2018年12月14日 ~藤田嗣治展を観に行く~
休日。
会期ほとんど、
ギリギリの所で、
藤田嗣治展を観に、京都国立近代美術館に行く。
ほとんど、知識ゼロ。
(何故、知らなかったのだろう?)
観客の中には、
丸メガネに、オカッパ頭の、
藤田嗣治になりきった若者の姿をちらほら見かける。
まるで、
ローリング・ストーンズのコンサートみたいな風景に、
驚く。
あ、自分も丸メガネだ。
*
平日なのに、
館内は人で溢れ、熱気で満ちている。
なるべく、疲れてフラフラにならないようにしないと。
最初に惹かれたのは、
初期作品だという、静物画だった。
『野兎の静物』
『アネモネ』
『バラ』
作家の、誠実な眼差しを感じた。
‘1922嗣治’
と、記されたサインが、
時を越えて語りかけてくる。
完成の手応えを感じて、
キャンバスから絵筆を離した瞬間が、
確かに、
1922年のある日に存在したのだな、
と思う。
反射的に、こんな誠実な絵を描いた人が、
どうして戦争画というものを、
描く経緯ができたのかな、とも思った。
小品にも、惹かれる。
『十字架の見える風景』『パリの小学生』
心惹きつけられたものを、
見過ごさないとしてるかのような作品。
いい人だ。
35歳の自画像。
くだけ散りそうな自己を、
オカッパ、丸メガネ、髭といった、
記号化されたヒップなファッションと共に、
キャンバスの中に、封じ込めたかのよう。
芸術家は、
自分を確かめるために、
セルフ・ポートレイトを繰り返すのだな。
他の自画像は、
何故か、
マンガ、浮世絵、日本画っポイ、
平面的な描き方をしている。
何でなんだろう…?
誰か詳しい人。
『ヴァイオリンを持つ子供』
子供の全体像が描かれているけど、
顔はどう見ても、不安気な成人女性。
この、表情の中に作家は何を見出したのかな…。
足を止めて観てしまう、作品。
名高い、
乳白色の裸婦の連作の展示場に行くと、
(それもこの場で知ったことやけど)
観客たちは、
目を丸くして、作品に吸い寄せられている。
自分も、そんな目をしていたに違いない。
確かに、
それまでの作品とエネルギーが違う。
「オレは、描き方を見つけたんだ!」
という、喜びが伝わってくる。
背景に描かれている、
シーツや布や小動物の描写も、緻密で美しかった。
うまい。
デッサン力すごい…。
これが、裸婦の美しさを際立たせて、
作品に説得力を持たせているんだなア。
『舞踏会の前』
『砂の上で』
を、特に好きになった。
自分も、裸婦を描いたことあるけど、
全然修練せんくて、ダメだった。
藤田さん、描いてて楽しかっただろうな。
羨ましい。
ここから先の時代の作品は、
手にそのまま、描かせていたのではないかな~
と、思った。
人生に、
落ち込みや高揚の浮き沈みはあっても、
創作上の恐怖は、
余りなかったのでは。
『spanish beauty』
が、スッとしてて良かったです。
先も書いたけど、
藤田さんにとって、
戦争画ってなんやったんやろ?
今回観たのは、
アッツ島で多くの日本兵が、
残虐に死体となっている絵。
いわゆる玉砕だ。
負け戦、を描いている。
血肉の描写はないけど、
残酷さは本物だ。
技法も他の作品とは全然違っている。
とにかく、
自分はアメリカと戦うことは、
これほどまでに恐ろしいことなのかと感じた。
とても、
『spanish beauty』と、
同じ作者とは思えない戦争画。
この回顧展の全ての作品を観終わったときに、
自分たち観客も、
作者の藤田さんも、
知らぬ間に、ここまで多彩な表現をしていたのか!
と、気付かされるような、
スケールの大きな展覧会でした。
『アネモネ』
を、部屋の壁に飾りたい…。
*
展示会場を出た所は、
美術館の中の3階で、
見晴らしの良い、大きな窓があるのだが、
そこで妙に多くの人が、スマホを掲げていた。
平安神宮の鳥居を撮っているのかと思ったが、
虹が出てたのだった。
大きい虹だったらしいけど、
自分が見たときには、
ほとんど消えていた。
あれほどの作品を観たあとでも、
人は虹を見たがるのだな、
と思った。