たろうの音楽日記

日々の音楽活動に関する覚え書きです。

読書の効用①~カラマーゾフの兄弟~

新聞を読む、というのは、
中々辛いものだ。
なぜなら、

自分は、出来る限り、
悲惨なことからは、
目をそむけようとする人間なのだが、
何かが、私にそうさせないから。

 

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↑例えば、
6月13日の朝日新聞
パレスチナ人の、

男の子は、
自分以外の家族を、
襲撃により殺された。
男の子は、私の息子と同じ歳。

世界から入ってくる、
情報に耐える自信が、
私には、ない。
情報が、重いからではない。
入ってくる悲劇は、
私の足元から、地面を通じて、
悲劇のある場所と、繋がっているからだ。
それが現在であれ、過去であれ。
だから避ける。

でも、自分は

何かの力の作用で、
何処か遠い場所で起こった、
悲劇を、自ら捕えに行くことも、ある。

情報から得た絶望を、

いかにやりすごして、

生きてきたのだろう?

それは、
間違いなく、
読書体験のおかげだ。


カラマーゾフの兄弟

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この古典文学のおかげで、
私はどれほど、
情報の難所を乗り越えることができただろう?

 

大学には、
入学してすぐ、行かなくなった。
18歳にもなって、
文化祭で、プロレスごっこをしたり、
TVゲーム「ぷよぷよ」をしたり、
幼稚なロック・バンドで遊んでいる、
周囲の状況が、
考えられなかった。
この状態の学生が、
40歳くらいになったら、
世の中どうなってしまうのだ?
と、思った。

なので、
アルバイトに行く以外は、
本を読むことにした。
大学は、
山形県にあったので、
冬になると、
アパートの周囲は、
日本海側独特の、
深い雪で包まれ、
信号機からは、つららが下がるほどだ。
外に出ること自体が、
難しい。
本を読むには、
持ってこいの環境だった。

とりあえず、


トルストイの「戦争と平和」「アンナ・カレーニナ
ドストエフスキーの「罪と罰」「カラマーゾフの兄弟


だけは、読んでおこうと思った。
何故、長編ばかりなのかというと、
ある作家が、


「長さのある古典は、

 若く、体力と時間のあるうちでないと

 読めない。
 読んでおくとトクだ」


と、言っていたからだった。
実際、その通りだった。
今は、時間がなく、
とても、読めない。
この言葉に、感謝する。

もうひとつ、
これは、
結構、人生の分岐点ではないか、と思うのだが、
なぜ学術書とかではなく、
小説なのかと言うと、
(「資本論」とかに行くコースもあるはずだった)
単なる偶然か、資質なのだろうか…
また、違うタイミングで、
岩波文庫

ドイツ・イデオロギー
なんかも開いてみたのだが、
2ページで挫折した。


サッカーで言ったら、
フィールドに入った瞬間、
勝手に、肉離れを起こして、
退場したようなものだろうか?


これは最近、
ある人に聞いたのだが、
ドイツ・イデオロギー」は、
〇ルクスだか、〇ンゲルスだかが、
まだ若く、思想的にも、固まってない頃の著作で、
そのぶん、
読みこなしもハチャメチャに難しい、
ということらしい。


「薄いから行けそう」

と、思った私が、

浅はかだったのだ。

話を戻そう。
ドストエフスキーよりは、
トルストイの2作の方が好きだった。
トルストイの作品には、
素敵な女性が、出てきた。

アンナ・カレーニナ」のアンナは、
罪の香りがする、きらびやかな女性。


「戦争の平和」のナターシャは、
いつも一緒にいたくなるような、
かわいらしい、女性。

(作品最初の方では『女の子』ですら、あった)
~だったと、記憶する。

この二人の女性に、
この時期に、出会ったことで、
自分の恋愛や、

女性との友情は、
ある程度救われ、
また、研ぎ澄まされてしまったのかも、
しれない。

ただ、ここが
私のアホなところなのだが、
これほどの長編を読んで、
肝心のストーリーの記憶は、ほとんどない。
一回しか読んでないから、
当然だが。

「アンナが、可愛かった、
 ナターシャが、可愛かった」


が、この古典文学を読了した感想では、
情けなさすぎる。

だが、それで良いとも言えるのだ。
小説を読むのは、

気楽なもので、
学術書のように、
暗記したり、
マスターしたり、
論じたりする必要はなく、
言うなれば、旅行のようなものだ。
人物との出会いと、別れ。
うっすらとした思い出が、残れば良い。
「そういえば、あのとき、あんな女の人と出会ったな」
と、いう風に。
それが、後に生きてくる。

付け加えると、
トルストイという、
「おっちゃん」が創作した、
女性像だからこそ、
18,9歳ソコソコの頭でも、
ついていけたのかも、しれない。

トルストイに比べると、
ドストエフスキーの作品は、

「えらく…むさくるしいな」

と、いったところだった。
登場人物のほとんどが、男だった気がする。
カラマーゾフの兄弟
の3兄弟は、全員男で、
もうひとりの、主要な人物は、
兄弟の父親と、私生児の男、
あとは、長老…とか。
まるで、男子高だ。
しかも、
登場人物のひとりひとりが、
妙に理屈っぽく、
掴みどころが無い部分が、あまり無い。

だが、最初に述べたように、
新聞を読むことで、
私に、日常的に訪れる絶望から、
いつも、
救いあげてくれるのは、
この作品を体験した、
記憶だ。

カラマーゾフの兄弟」で、
特に好きな人物は、
次男のイワンと、
三男のアリョーシャ。


イワンは、

論理的に物事を考え、
世の中を、

冷めた目で見てるようだが、
心根は実は純粋で、
それゆえに、
常に、自分で自分を追い詰めている。

アリョーシャは、
無防備なほどの純粋さを、
世間に晒しながら生きているが、
実は、物語に出てくる、
誰より芯が強い。

この二人の、
対話が、
カラマーゾフの兄弟」の物語の根幹を、
支えている。

イワンは、アリョーシャに話し、
問いかける。
まるで、アリョーシャが、
唯一、心の奥底を、

打ち明けられる相手であるかのように。

以下、二人の会話で、
当時印象に残った部分を、
抜粋していく。


イワン↓
「30歳までは、どんな幻滅にも、人生に対するどんな嫌悪にも、
 オレの若さが、打ち克つだろうよ!
 オレは自分に、何度も、問いかけてみた。
 オレの内部の、この狂おしい、不謹慎とさえ言えるような、
 人生への渇望を、打ち負かすほどの絶望が、

 果たして、この世界にあるだろうか?

 そして、どうやら、そんなものはない、と結論したのさ」
 
イワンは、続けて言う↓
「アリョーシャ、生きていたいよ、
 だからオレは、論理に反してでも、

 生きているのさ。
 たとえ、この世の秩序を信じないにせよ、
 オレにとっちゃ、
 『春先に萌え出る、粘っこい若葉』が貴重なんだ。
 青い空が、貴重なんだよ。
 そうなんだ、
 時には、
 どこがいいのかわからずに、好きになってしまう、
 そんな相手が、大切なんだよ」

 

すると、アリョーシャは、兄イワンに問うのだ↓

「兄さんはなぜ『この世界を認めないか』を、僕に説明してくれる?」

イワンは答える↓

「『野獣のような』人間の残虐なんて、

 表現をすることが、あるけど、

 野獣は決して人間みたいに残酷にはなれないし、

 人間ほど巧妙に、芸術的に残酷なことはできないからね」

 

イワンは、続けて言う↓

「五つの女の子を、
 両親は、

 ありとあらゆる手で痛めつけたんだ

 ~そのうちついに、

 この上なく、念のいった方法に行きついた。 

 真冬の寒い日に、女の子を一晩中、便所に閉じこめたんだよ」

(これは実際に19世紀のロシアであった、社会事件だろうか?)…太朗の疑問。

 

「自分が、どんな目に会わされているのか、
 まだ意味さえ理解できぬ、

 小さな子どもが、真っ暗い寒い便所の中で、

 悲しみに張り裂けそうな胸を、ちっぽけな拳でたたき、
 血をしぼるような涙を、恨みもなしに、おとなしく流しながら、
 『神さま』に守ってくださいと、泣いて頼んでいるというのにさ。
 お前には、こんなばかな話が、わかるかい」

 

「たとえ、苦しみによって、永遠の調和を買うために、

 すべての人が、苦しまなければならぬとしても、

 その場合、子どもにいったい何の関係があるんだい?

 ぜひ教えてもらいたいね。何のために子どもたちまで、

 苦しまなけりゃならないのか、

 何のために、子どもたちが、苦しみによって

 調和を買う必要があるのか」

 

「そんな調和は、小さな拳で、自分の胸をたたきながら、

 臭い便所の中で、償われぬ涙を流して『神様』に祈った、

 あの痛めつけられた、子ども一人の涙にさえ値しないよ!」 

 

 このイワンの執拗な、

 問いかけに、
 アリョーシャは、


「じゃ、粘っこい若葉は、大切な墓は、
 青い空は、
 愛する女性はどうなるんです! 

 どうやって兄さんは生きてゆけるんです?」


の、言葉と共に、
兄へのキスで、答える。

(今読むと、この状態の男性から愛される女性は、かなり迷惑かもしれない)…太朗


引用は全て、
新潮文庫原卓也訳からで、
上・中・下巻の、

上巻の最後のあたりだ。


(少しだけ、太朗が変えて引用してるとこも、あります)
 

中巻、下巻と読み進めてみても、
次男イワンの苦悩は、特に解決しない。

それどころか物語は、死、殺人、狂気、裁判、冤罪等々、
救いのない方向に、行くばかりだったと、記憶する。

はっきり覚えているのは、
物語の終焉だ。
さまざまな苦難と、兄弟の不幸を見届けた、
三男アリョーシャは、子どもたちに囲まれ、
彼女、彼らに、
希望に満ちた説法をする。
この場面は、ものすごく唐突だった。
絶望の物語に、
不意に現れた希望。

アリョーシャは、子どもたちを、
『美しい灰青色の子鳩』と例え、言う↓

 

「なぜ、悪い人間になる必要が、あるでしょう。
 そうじゃありませんか、みなさん?
 僕たちは、何よりもまず第一に、
 善良に、それから正直になって、
 さらにお互いに、みんなのことを決して
 忘れないようにしましょう」

アリョーシャの言葉の引用は、ほんの一部。
通して読むと、もっと、素晴らしい。


子どもたちは、アリョーシャを取り囲み、
口ぐちに、

 「カラマーゾフさん、僕たちはあなたが大好きです!」
カラマーゾフ万歳!」
と、希望に満ちた叫び声をあげて、

物語は終息する。

何故、長すぎる絶望が、
唐突な希望となったのだろう?
それは、そんな話だったから、
としか、言いようがない。
通読すると、
「こうなるしか、ない」
と思えるのだ。
夜明けと一緒で、

来るものは、来る。
人間の力であり、人間の力を超えている。
そして、物語そのものの、力だ。

さて話を、冒頭のテーマに戻す。


私は、カラマーゾフのイワンのように、
体の中に絶望的な新聞記事を、通過させる。
それが、カラマーゾフ流に、
根拠のない希望に転換されるのを、
期待して。
絶望を知らぬものが、
社会に対して、
人間に対して、
貢献もできるはずもないからだ。

カラマーゾフの兄弟


この本そのものが、

一度だけ、私の体を通過し、
かろうじて存在する、
耐久力の装置を、
作り上げてくれた。
これが、読書の効用だ。

最も、
カラマーゾフの兄弟
は、そんな単純なテーマの話ではなく、
わずかな引用箇所を見ただけでも、
ピンとくる人は、
ピンとくるだろうが、
19世紀ロシアの生活に、
深く根を降ろしている、

カトリックの教義と、
合理的な現実感覚の対立、
と、いったテーマが大きいのだろう、
多分。

(そういえば、遠藤周作の「沈黙」は、日本型村社会・封建制度

 異端としてのカトリックの対立が、テーマだった。しかも、
 観念的でなく、人間ひとりひとりが、苦悩し、生き生きし、
 血が通っているのは、ドストエフスキーと、一緒)

 

 

冒頭のスクラップ記事と
同日の朝日新聞に、
ロシアで、
逮捕・流血も発生した
反政府デモがあったと、
載っていた。
私は、恥ずかしながら、
現在のロシアの事を、
全く知らないが、
この写真の中に、
イワンやアリョーシャがいるのではないかと、
つい捜してしまう。

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 何となく、
このまま、ダラダラ書き継げそうな、
テーマだが、
長くなり過ぎたので、
一端ここで終了とします。

よって①と、しときます。
続きはあるかもしれないし、
ないかも。

 

 

 

こんな文章にタイトルはいらない

 

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タイトルを見て、
面白そうだと思って、
読んで見ようという気になった方、
すみません。
面白くない文章です。
(よくある話です)
完全に、自分のための覚書です。
タイトル
TATTOO」でも、良いですね。
THE WHOの曲で。

前職の、

CD屋の店員をクビになって、
丸3年、経っていた。
一体、

3年間も、

何をやっていたのだろう、と思う。
現時点で、自分は何ひとつ成し遂げていない。
理屈抜きで、手応えとして、そうなのだ。

つい先程、
超個人的に、
「何でこんな、体たらくに…!情けない…!」
と、思える出来事があった。
別に、人間関係とかではない。
ほんの、小さな事かもしれない。
全ては、自分自身の不甲斐なさ。

「定職」から逃れ「自由」になった日から、
3年。
今の自分の立場を、
人は「主夫」という。
でも、そんなものでは、全然足りないのだ。
自身に成長がなければ、
世の中に変化など、起こるはずもない。

振り返ってみる。
20代から、
30代にかけて、
芸大の環境に、

納得がいかなくなった自分は、
少々、こぼれ落ちる存在になるのは覚悟して
(些細なことだった)
アルバイトをしながらで良いから、
細々と、
自分が表現できることを、
探して行こうと、決意した。
アルバイトを転々としながらでも、
世の中の事を学ぼうという、
強い意欲があった。
どれほど、困難な環境でも、
表現しようとする意欲は、

死ななかった。

納得したら、
就職しようと、思っていた。
惜しむらくは、

「意欲そのもの」しかなかった。
表現したい中身が、特になかった。

3.11以前の、
自分にとって、
現実的な社会問題は、
正直、
「若者の貧困」くらいのモノだった。
それくらい、ノン気でどうしようもなかった。


それでも、
絞り出すように、
20代の表現を生きた後、
何もかもに懲りてしまい、
CD屋のアルバイトとして、
30代いっぱいを、ほぼ過ごした。
一切の表現から、
手を切ったにも関わらず、
かなり出来の悪い店員だった。

40過ぎて、
もう一度、
表現しようと、やり続けている。
方法など、わからない。
こんな駄文を描き続けている。
自分の中の、
死に切れない何かが、
「書け」「書け」と言い続けている。
とにかく、
自分には、無駄にできる時間などないはずなのだ。
風邪をひくと、
悔しくて仕方がない。
責任を取れていないこと、
思いやりにかけていること、
だらしない肉体をしていることが、
悔しくて仕方ない。


ノン気を気どることなど、限界があるはずなのだ。
一分でも惜しいのだ。
その癖、貴重な時間をうっかり、
ドブに捨てては後悔を繰り返し、
友達とは、
考えられる限り、

ダラダラと過ごすのが大好きという、
矛盾に満ちた人間だ。

それでも、
今、生きているこの一日から、
無駄という無駄を、
絞って行こうと思う。
もっと、集中して行こうと思う。
何せ、誰も見ていないだから。
誰も見ていない時間の中に、
自分の最大の弱点があるのだ。

 

月イチスケッチの日

今日は、

友人で画家の、
あさちゃんが呼びかけの、
「月イチスケッチの日」に参加。
草津は志那町の琵琶湖沿いのキャンプ場へ、車を走らす。

車に乗る限り、滋賀でも少しは、アピールしたことになるか↓

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到着後、
友人たちへの挨拶も、そこそこに、
早速、スケッチにとりかかる。
今日の琵琶湖は、ひどく調子が良い。
波の形を捕えようすると、
自然と、波の表情が理解できる。

今日は、子どものように笑っている。

思わず、
「おお!」と声が出るほどだ↓

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杭の並びも、美しい。
杭から、描いてみる。
色もつけてみる。
あっ、白い絵の具を切らしていた。
苦しまぎれに、青と緑のみで仕上げる。

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自分は、色をつけることが、得意でない。
なぜだろう?
と、思う。
人から離れて、湖岸べりを散歩しながら、
はじめて、絵の教育を受けた、
美高時代から描いた、
自分の絵を、
一枚一枚思い出して、考える。

長年、引っかかっていたことだ。
なぜ、自分は絵が描けなくなってしまったのか?

デッサンが好きだった。
でも、それだけでは、どうにもならぬ。

自分が、高校生のとき専攻していたのは、
日本画だ。
日本画の下書きである、
「骨書き」の状態が、割と好きだった。
筆で描かれた、輪郭線のみの絵。
でも、それだけでは、どうにもならぬ。

「骨書き」に、薄墨を加える。
この状態も悪くない。
でも、それだけでは、完成ではない。

石の絵を描いたことが、あった。
夢中になって、模様を描いたのを、覚えている。
担当の先生から、
絵具を薄く塗って模様を潰し、量感を出すように、
指示されたが、断った。
自分にとっては、量感より、ディテールの方が、
はるかに、重要だった。
色など、ついでに塗ってるだけだった。

高校二年になって、
課題の絵のサイズが、急に大きくなった。
普通に、展覧会とかで見かけるような、
日本画のサイズだ。

ここで、まったく手に負えなくなった。
デカすぎて、描ききれなくなった。
最後に、一生懸命に描いたのは、
椿の絵だった。
形をとる楽しさは残ったものの、
色を、つけるという作業は、
完全に、わからなくなった。

なので、
ムスメ(3歳)の描いている絵を見て、驚いた↓

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素晴らしい、色彩があった。
父が何十年も、越せない壁の向こう側に、
最初から、いる。

父は、意地のように形にこだわってみる↓

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クロッキーの訓練を、

もう少し、

積んでおけば良かった。


もう一度、琵琶湖に挑んで見る。
まるで、勝負事だ。
そのたびに、負けて帰ってくる。
自分のような、描き方をしていると、
不満がつのるばかりだ。
描く前は、いつも思う。
絵の神様、どうか、ボクのこの、

ちっぽけな寂しさを、
描くことによって、埋めてください。
もっと、うまくなりたい。

波は、激しくなっている。

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スケッチは、楽しい。

楽しくて仕方がない。
絵を描くというのは、
こんなにも、楽しかったのか。
何もかも、許される時間だと思える。

自分の視覚に収まる範囲で、描くのが、
すごくやりやすい。
デカイ絵は、もうたくさんだ。
自分は、小さく描くタイプの絵描きだったのだ。

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↑火をおこす、あきさんと子どもたち。

たくさんの先生に、絵を教わったが、
さほど、仲良くもない先生が、
「自然を描いていて、それが壊されるのを見ると、心が痛む」
と、言っていた。
当時は、何とも思っていなかったが、
もし、この表情豊かな、琵琶湖が、
放射能で汚染されたらと思うと、
心が痛むどころでは、すまされない。

人間にとって、
本当に必要なことが何かを実感したければ、
軽く、スケッチをすればよいのだ。

「お父さんは、いつものことを、描けばいいねん」
これは、ムスコの言葉だ。

そのムスコは、

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とにかく、お姉さんと遊ぶのが、

楽しかったようです…

帰宅して、
今日描いた絵を整理してたら、
過去に描いたのが、
出てきた↓

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そのまま、描いたのだ。
これ以降、
さらなる悲劇が、どれくらいあったのだろう?
今も、あるのだろう?

沖縄の海、福井の海、京丹後の海、
描きたいです。
いつか、スケッチ旅行に行きたいです。

お気に入りのお店~パンフルート~

たまには、よく行くお店とかも、

書いてみようと思うんです。
今日は、
京都の醍醐にある、
パンフルート」です。

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うちのムスコとも、チョイと縁があり、
よく行きます。
もう凡百のパンは食べられなくなる、
おいしさと安心素材のパンです。

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↑これは、レーズンボールかなあ~
丸くて、かわいくて、おいしい。

 

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↑やっぱり、シンプルに食パンが一番!


パンフルートに寄ったあとは、
子どもと、平和堂の吹き抜けに、
よく、行きます。
ボクは、吹き抜けとか、踊り場とか、渡り廊下とか、
大好きなんです↓

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吹き抜けから、移動。

初めて行く公園、
初めて見る遊具で遊ぶ、

子どもたち↓

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この後は、
図書館に行ったり、
また、別の公園に行ったり。
ボクは、考えごとを始めたので、
子どもたちは、
面白いことをしていたはずなのですが、
覚えていません。
人生って、そういうもんですね。
でも、それが幸せの一部分です。
ボクは、世界一幸せな人間なのではないかと、思うんです。
ボクには、傷ひとつありません。
だから、何とかしないと。

 

オマケです。
ムスコ原作、作画ボクのマンガです↓

なんのこっちゃわかりませんが、
そういうのが、

案外良いのかなとも、思います。

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オマケのオマケ。
ボクの部屋の壁。
ムスコとボクが描いたマンガやら、
思い出のポスターやら、チラシ、
スケッチ、歌詞等でいっぱいです↓

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ムスコの描いたマンガなんか、
またアップしたいですね。

おしまい


 

 

私は、恋愛経験豊富か?

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恋愛について、

何度も、語ろうとする人間ほど、
愚かなものはない。
私のことですね。

恋愛が、

うまくいけば、
ゴルフでいうところの
ホールインワン
それで終了、大成功。
おしまい。
あとは、世のため人のために、
役立つ生き方をすればよい。

私の恋愛は、
全て、失敗というか、
いや、失敗などという立派なものでなく、
単なる、愚かな体験で、
語るに落ちる。

どうしようもない。

恋愛経験豊富というのは、
結構な言葉だが、
自らの重荷や失敗や傷を
抱えて、店先に並べるようなマネを

して、何の意味があるのだろう、

と、思う。


ただ、それは自分に換算したら、

と、いうだけのことであって、
赤の他人の恋愛が

一体、どうなっているのか、
精密機械の中身同然、
私には、
本当に全くわからない。

そんな体たらくだから、
前回の記事で、

文筆家として、
何でも書く!と宣言したものの、↓

tarouhan24.hatenablog.com


一番人気のあるジャンル、
「恋愛相談」だけは、
キッパリ、お断りしようと思っている。

さらに言うと、
私は、恋愛経験豊富ですらない。
恋愛経験豊富でも、ないくせに
恋愛のことを、

繰り返し、語ろうとする人間は、
いよいよもって、救いようがない。

 


私は、詐欺的な、空想家だ。


20年以上前に、
30分間、
食事をしただけの
彼女のことも、
さも、恋愛の入り口から、

出口までを、経験したかのように、
詩的に仕立て上げることが、できる。

その、

20年以上前、
30分間、
食事をしただけの彼女から、

何故、私が逃走したかを、
最初に、述べないといけない。


「将来は、お店をやりたい」


彼女が放ったその一言から、逃走した。

本当に、

ただそれだけ。

記憶は曖昧だ。
京都に住んでる人間らしく、
鴨川べりで、

会話していたような気がする。

 

30分、

食事をした後、

散歩した。
何作かの、共通の好きな映画の話をし、
いくつかの、共通の好きな音楽を見つけた。
その後、
…それとも、その前だろうか?
確か、カラオケに行った。

私は、
椎名リンゴとかを歌って、
(当時の)今時の、人間を演出していたが、
実際の私は、つげ義春
「やなぎや主人」が、大好きな、
20歳だった。

だから、

将来、
どこぞのお店に佇んでいる、
自分と彼女を想像すると、
反射的な恐怖から、逃走するしかなくなったのは、
必然だった。


これでは
全くの、説明不足ですね。
お許しください。
経験していないも同然の、

恋愛を語ることなど、
「面白い夢を見た」話同様、
聞く側からしたら、

全く、面白くないものなんです。

ハッキリと覚えてることは、
その後、
直接だったか、
他人を通じてか、
「また、逢いたい」

と、いうメッセージが彼女から、来たこと。


「これは不幸だ、大失敗だ」

私は、思った。


ラインもSNSもなく、
連絡方法が、
携帯とメールしかなかった時代
に、救われる。

文字通りの、
単に逃走。

彼女だけでなく、
彼女近辺の人間関係からも。

「引っかけ」そこね、
「引っかけられ」そこねた、話。


私の恋愛経験は、豊富でしょうか?
違いますよね。

全く、
こんな話は、

書く方にも
読む方にも、時間のムダなんです。

 

5月29日、
おそらく、
一年で、

一番気持ちの良い風が
吹く日。
今、運動会の代休で、
学校が休みの子どもが、
友だちを
家に連れてきて、
私の作業の邪魔をしている。

ここには、
生活があるだけ。

結局は、
「努力する」とか、
「頑張る」とか、
「襟を正す」とか、


『恋愛』とは、
かけ離れた、
暑苦しいワードで、
文章を終わらせることになる。

まるで、ヤケクソ。


夏の前に、
梅雨があります。

筒井康隆の死

 4月8日の朝日新聞で、

作家の筒井康隆が、
慰安婦像に性的侮辱表現をして、
問題になっているという、記事があった。

どのような、ひどい表現をしているのかは、
確認する必要がないな、と思った。


何せ、この作家はただ単に、もう古いのだ。
20年くらい前までは、この作家の信奉者は、
まだ、ちらほらいた。
作家は、朝日新聞の取材に対し、
「あんなものは、昔から書いてます。
ぼくの小説を読んでいない連中が言っているんでしょう」
と発言していたが、そうではない。
読んでいない連中が、存在するのではなく、
もはや、彼の作品に興味を持つ人間が、

これからの時代、存在しなくなるのだ。

 

全盛期の彼は、
パロディーとか下品な表現とかで、

タブーに触れ、
人の神経を逆なでする面白さを、

信奉者と共有し、
「良識」がある人間を、
頭が固く、ようふざけへんバカ、

というポジションに
無理やり追い込み、
精神的優位に立ち、
快感を見出すというのが、お家芸だった。
(一言で言うと、悪童)
彼と、彼の信奉者の間では、
事の本質や人権感覚を「あえて無視」して、
面白さを最上のものとすることが、

粋であり、知性的であるという、
暗黙のルールがあった。(かつては)


彼の全盛期からは、
とうに時は流れ、
世界は、
様々な問題を、
現実的に解決の方向に向かわせなければならない、
時代にシフトチェンジした。
単純なことだ。
ちょっと思い出しただけでも、
阪神大震災オウム事件、9.11、原発事故。
たくさんの悲劇があったからだ。

今や、彼が人生をかけて、
苦労して作った‘超’虚構世界や笑いなど、
全くの、無用の長物になった。
彼が頑張って論陣を張っていた、
言葉狩り’の問題など、
政府が本気で共謀罪などを
成立させようとする時代には、
あまりにも、のどかなもので、

そもそも、誰も覚えていない。

脱走と追跡のサンバ」「虚構船団」
文学部唯野教授」「残像に口紅を
「パプリカ」
を、それぞれ2ページずつ読んだ、
ボクは、立派な筒井ファンだろう。
念のため、
どんな発言をしたのか見てみた。

なるほど、
事の本質や人権感覚を「あえて無視」して、
面白さを最上のものとする、
お家芸
1兆歩ゆずって、
面白さを見出してみようとも、
思ったのだが。
もはや、面白さすら、ない…。

作家は、
すべてを見透かしてるかのごとく、
「炎上狙いというところもあった」
とも、言っている。
この開き直って、自分のやってることに対して、
傍観者になるという芸風も古い…。
虚しい…。

何故、地位も名誉も確立したであろう、
老作家が、
今さら現役では通用しない、
ボールを投げにマウンドに向かったのだろう?
それは、死の恐怖。
自らが消えゆく恐怖ではないだろうか。
「良識」的な生き方をしてきた人間ならば、
その志は、必ず誰かが引き継ぎ、
死など、存在しない。
だが、面白さを生業にしてきた、
老いた作家の生き様など、
誰も、引き継がない。
作品と共に消えゆく自己存在。
イタチの最後っ屁として、
この騒動につながる、くだらない発言をしたことで、
彼は、彼の人生と作品が、なにひとつ意味がなかったことを、
自ら証明してしまったのだ。

彼の作品は、韓国で発売中止になったそうだが、
そんなことをするまでもなく、
あと10年もすれば、
彼の作品は完全消滅するだろう。
本当に、只の消耗品だったのだ。
もはや、彼より若く、
どれだけ才能のない人間が、
軽く作文を書いただけだとしても、
この巨大な才能を持つ天才の作品より、優れてしまう。
それは、仕方がないのだ。
残酷な時代の流れなのだ。

「SFとか、虚構なんて、なんの意味もなかったんだよ、
普通で良かったんだよ」
いくらなんでも、
人生の最後にかけられる言葉が、これでは、
あんまりだろう。
気の毒すぎる。





失恋のしようがない

 

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手品師が、いきなりタネ明かしの話から、始める気分です。


以前、友人何人かに、
「自分はいつも失恋状態だ」と話したことがある。
それは単に、その時、自分の周りに渦まいていた感覚を、
正直に表現しただけのことだったのだが、
具体的に「失恋状態」って何なんだ?
と問われると、自分でもはっきり説明がつかなかったので、
様々な考察を呼び込むことになってしまった。

友人に会うたびに、
「今でも、失恋状態なの?」と聞かれる。
聞く立場に回ると、確かに、その言葉は謎めいている。

でも、タネ明かしをしてしまうと、簡単なことなのだ。
人は誰でも、失恋をするし、
『失恋は人生の中で、衝撃的な出来事だから、
乗り越え、糧にして生きていく』
シンプルな話だ。

 

「失恋状態」という言葉を振りかざしてしまったからには、
責任をとって、
失恋に関する問いに、何でも答えてやろう、
という気になった。
出来ないことではない。

 

『失恋は人生の中で、衝撃的な出来事だから、
乗り越え、糧にして生きていく』


元々からして、シンプルな話なのだから、答えられるはずだ。
それに、自信を持って言えるのだが、

何せ、自分は星の数ほどの失恋をしてきたのだ。

でも、待てよ、と思う。
失恋が、自分が考えるほど、シンプルな話だとしたら、
自分が経験する失恋など、
ひとつにくくって、まとめて終わってしまうのではないだろうか?
一抹の不安にも、かられる。

ローリング・ストーンズに、
「ルビー・チューズデイ」という歌がある。
これは、キース・リチャーズの失恋を歌ったものだ。

♪さよなら ルビー・チューズデイ
君の名前を呼ぶことが出来ない
君は日が経つにつれ変わる
それでも僕は君がいないと淋しい

何てもったいない!
とボクは思う。
「ルビー・チューズデイ」はストーンズの名曲だけど、
最上級の曲ではない。
人生の一大事を、たった一曲の、いい加減なバラードに
託して、投げ出してしまう。
自分の失恋がひとくくりにされて終わってしまうという、
ボクのみみっちい、恐怖に比べて、何て潔いことか。
もし、自分に音楽が作れたら、
ひとつの失恋を、無くなりかけの絵の具のように、
薄めに薄めて、引き延ばしに引き延ばして、
大事に、セコく、使いまわすだろう。

しかし…そもそもボクは、
本当に星の数ほどの失恋をしているのだろうか?
映画と、ごっちゃになっているのかもしれない。
好きな映画のほとんどは、失恋映画だ。

 

①言わずと知れた、

ハンフリー・ボガードの「カサブランカ
世界一、格好よく失恋しようとする男の物語。
どうかあれを、男の自意識過剰と言わないでおくれ。
そんなことを言われたら、救いようがない。
トレンチ・コートでも着るしかない。

ウディ・アレンの「アニー・ホール
失恋を確かめるには、人生は余りにも、短い。

渥美清の「男はつらいよ
全盛期は、年二回、盆と正月に彼は失恋していた。
それを確認して、観客は、すっきりとした気分で映画館を出る。
まるで、孤独な生贄だ。

イラン映画の「オリーブの林を抜けて」
女は、男の元をなぜ去るのか、全く説明をしない。
「何故なんだ」と男は問う。

二人は歩く。

オリーブの林を。
二人の距離は、いつまでも縮まらないまま、映画は終わる。

⑤シルベスタ・スタローンの「ロッキー・ザ・ファイナル
ロッキーは、エイドリアンとの死別という、
最大の絶望と遭遇する。
ロッキーは、ロッキーらしく、
マッチョな力で、絶望を乗り越えて行く。
年老いた彼が、次の女性に期待して!

 

果たして、ボクの体に染みついた失恋感覚は、
映画の影響か、現実のものか?
検証するほどに、わからなくなる。

ただ、ボクの失恋の記憶は、
現在のものではない(はずだ)

時間が経過する限り、誰の人生にも失恋は存在する。
たとえ、本人が自覚していなくとも、
心の小さな叫びに、耳を傾けてみれば、
確実に「起こっていること」だというのが、わかるはずだ。

失恋という音のない爆発を繰り返して、人は生きている。
決して届かない、異性、同性。
社会的な圧力や矛盾のために、

大切なものが、奪われる気持ち(それは、失恋の比ではないか)
でも、失恋のせいで、死も同然の気持ちになることだってある。
インターネットなど無かった、
10代の頃の失恋と別離は、
相手が死ぬのと同じことだった。

何が言いたかったのだろう?
そうだ、
『失恋は人生の中で、衝撃的な出来事だから、
乗り越え、糧にして生きていく』

このシンプルな話だ。

だが物事は、額面通りシンプルには行かないものだ。
歌、映画、現実、記憶、
どれを振り返っても、
何回くりかえしても、
失恋をうまく乗り越えられない。
失恋がうまく乗り越えられない限り、
自分は、愛の置きどころをずっと探し続けている気がする。
愛は決して、ひとりで成り立つものではない。
必ず、対象は必要だ。
たとえ失恋によって、対象が変わっても。
(実際は、変わってほしくないと、強く願う)
いよいよ、究極的に追い詰められてしまったら、
それこそ「カサブランカ」のように、
強がって見せるかもしれない。

あなたが、希望を持って生きてゆけますように!
あなたが、希望を持って生きていますように!
こんな風に言える失恋なら、むしろしてみたいものだ。
人を愛おしく思う気持ちが、継続的に存在するというのなら、
もはや、失恋のしようなど、ないのかもしれない。

 

本当のことを言いたくなる人は、

限られている。
すべてを打ち明けたくなる人。
それは、もう逃れられない恋愛感情だ。
それなのに、
「あなたの全てを、知りたいっていうわけじゃない」
と、言われたことがある。
今にして思えば、その瞬間から、失恋は始まっていたのだ。