宮古島、ジェンダー、野党共闘、愛、平和
ごく身近な人が宮古島に行き、帰ってきた。
この2021年11月14日、
宮古島に建設された自衛隊の訓練場に、
大量のミサイル弾薬が運び込まれることは、
私も知っていた。
彼女から、
ミサイルが運びこまれた翌日の、
夜の島の様子を聞いた。
弾薬庫は、
村落のごく近くにあり、
不気味なほど静か、
そして、こうこうと明るかったそうだ。
穏やかな村落は、
人々がすやすやと眠りにつく場所。
畏怖しなけれはならないような、
暗さの中、
不自然なまでに、
明るい弾薬庫を間近に見ると、
ごく自然な感覚で、
「これは、あかんやろ」
と無心に思えたらしい。
それを聞いた私は、
「ああ、この感覚を本当に大切にしたい」
と深く思った。
「これは、あかんやろ」
この、
論破されてしまおうと思えば、
カンタンに敗北してしまう言葉。
私自身、
東アジアの地図を上から見下ろしたとき、
悪夢のような中国共産党の存在と、
オモチャみたいな防衛ラインが見えて、
「これは、あかんやろ」を、
簡単に覆してしまいそうだ。
でも私は、
「これは、あかんやろ」
という感覚を一生大切に持っていたい、
この感覚を、多くの力で守りたいと思った。
きれいごとではない。
単に、
追い込まれた私が、その道を選択しただけなのだ。
ジェンダーレスが、
鬱陶しく言われてるこの時代に、
言いにくいことだが、
「これは、あかんやろ」
と、恐怖することが出来る感覚は、
女性性の方にこそある気がする。
だから私は、
間接的に、
人を殺さねばならないような、
決断をくだす
破目になるかもしれない、
政治決定の場に、
女性性を持つ友人を、
送り込みたくはないし、
無理くり、
送りこんだところでどうするのだ?
他にもっと、
良い方法があるだろう?と思う。
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宮古島の話を聞いた後、
自分の住む京都を思うと、
妙な気持ちになる。
私の地元では、
先の選挙で、
第一野党の若手政治家が、
憲法改正に対抗するための、
一回きりの反則技であったはずの、
野党共闘という、
「自民党・公明党でさえなければそれで良い」
という、
何がやりたいのか全くわからない、
イデオロギーですらない熱狂のドサクサで、
莫大な得票数を確保し、
対抗馬である、
女性候補(自民党の女は女にあらずなのか)を、
全く問題にせずに破った。
この何処をどう切っても、
信用のできない、
マンガの悪役みたいな、
若手政治家は、
その地道に積み上げてきた努力で、
もはや政界のトップの位置すら、
薄らと見えてきたようだ。
こんな男が、
政治のトップに近づいたところで、
宮古島のミサイルはどうなるわけでもない。
我を忘れてしまった無数の選挙権達は、
実際、
この国の何をどうしたいのか、
戦争と平和の最前線が何処にあるのか、
全く深く考えないまま、
こずるい奴を、権力の座に押し上げていく。
(今の自由民主党のトップが、
権力を握らされるようになったのも、
似たような衝動からだろう)
*
数年前と、
同じことを言いたくないのだが、
野党共闘とは何なのだろうと思う。
「闘!」
誰にもわからないだろう。
本音の部分で、
‘与党を引きずり下ろしたい=権力を我がものにしたい‘’
以外、何も中身がないからだ。
何もないことに対して、
賛同のしようがないことくらい、
人は勘でつかみとれる。
人間全員に、
PCR検査をすれば、
新型コロナウイルスの危機が、
克服できると、
心の底から思っているのだろうか?
コロナ渦の中で、
たった一度の青春を
過ごさなければならなくなった若者のことを、
真剣に考えて、
そのようないい加減なことを、
言ってるのだろうか?
*
宮古島の今を聞いて、思う。
そもそも、
人は一体何がやりたいのか?
そもそも、
人は一体何がやりたかったのか?
愛のために、
平和のために、
生きているはずではないのだろうか?
忘れてしまったのか?
愛と平和。
それは、特に誰にというでもなく、
自然に存在する感覚のはずだ。
だというのに、
愛とか、
平和とかいう単語が
奇妙に神聖視され、
だからこそ、
安っぽく使われるようになった。
私は、
愛とか、
平和とかいう言葉が、
大きらいになってしまったのだ。