは店の電話で、救急車の手配をしていたが、
中々、つかまらないようだった。

「何!今ここに、手をブルブル震えさせてるやつがおるのに、来れんのか?顔も真っ青で、今にもどうにかなりそうなんや!」
モアイは電話口で叫んでいた。


電話を切った、モアイは
「くそ、日本の医療体制どななっとるんや!」と吐き捨てた。

それでも、数十分後に救急車は到着した。
その間自分は、
右手で左手の不安を握りしめ、
右手が不安になると、左手で右手の不安を握りしめ、
それを、交互に繰り返していた。
タンカで運ばれている最中も、意識はハッキリとしていた。
横になっても、安心感は無く、
ずっと誰かに殺されるような恐怖は、相変わらず体を取り囲んでいた。

(意識あります、脈拍…荒いです、動悸は…)
救急隊員のやり取りが、別世界のもののように思えた。

ひとまず、
最寄りの大病院である、
府立医大に、自分は搬送された。
ずっと、悪夢のパイプをくぐっているような感じだった。
ふと気がつくと、椅子に座らされており、
目の前に白衣の医師がいた。
30代くらいの、若い医師だった。

「どうされました?」医師はそう尋ねた。
「手がスカスカするんです」自分は言った。
「スカスカとは何ですか?」
「スカスカするんです」
「………」

「怖いんです、泊めてください」自分は言った。

「泊めることは、できません」医師はそう答えた。
「お願いです、泊めてください。でないと何をするか、どうなってしまうのか、わからないんです」
医師は、自分の目の中を、ぐっと覗きこんだ。
彼の目つきは鋭かったが、瞳にはかすかな恐怖も入り混じっていた。

「泊めることはできません、必ずここへ戻ってくると、私に約束して帰ってください」

注射の一本でも、打ったのだろうか?
薬を、処方されたのだろうか?
とにかく自分は、府立医大から、木屋町までを歩いた。
全身が、残酷なまでに冷たかった。
…行き先は、モアイのところだった。
粉もの屋は、とっくに閉店していて、照明が落とされ中は真っ暗だった。
かまわずに、自分は扉を開けた。
モアイが中にいることは、わかっていた。
モアイには家がなく、店内の椅子を並べて、ベッドの代わりにしていた。

「大丈夫か?」モアイは言った。

「ああ」自分は答えた。
どれほど目を懲らしても、店の中は、完全な暗闇だった。
モアイは椅子に座っているようだったが、表情はおろか、姿形すら見えない。
嘔吐する音が、響いた。

「情けない」

声だけがする。
(どこに、吐いているのだろう?)自分は、思った。

「カネ?カネって何や?」モアイは闇に向かって、1人で喋っていた。

その時、店の電話のベルが大音量で鳴った。
モアイは、全く受話器を取ろうとしなかった。
ヒステリックな呼び出し音が、何回も何回も暗闇の中に鳴り響いた。
ガチャリと音がして、留守番電話に切り替わると、

「おい、そこにいるんやったら出んかい!」

と、いう聞いたことのない男の叫び声がして、
そのままカセットに録音された。
その叫び声は、
モアイの、生活と呼べないような生活の終わりを、
示しているように思えた。
全ての無駄を感じた自分は、
暗闇に背を向け、何も言わずに店を後にした。

***************************************

兎にも角にも、若い医師の、

「必ずここへ戻ってくると、私に約束して帰ってください」

と、いう一言が、
自分の命と行動を繋いだことには間違いなかった。
(約束ならば、行くべきだ)
自分は、府立医大の精神科へと向かった。
「あっけないほどに、回復している」と、自分は思っていた。
このとき、全くの平常心だった。
牛丼屋で体験した、あの恐怖は何だったのだろう?
過ぎ去った悪夢か、それとも幻覚か?

念のための来院だというのに、
精神科を受診するのは、自分にとって未知の冒険だった。
いや、そのような明るい性格のものではない。不吉な航海への出発と言ったほうが良いだろう。
受診は「まさか」であり、意外な上にも、意外だった。

診察の順番が回ってきた。
部屋のカーテンを開け、医師の顔を見てみると、
あの若い医師ではない。
30代ということはない。もう少し上の年齢だ。
40代半ばか?額はやや広い。痩せ形でメガネをかけている。
違う医師が出てくるに、決まっている。単なる当直の救急医であったのは、当然だ。
遠藤という名の、
「本物」の精神科医は、
まず、極端なまでの作り笑いを、自分に見せた。
それを見て自分は、
(ああ、『精神科医』というのは、こんな笑い方をするのか)と思った。

病気のつもりが、まったくない自分は、
「あの時は追い詰められていたが、今は全く大丈夫。こうして再び来院したのが、
恥ずかしいくらいだ…」という旨を伝えた。

すると、遠藤医師は、
勉強で正解点を出した子どもに向けるような笑顔を、
自分に見せた。
「念のために、一応薬を出しておきましょう」
と、いう診断であった。

(もう、二度とここに来ることはないだろう)
自分は、そう思って府立医大を後にした。

***************************************

急速に暗転。
ダーク・チェンジということがある。

牛丼屋で体験した、
『胸の中の黒雲が、肺を突き破る』
そして、
『つま先から、真黒い恐怖が間欠泉のように湧き上がってくる』
この二つの現象が、
何の変哲もない日常、
(コップに茶でも入れていたのか)
の何処かで、突然蘇ったのだ。

「これは、何だ!」

部屋の中で、自分は思わず叫んだ。
止まない地震のように、発作はしばらく続いた。
収まる、
そしてしばらくすると、また起こる。

(癖。『アレ』が癖になってしまったのだ)

その自覚は、絶望と言えた。
また病院に、行かねばと思ったが、
こうなってまうと、
外出することそのものが、恐ろしい。
同時に、部屋にいることも恐ろしい。
外で、数多くの人間を見ると、この世に自分がいない気がしそうだし、
内で、ひとりきりだと、この世から自分が消えゆく気がする。

***************************************

後々になって、
この時の自分が、一体どのような状態に置かれていたのか、
把握しようと、精神医療関係の本を何冊か読んだ。
(雑学程度だが)
鬱病」「不安神経症」「パニック障害」「広場恐怖」「閉所恐怖」「乗り物恐怖」
該当しそうな病名にはたくさん当たったが、
「コレだ!」と、ハッキリ言いきれるものはなかった。
精神は、当然固形物ではないから、手で触れることはできない。
形のないモノに発生した異常事態に対し、
名前をつけて分類すること自体、
そもそも無理がある。
むしろ、単純なことだ。
単に自分の精神は、
四方八方から、強烈なストレスを受け、ガタが来てしまった。
〈大ケガ〉をした。
ただ、それだけのことである。

モアイを監視する必要はあったが、ままならない。
とにかく、この苦しみをどうにかするのが先だ。
処方された、薬を飲んで見る。
体が重くなるだけのことで、
とても「効いてる」とは思えない。
次第に、発作的にやってくる苦しみと、
苦しみの到来を予期し恐怖している状態の、境界線が、
曖昧になり、苦しさがデフォルトとなっていった。

そうやって、
のたうちまわるように、数日を過ごしていると、
差出人の書いていない、薄汚れた封筒が家のポストに入っていた。
モアイからであることは、一目瞭然だった。


*この自伝は、事実を元にして書いていますが、あくまでフィクションです*

つづく→

ド不幸自伝⑥ ~愛せたかも知れない、そして発症~

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≪前回までのあらすじ≫

:20代前半。両親の借金のため、兵器工場で、働くことになった自分は‘モアイ’像によく似た男と、知り合いになった。モアイは工場の若者を集めて、粉もの屋を開店する。自分はモアイと、無意味に頽廃的な遊戯を繰り返す。果てに、理由もなく、消費者金融でモアイのために、金を借り入れてしまうのだった:

***************************************


〈ああなったのは、いつの日のことだったのだろう?>と、今自分は思う。

1999年の終わりを、
かろうじて、まともな心で捕えていたのは、覚えている。
まともとは言っても、
生活は、普通ではない。
大みそかも、モアイの粉もの屋で酒を飲んでいた。

「ああ、いよいよ1000年代が終わるんや」

店のカウンターから、
木屋町通りの喧騒を、
静かな心で眺めていた。
そして、
(何故こんなに虚しいのだろう)
とも、思っていた。

***************************************

すでに、
工場を辞めていた。
自分は、
人生を、取り戻す必要があった。
先に書いたように、
両親の借金は相続放棄で消えていたし、
懸念だった妹の学費も、
支払える見込みが立った。
「自分は何のために生きているのか?」
を、思い出す必要があった。
すっかり深酒の習慣がついていた自分は、
粉もの屋の常連客
(自分も周囲からは常連客と思われていたが)
に、
「人間は何のために生きるんや!人間は何のために生きるんや!」
と、かなり狂った調子で、
日々、クダを巻いていた。
モアイですら、
そんな自分を見ると、
「おまえが喋ると、客が引く。黙っててくれへんか」
と、告げるほどだった。
モアイの方は、全ての若者に逃げられていた。
旧知の仲だという、何処からか連れてきた男と二人で、
カウンターに入る他は無くなっていた。

「何のために生きるのか?」

わかろうはずもない。
自分は、極めて自由な監禁状態の中にいたのだ。
この世を少しも知らぬ人間に、
生きる理由など、見えてくるはずもない。

***************************************

人生を取り戻すためだけに、
工場を辞めたわけではなかった。
居辛くなったのだ。

ある日、
全く普通に、
3年半少しも変わることがなかった、
‘バリ取り’の作業をしていると、

「〇〇さん、〇〇さん(自分の名前)、3番に電話です。事務所までお越しください」
と、社内放送が入った。
真っ先に、
周囲の‘パートのおばちゃん’たちが、
不幸を感じとり、
「すぐに行きなさい!」
と、自分を促した。
外線を取ると、金融会社からだった。
返済が滞っているという通知だった。

「もう少し、待ってください…」

絶望的な気持ちで、自分はそう言った。
工場の人間に、
どのような言い訳をしたのか覚えていない。
注がれた、数多くの怪訝な視線だけが、脳裏に焼き付いている。
仕事が終わると、
すぐに自分はモアイの粉もの屋へと向かった。

「コラ!オマエ!会社に電話が掛かって来たぞ!迷惑かけん言うたやろが!」

それは、
自分の口から出た言葉とは、思えなかった。
他の客のことなど、全く無視していた。
追い込まれた人間のみが見せる、爆発的な凶暴さ。
余りに、哀れな代物だった。
自分の体の周囲が、
真黒いオーラのようなもの、
怒りと悲しみの粘膜のようなものに、
包まれているのを、感じた。
窒息するかのような、息苦しさだった。

ほんの一瞬、モアイは怯えた表情を見せた。
すぐに、いつものように、
下顎を突き出し二ヤリと笑うと、
カウンターからゆっくりと出てきて、
狭い店の中、なるべく自分を隅の方に、隅の方にと
追いやり、顔を近づけてきて、

「あれは、オレにはもう終わった話やねん」と、自分に言った。

「はあ?」

「…でもな、そんなしょうもない電話が掛かって来たんか。
すまん、迷惑かけたな。腹立つし、速攻(カネを)入れたるわい」

「本当に頼む」と、自分は答えた。
モアイの言葉を信じる以外、どうすることも出来なかった。

その後、
何回も何回も、
金融会社から、催促の電話がかかってきた。
度に、モアイに怒りを示したが、
次第に怒りを表す方法も、わからなくなっていった。

(必要なカネは、もう貯まったのだ。
辞めても、しばらくは食べていける。
兵器を作る仕事など、
もうたくさんだ。
あとは、
モアイのカネだけが、解決すれば、
自分は、人生を取り戻すことができるのだ)

辞めてからは、
毎日、粉もの屋に通った。
毎日、モアイの姿を見なければ安心できなかった。
(監視だ)
モアイと離れているときは、
常に、
文字通り、黒雲のような不安が胸の中に存在した。
その不安は、朝起きてから、寝るまで、
止むことはなかった。
不安を紛らわすため、
(モアイのカネがきれいになりさえすれば、全てが終わるのだ)
と、何度も自分に言い聞かせた。
終わってくれないことには、次に進めなかった。
自分の力で、何をどうすることも出来ず、
じっとしていることが出来なくなり、
常に何処かをフラフラと、
さまよう生活をするようになった。
ぞれが、自分にとっての2000年代の、始まりだった。
24歳になろうとしていた。

***************************************

さすがに、
モアイとしか、
会っていないというわけではなかった。
ずっと、夜の街に生きていると、
人間関係も夜のものになってくる。
水商売の世界に生きていた、
10歳ほど年上のある女性と、頻繁に逢うようになった。
彼女は、
自身のことを「カウンター・レディー」
と説明していた。
自分には「カウンター・レディー」というのが、
何なのかわからなかったが、深く尋ねもしなかった。
笑うと彼女の目は糸のように細くなり、黒目すら見えなくなる。
表情そのまま、彼女はすごく優しかった。
何となく、
家にも転がりこみ、
(彼女にとって、それは絶対の秘密だった)
自分は、その場所に落ち着こうとしてみる。
落ち着くことができる気もしたのだが、
そこから関係が、
前進することは、なかった。
自分は、
自分の置かれた状況(カネのこと)を彼女に明かすと、
多大な迷惑がかかると、考えていたから、
肝心なところで、遠慮していた。
完全には、心を開いていなかったのだ。
彼女はよく冗談めかして、

「何かあったら電話ちょうだい」

と、言っていた。
確かに自分は、
いつ、何があってもおかしくないような雰囲気に、
満ち溢れていた。
「電話をちょうだい」には、
曖昧な返事をしたが、
最後には、
「ありがとう」と、言ってみる。
すると、彼女はまた、
瞳の見えない糸のような笑顔を、
見せるのだった。

***************************************

落ち着かない。

彼女と一緒にいて、落ち着くような気がするというのも、
無理矢理、自分に言い聞かせていただけのことだ。
結局、変わらず自分は、夜の街を彷徨い歩く。
ひとりだと、
やはりモアイのことを思い出し、
不安で仕方なくなる。
胸の黒雲が、体を突き破りそうだ。
(あのカネさえ、きれいになれば大丈夫だ)

きれいになるはずなど無いことに、気付く。
自分は、とんでもないことをしてしまったのだ。

瞬間、腹が減ったような気がした。
目の前にあった、
チェーンの牛丼店に入った。
ひどく寒い。
呼吸が異常に荒い。
スースー、ゼーゼー、という呼吸音が、
周囲の人間が振り向く程、漏れていた。
カウンターに腰かけ、店員に食券を渡して、
目の前に丼が置かれたそのとき、
水風船が弾けるように、
胸の中にあった黒雲が、
肺をつきやぶった。
同時に、
つま先辺りから、
ドス黒い音風が間欠泉のように吹き出し、
自分の肉体を突き上げた。

「おおおおおおおおおお!」

これは、心の声だ。
実際には発することすら、出来ない。
全ては、幻覚だ。
だが信じられないような、邪悪と恐怖の感触は、
まぎれもなく本物だった。
可笑しなことだが、
(自分の人生にこんなことが、起こるなんて)
と、感じている心も何処かに残されていた。

大声で、叫んでいるつもりだったが、
声が出ない。
牛丼には手をつけず、
弾丸のように、店を飛び出した。
(先払いで無ければ、無銭飲食を働いていただろう)
もちろん、周りの客の様子など覚えていない。

自分の足は、本能的にモアイの粉もの屋へと、
向かっていた。


*この自伝は、事実を元にして書いていますが、あくまでフィクションです*

つづく→